第26話 浜川砲台の装備

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幕末史研究会
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第26話 浜川砲台の装備

土佐藩鮫洲抱屋敷は現在の品川区東大井二丁目付近にあった。京浜急行立会川駅の近くである。
旧東海道と立会川が交差するところに浜川橋が架かっている。このあたりは浜川町という町名がある。橋の北側、品川寄りが北浜川町で、南側、大森寄りが南浜川町といっていた。
この浜川橋の品川寄り北浜川町に土佐藩の荷上げ地があった。八百六十九坪の小さな荷上げ地が鮫洲抱屋敷と称されていた。
この抱屋敷は明暦の大火、別名、振袖火事(一六五七)のあと、土佐から海路、運ばれた木材を荷上げした場所である。
幕末期にこの抱屋敷を海へ築き出す形に拡大させて、砲台を建設している伯明治期に面積を測量した記録では二千二百余坪になっている。
この場所に嘉永七年(一八五四)一月二十一日、わずか一目で砲台を造っている。
高さが六尺、幅が三十七、八間で砲門は八カ所である。
土を盛った土手に杉の樹を斜めに立てて、縄で縛って杉の葉を土の中に半分埋めて、半分を表面に出して、土が崩れないようにした。

六貫目 ホーイッスル砲 一挺
一貫目 ホーイッスル砲 二挺
鉄製五貫目砲 五挺
計八挺を設置している。

嘉永六年六月、ペリー艦隊は三日に来航、十二日に退去している。そのあと、土佐藩は築地下屋敷から徒歩十分という距離にある、木挽町の佐久間象山塾で西洋砲術の訓練を藩士たちに受けさせている。
二十名近くの土佐藩士が象山の門下生として西洋式大砲の操作を習っている。
木挽町で砲術の基礎を学び、裏庭で大砲の模擬訓練を受けていた。
当時、塾頭は長岡藩の小林虎三郎が務めていた。

木挽町は周囲が大名屋敷、旗本屋敷、狩野勝川(かのうしょうせん)の画塾屋敷などがあり、実射訓練はできなかつた。
実射訓練は大森海岸で行われていた。嘉永七年一月十六日、ペリー艦隊が浦賀に再来航した時、佐久間象山は大森海岸で大砲の実射訓練をしていた。
おそらく一月十七日のことであろう。黒船来航の知らせが象山の耳に入った。
その日、象山は砲術塾の新入生に実射訓練をさせていたという。象山は黒船最来航の情報を聞いた時、苦笑しながら「もう来てしまったの
か、これは泥縄だな」と言ったという。
ペリー再来航は予告されていた。四月か五月の再来航に間に合うように象山は訓練をしていた。しかし、ペリーが予定を繰り上げて再来航
したので、訓練が途中で、まだ終了していなかつた。
象山は大森海岸で訓練生を前に泥棒を捕まえてから縄を絢うようなものと言ったのである。
ペリー提督は象山にしてみれば泥棒のようなものに映っていたという話である。