小美濃清明講師の略歴は上部の「プロフィール」をクリックしてください。
幕末史研究会
事務所:〒180-0006 武蔵野市中町2-21-16
FAX・O422-51-4727/電話・090-6115-8068(小美濃)
Eメール:spgh4349@adagio.ocn.ne.jp
プログアドレス:http://blogs.yahoo.co.jp/bakumatsushiken
幕末史研究会は、東京都武蔵野市を中心に1994年から活動を続けている歴史研究グループです。
第31話 斥候・森澤禄馬の報告1
26話・浜川砲台の装備、27話・祝砲の数、30話 品川海岸からの撤退命令
以上のニ話は、HP掲載の不備につき、後日に掲載します。
「さる二十八日に品川下屋敷へ出張を命じられて取るものも取らず参りました。委細のお話も申し上げらせんが、然るに、異国船は最初の頃は、猿島より野島の辺りに七艘が碇泊していました。
二十七日に至り、六艘が川崎宿の南大師川原沖へ進みましたので、諸方で騒ぎ立て品川屋敷へ二番手まで出陣しました そして、異国船は川崎まで進入しましたので、江戸人共が騒ぎ立てまして、通訳を使い談じたところ、生麦より神奈川沖二十丁位のところに碇泊しました。追々一艘が入津し都合八艘になりそこにいます。
朝昼晩、三度空砲を放っています。砲の数はわかりません。砲は三十ポンド位とのことです。
二十五日、再度、神奈川まで行きましたところ、番船(見張船)が数十艘出ておりまして、船を近づけることができずむなしく帰ってまいりました。
去る月十六日より大槻磐渓も浦賀へ斤候のため来まして、異国船が神奈川へ移動したので、又々大槻も神奈川に止宿して動静をさぐっておりました。委細は段々と分ってくると重いますが、只今は井の中の蛙のようで、格別の見分もありません。
最初浦賀にて御奉行二名、御目付一人立ち合って応接いたしました節は養老酒ならびに蜜柑をご馳走したそうです。その時はペルリは病気で上陸せず副将のアーダンス一人、ペルリの子一人(十七歳のよし)、アーダンスの子一人(二十二歳のよし)、他に異人拾人余が上陸し、アーダンスは随分酔ったそうです。その折、追々書翰を渡す段どりをききましたところ、重要な返書をいただくにつき、浦賀で受取るのは第一、御国威も立たず、使節の申し訳けも立たたないとアメリカが申し出て、拒否したので御役人も当惑したとのことです。
九日、又々応接があり、浦賀では不承知であり、神奈川之南横浜という所へ応接所、千畳敷の館を建設すると云いましたところ、承知しないで、江戸まで行くと云っています。
そして、品川海の測量を申し出ましたので断りました。
ところが、アメリカは不承知で、バッテーラニ艘で測量をしているそうです。そう云いますが今のところ見えないので、明日あたりは見えるのではないかと思います。
只今のところ、特別の風聞もありませんので、追々、格別の伝聞を伝えます。」
土佐藩は異国船・幕府・他大名家の動向を探索するために斤候を出している。その一人が森澤禄馬である。その森澤が土佐にいる留守家族へあてた手紙に斤候で得た情報を書き送ったのである。
土佐藩の斤候が何人いたのか不明だが、斤候は情報の収集と伝達を任務としており、そうした能力のある藩士がペリー来航時に、臨時御用としてその任にあたっていたのかもしれない。
坂本龍馬が斤候として任務につく可能性はあったのだろうか。