幕末史研究会は、東京都武蔵野市を中心に1994年から活動を続けている歴史研究グループです。
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第256回 幕末史研究会
日時 2017年9月23日(土)午後2時から4時 会場・武蔵野商工会館4階 吉祥寺駅中央口徒歩5分
講師 岩下哲典氏(東洋大学教授) 小林哲也氏(東洋大学大学院生) テーマ「大政奉還」150年によせて
1、大政奉還と政権奉帰をめぐて・小林氏。2、政権奉帰後の慶喜と泥舟・岩下教授
会 費 一般1500円 大学生500円 高校生以下無料
申し込みは下記事務所まで
幕末史研究会
事務所:〒180-0006 武蔵野市中町2-21-16
FAX・O422-51-4727/電話・090-6115-8068(小美濃)
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第21話 近藤長次郎と砂村下屋敷
近藤長次郎と砂村下屋敷
土佐藩が江戸で所有していた屋敷は七カ所にあった。その内のひとつ、砂村下屋敷は近藤長次郎にとっては大切な場所である。
長次郎は一度目の江戸行きは由比猪内の下僕として出府している。そして、安積艮斉(あさかごんさい)へ入門している。しかし、両親の死で高知へ戻っている。
二度目の出府はいつだったのか、研究者によって意見が分かれている。
再出府の際、富士川を渡る時、雨後の逆流で舟が転覆し持物を全て失って裸同然で砂村下屋敷に着いている。
この砂村には水通町三丁目に住んでいた土佐藩抱工の刀鍛冶左行秀が住んでいた。藩命でこの砂村藩邸内に鍛錬場を造り、刀鍛冶、鉄砲鍛冶で働いていた。
顔見知りの長次郎は左行秀を便りにして出府したのである。高知出発の時、岩崎弥太郎がその志を誉めて刀を一振、長次郎に贈ったがそれも富士川で流してしまい。丸腰であった。
左行秀は長次郎の差料を一振造って贈ったのではないかと筆者は考えている。それは長次郎の写真である。大きな刀を差している。長次郎の顔よりも長い柄(つか)である。鞘も写真のアングルがはみ出してしまうほど長いのである。左行秀は幕末期の名工で作品は多く残っている。行秀の作品だけを掲載した本も出版されている。左行秀の作った刀の中に長く、反りの少ない刀がある。長次郎の写真に写っている刀も反りが少ない。柄(
柄も普通の刀よりも長くできている。
長次郎が砂村藩邸で左行秀に作ってもらった可能性が大きいのである。
左行秀は土佐藩に抱えられる時、刀鍛冶兼鉄砲鍛冶として採用されている。幕末期、土佐藩はこの砂村藩邸内で洋式小銃を製造していた。
砂村藩邸は六千坪以上あり、広い鍛錬場を建てることも可能であった。輸入した小銃をモデルとして、日本製の洋式小銃を生産する、工場長役で、土佐から砂村に出張したのは左行秀である。
工場で働いていた若者は五十人位いたそうである。
近藤長次郎が裸同然で転がり込んできても、問題はないのである。そして、この小銃工場は洋式銃の研究者、大砲術研究者との人脈もあったといわれている。
近藤長次郎の略伝を伝える「藤陰略話」には次のように書かれている。
〈其(そ)の頃、高島(秋帆)、勝(海舟)両大家ハ声誉殊ニ高ク且(かつ)当世ノ実学家ナレバ此両家ニ入門スレバ志ヲ述フベシト左(行秀)ニ其意ヲ語リシヨリ左(行秀)モ之ヲ賞シ媒介シテ入門サセケル〉
左行秀は鉄砲の製作として、洋式砲術家の人脈がある。近藤長次郎が勝海舟に近づいていくのも、砂村下屋敷がひとつのキーワードになっているかもしれない。