第28話 龍馬の師・徳弘孝蔵 (25,26,27話は後日に)

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幕末史研究会
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第25話 寺田左右馬の嘆き
第26話 浜川砲台の装備
第27話 祝砲の数
以上の三話は、HP掲載の不備につき、後日に掲載します。

第28話 龍馬の師・徳弘孝蔵

龍馬の師・徳弘孝蔵 徳弘孝蔵は土佐藩の西洋流砲術家である。
孝蔵は代々後持筒(藩主側筒役)の家に文化四年(一八〇七)八月十五日生まれた。十七歳で御持筒御雇となり、翌年、十八歳で江戸表勤番を勤めた。
文政八年(一八二五)父保孝が病没したので跡目相続をしている。十九歳であった。
天保四年(一八三三)江戸勤番の時、若殿様風砲御鉄砲御用、書物写し方御用、書替御用などを勤めた。
同九年から十一年までは場内鳥打御用を勤めている。常に土佐藩の砲術役の中心にいて、日本の伝統的砲術を修行していた。
ところが天保十二年(一八四一)再度の江戸勤番の時、五月九日、徳丸原で高嶋秋帆の西洋流砲術訓練を見学して、西洋流砲術に強い衝撃をうけた。
七月十日、土佐へ帰る前、秋帆を長崎奉行所江戸屋敷に訪ねて、西洋砲術についての教えを受けている。
孝蔵は砲術家として、西洋砲術の重要性を認識し、習得することを決心する。そして、秋帆の弟子で江戸在住の下曽祢金三郎の門へ入ることになる。
天保十二年十一月六日、下下曽祢へ入門。同十三年六月二十五日、免許皆伝となり、土佐藩西洋流砲術の起源となった。
翌年、藩命により、西洋式大砲を製造することにるる。製造は下曽祢金三郎に依頼し、出来た大砲を弘化二年(一八四五)九月、品川下屋敷で試射したとされている。
品川下屋敷は海岸に面していないので、付属する鮫洲抱屋敷で江戸湾に向い実射したと思われる。試射に成功したのでこの大砲を高知へ送っている。
弘化三年(一八四六)二月二十二日、この大砲を仁井田浜で試射し、二十四日、雑喉場下で藩主山内豊煕(とよてる)の御見分を受けた。
嘉永六年(一八五三)徳弘孝蔵は白札(しらふだ)となった。そして、六月三日のペリー来航により異国船御手宛御用を命じられ、急遽、江戸へ出ることになる。ここで徳弘孝蔵が土佐藩の異国船警備陣の中で砲術、大砲の指揮をとる。
坂本龍馬は江戸で佐久間象山塾に入門しているが、帰国後、徳弘孝蔵の門下生となっている。
龍馬と徳弘孝蔵の関係は江戸で始まったと考えられる。
土佐藩は来年四月か五月にペリー艦隊が再来航するという情報をもとに湾岸警備の準備をすすめている。
「覚
一、 鉄砲五十三挺
内六貫目玉一挺但台車共
一貫目玉二挺但台車共
十文目玉五十挺
一、玉薬箱壷ッ但台車共
一、鑄玉並鑄鍋其外小道具類一式」
これらの武器を土佐から海路、江戸表へ送るため、浦賀関所を通過する裏印をいただきたいという老中あての文書がある。
嘉永六年八月十四日の日付で提出されて九月十日に許可が下りている。
そして二度目として
「鉄砲 三十四挺
鉄砲玉 八千発
内十文目玉 三千発
五文目玉 五千発」
十月二十八日の日付で、十二月二日に許可されている。

徳弘孝蔵に学んだのは坂本龍馬、坂本権平兄弟の他に、武市半平太、岡田以蔵、義平父子と多士済々である。