第10話 高村退五事件

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第254回 幕末史研究会のご案内です。

日時 2017年7月29日(土)午後2:00から4:00
会場 武蔵野商工会館 4階 吉祥寺駅中央口徒歩5分
講師 鷹見本雄 氏 鷹見家11代当主
テーマ 編集者国木田独歩の後継者鷹見久太郎が果たした役割は
会費 一般 1500円 大学生500円 高校生以下 無料
講義内容  蘭学者鷹見泉石の曾孫鷹見久太郎はジャーナリストとなり
女性と子供のための月刊グラフイック誌を発刊した。日本
社会に与えた影響は、
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第10話 高村退五事件

高村退五事件

坂本龍馬の差料は「吉行(よしゆき)」である。「陸奥守(むつのかみ)吉行」とも銘を切る。この吉行には兄がいた。兄も刀鍛冶だった。「吉國(よしくに)」と銘を切る。「上野守(こうずけのかみ)吉国」とも銘を切る。
高知市在住の土佐史談会会員の某氏から、「吉国」と銘がある長脇差を見せていただいた。ご自慢の愛刀とのことだった。身中の広い立派な脇差だった。
そして、この脇差は高村退五(たかむらたいご)の差料だったと説明を受けた。柄(つか)には高村家の家紋の桜の目貫がついていた。
高村退五というと有名な事件があった。寛政九年(一七九七)二月六日の夜、高知城大川淵に住む上士・馬廻二百石の井上左馬之進の屋敷で同輩・森久米之進、大塚庄兵衛、長尾貞之進、長尾貞五郎が集まり宴席を開いた。偶然、来訪した長岡郡廿枝(はたえだ)の郷士・高村退五も同席することになった。
その宴席で井上が刀剣の善し悪し(よしあし)を話して、自分の佩刀を誇った。そして、最近手に入れた名刀を見せた。
高村は郷士とはいえ耕田数十町を持ち、文武に優れた人物で、刀剣の目利きに長じていた。井上は高村に鑑定を求めた。
井上は気に入った刀だったが、高村はこの刀を酷評した。
激怒した井上は高村を斬り、同席した四人も井上と共に抜刀して高村を斬殺した。
土佐藩庁は四月四日、井上左馬之進に対し、「沙汰に及ばず、以後きっと相嗜(あいたし)なむべき」旨を伝え、同席した四人には「向後厚く相心得よ」と戒告しただけで終わった。
一方、高村家に対しては不届きとして家督断絶とした。
この処分に対して郷士の間に不満の声が広がり始め、高知城下へ郷士が集まりだした。
土佐藩庁はその事態に気付き、五月二十六日、井上左馬之進に対して「屹度遠慮(きっとえんりょ)」を宣告し、二十八日、馬廻の家格を小姓組に格下げし、知行二百石を没収して、新規に五人扶持切符五十石とした。
そして、郷士に対しては五月二十九日、「風聞演説(ふうぶんえんぜつ)を相控(あいひか)え穏成取りはからう可べき事に候。心得違い之無(これな)き様」と諭告した。
つまり、「静かにせよ」と脅したのである。
郷士の不満はおさまらない。
六月七日、再度、諭告が発せられた。
「郷士に対して差別はなく、打捨てという作法もない。藩庁の判断もいろいろあるので、郷士が差別だと思い込んではならない」
藩庁は郷士に冷静になるよう伝えている。
しかし、郷士の不満は治まらなかった。
ついに、六月二十二日、十代藩主・山内豊策★とよかず★が高知城内に主な家臣を集めて直書を布告した。
「今回の件について書付などを差出す郷士がいることを聞いている。この度のことについては我は考慮しているので、今まで通り、忠勤に励むように」
結局、土佐藩は上層部を更迭せざるを得なかった。六月二十八日
〈奉行職〉福岡外記 柴田織部
〈仕置役〉松下長兵衛 尾池弾蔵 中山団七
〈大目付〉高屋九兵衛 原彦左衛門 仙石弥大夫
など藩重役が職を退いて収拾をはかった。
四年後、享和九年(一八○一)九月二十一日、井上左馬之進は仁淀川以西へ追放となって事件は終結した。
高村は今、高知県南国市祈年山に眠っている。墓には
〈高村退五墓〉と前面に刻まれ、側面に〈寛政九 丁巳二月六日 二十八歳〉とある。