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幕末史研究会
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幕末史研究会は、東京都武蔵野市を中心に1994年から活動を続けている歴史研究グループです。
第25、26、27話は、こちらの都合で後日に掲載させて頂きます。
第29話 徳弘孝蔵の手紙
徳弘孝蔵は嘉永六年六月のペリー来航の後、江戸へ出て、再来航に備える準備をしている。
大砲、銃器、弾薬の準備や砲台の建設である。また大砲要因の養成も必要であった。
徳弘は多忙であり、自らそれをする時間もないので佐久間象山塾で土佐藩士の養成を行っていたと思われる。
ペリー艦隊の再来航は嘉永七年(一八五四)一月である。まだ土佐藩の準備は出来ていなかった。
一月十八日と記された徳弘孝蔵が土佐へ送った手紙がある。
「お聞き及びと思いますが、アメリカ人一月十五日に七艘で入津いたしました。小生たちは一番手として品川へ引き移りました。
さて、砲筒も台場も間に合いませんでした。知り合いに頼み台場をにわかに築き、八丁砲眼を開け、近々に出来る筈です。
八幡と申します所、大森の手前にあります。ここを陣屋としまして、幕を張り、賑々しいです。品川下屋敷も浜へは陣幕を張っています。寺田左右馬殿、原半左衛門殿が羽田、森、広瀬に代り、野本源蔵殿が御物頭になり足軽十人が付ています。品川御屋敷、陣屋に詰めています。池田運平が足軽七十人小頭。
御筒は二人、市川俊三郎と小生は例の如く足軽十人が付いています。
この度もアメリカをなだめてなだめて、なだめ付けのようです。
公義の御触書には只●ただ●只●ただ●、動揺せぬようにとの御指示が書いてあります。
さて、江川太郎左衛門殿へ仰せ付けには浦賀、本牧をも過ぎ、江戸海へ乗入れた時は異国船に乗り移り、精一杯さとし引戻させるようにとのご指示のようです。
さて小生もこの間は金川(神奈川県)辺りまで監視に行くよう命じられて行きましたところ大風雨で異国船も分からず生麦辺りより本牧あたりから見ましたところ、一カ所に集まっておらず、金澤にも四艘、浦川にも二艘とでした。今回は前回と違って見物は苦しからずというので、舟に乗り近くに寄って見られるそうです。
アメリカも磯遊びなどにバッテイラ(小舟)に乗ってきて、子供たちが恐れて駆けて帰ってくると、手招きして氷砂糖などを投げてくれるそうです。
黒ん坊が海上達者で恐れ入るとのことです。四、五間も飛び働いているそうです。船と船の間であれば棹を出しするすると伝っていき、棹を使えば三間も四間も飛ぶようです。
二十五日(洋暦二月二十二日 ワシントン大統領誕生日)には祝日で大砲を連発いたしました。これは前夜に御触れがあったので、騒がないようにとのことでした。
四ツ頃(午前十時)より轟音で五十発ほど鳴り、音調子よく陣屋にて聞き感じ入りました。
平静ですので、諸大名が毎日見物に船を出すので、まるで太閤記を見ているような珍らしい風景です。
二十四日には南の方で雷(かみなり)がしきりに鳴り、秋のようです。珍らしいことです。
近日中、この騒動はおさまり、めでたいことになることを祈っています。
陣中で実に忙しいこの中で聞きました話はこのようなものです
一月十八日」
徳弘孝蔵が「御国元社中」へあてた手紙である日付一月十八日とあるが、一月二十五日の祝砲の件が書かれているので、この手紙が書かれたのは少し後であろう。手紙に書かれている内容から推定すれば二月中旬以降であろう。