第19話 山内容堂と鯉尾

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 坂本龍馬八十八話

小美濃 清明

第19話 内容堂と鯉尾

京浜急行鮫洲駅前の小高い丘の上に山内豊信(とよしげ)の墓がある。土佐藩第十五代藩主で隠居名を容堂★ようどう★という。
品川区立会★たちあい★小学校の校庭の横にある墓には「贈従一位 山内豊信公之墓」と刻まれている。容堂の墓は高知にはない。
土佐藩主歴代の墓は筆山墓所に初代山内一豊が最上部に安置され、代が下るごとに墓も山麓へ向かって並んでいる。
しかし、十五代山内豊信はその中になく、品川に眠っているのである。

山内豊信は安政大獄で井伊直弼からにらまれ、藩主を十六代豊範(とよのり)にゆずり、隠居して容堂となった。まだ三十三歳の若さでご隠居様と呼ばれたのである。
苦しい近親生活を過ごしたこの品川の地に何故、好んで墓を造らせたのだろうか。
容堂は文政十年(一八二七)高知に生まれた。弘化三年(一八四六)二十歳で千五百石の家督を継いだ。山内家の分家である。
嘉永元年(一八四八)六月十六日、十三代藩主山内豊煕(とよてる)が死亡した。九月十八日、十四代藩主となった山内豊惇★とよあつ★がわずか二カ月で死去した。十二月二十七日、分家の豊信が十五代藩主となった。思いもよらぬ藩主となった豊信は二年後、烏丸光政の長女正(なお)を京都から正妻として迎えた。全て土佐藩主として受け入れたのである。
しかし、豊信は英明であったが気性が激しく、思い込むと一途なところがある大名だった。
老中阿部正弘の側室に鯉尾(りお)という絶世の美女がいた。阿部の屋敷を訪れた折にでも豊信は鯉尾に会ったのだろう。
阿部が死去した後、豊信は鯉尾を側室に迎えたいと言い出した。これには土佐藩全てが反対であった。
十三代藩主山内豊煕の未亡人智鏡院は薩摩藩主島津斉彬の妹である。智鏡院は豊信の義母にあたる。
容堂が鯉尾を側室にするという噂を聞き、心配して実兄の島津斉彬に訴えた。
斉彬は妹からの知らせで越前の松平春嶽に手紙を書き、容堂を説得している。
しかし、一途な容堂は気持ちを変えることはなかった。鯉尾を側室に迎え入れたのは安政五年初め頃と言われている。
その約一年後、容堂は十五代の座を降り隠居することになる。
安政六年(一八五九)九月四日、隠居となり品川下屋敷に謹慎した。その際、鯉尾の生んだ光姫四カ月の赤子を連れて謹慎したそうである。
生後四カ月の赤子と一緒の謹慎である。公にはされていないが、光姫を生んだ鯉尾も一緒だったと推定されている。
鍛冶橋の上屋敷には正室正(なお)がいる。大名家として京都の公家の娘を迎え入れたのは公(おおやけ)の容堂である。
品川下屋敷には一人の人間容堂がいた。可愛い光姫と鯉尾との生活は容堂にとって、かけがえのないものだったのだろう。それ故に明治五年(一八七二)四十六歳で死去した容堂はここに眠りたいと願ったのである。
明治五年六月二十八日、品川・大井村に神式で埋葬された棺の側には光姫が参列していたと記録されている。