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幕末史研究会
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幕末史研究会は、東京都武蔵野市を中心に1994年から活動を続けている歴史研究グループです。
第257回 幕末史研究会
日時 2017年10月28日(土)午後2:00から4:00 会場 武蔵野商工会館 4階 吉祥寺駅中央口徒歩5分 講師 結喜しはや氏 (歴史作家) テーマ 近藤勇の妻・ツネと太田垣連月 講義内容 明治期に伝聞された新撰組局長・近藤勇亡きあとの妻ツネと 太田垣連月の話、幕末の京都よもやま話など。 会費 一般1500円 大学生 5 …すべて表示すべて表示
第25話 寺田左右馬の嘆き
嘉永七年(一八五四)一月十一日、異国船八艘、伊豆の海に来るという情報が江戸の土佐藩上屋敷(現在の有楽町・国際フォーラム)に伝えられた。
一月十二日、異国船四、五艘が下田港に近づいた。その船はロシア船であるという続報が上屋敷に報告された。
一月十四日、異国船は豆州松崎の沖を通過、帆影は見えなくなったと新しい情報が入った。
一月十五日、江戸は雪が降り、気温は寒く、異国船、浦賀に十般来航という情報が伝えられた。
一月十六日、天候は晴れたが、異国船はアメリカ船であり、十二艘という情報が伝えられ、追々七十二艘になるというデマが飛んでいた。
一月十八日、林大学頭、鵜殿民部少輔、井戸対馬守が江戸から浦賀へ向かった。
一月十九日、寺田左右馬は上屋敷から舟に乗り、品川下屋敷に向かうが、その途中、各藩の海岸防備の様子を見ていく。
築地鉄砲洲の紀州藩邸は砲眼が三カ所あり八の字に開いていた。 84
金杉の会津藩の砲台は土手に長く砲門がおよそ三十余あったが、大砲そのものはまだ設置されていなかった。
田町の薩摩藩の台場はまだ建設の最中だった。 …イ
土佐藩品川下屋敷に着いた寺田左右馬は、砲台建設の件を徳弘弘蔵に命じて上屋敷に戻った。
一月二十日、雨が降っているので寺田左右馬は鍛冶橋から屋根舟に原半左衛門と二人で舟に乗り、品川下屋敷へ向かう。
日記には次のように書いている。
(元游客、女妓ヲ載せ宴楽ヲスルノ船ナリ。今ヤヤ甲冑ヲ載せ鎗ヲ横へ兵船ノ装ヲ為す世ノ変遷程難キモノハナシト、或ハ歎シ、或ハ笑シ過ヌ。午後品川邸こ到る。)
この屋根舟は、もと遊客や芸者を乗せて宴会をほしいままにした舟である。それが今や甲冑を載せて、鎗を積み、兵船を装っている。世の中の変わることば予想もできないことであると嘆き、笑ったと記述されている。
この寺田左右馬が土佐藩・品川海岸警備陣の最高指揮官である。この寺田がこのような体たらくなのである。
ペリーの再来航は予告されていたのである。ただ、翌年四月か五月という予告が、ロシアのプチャーチンが長崎へ入港して交渉を開始したことで一月に繰り上げられただけである。
土佐藩は嘉永六年十一月、鮫洲抱屋敷の中に砲台を建設する許可を幕府に申請していた。許可は下りたが、工事は始まっていなかったのである。
急遽、建設を始めて一目で、土を盛り上げただけの砲台が一月二十一日に足軽七十人で造られた。
坂本龍馬はこの寺田左右馬が指揮官の警備陣の中に加えられている。