第9話上土と下士-1
関ケ原合戦は慶長五年(一六〇〇)、徳川家康が率いる東軍が西軍の島津義弘、毛利輝元ら
に勝利した。
西軍であった土佐国の長宗我部氏は滅びた。そして掛川六万石から山内一豊が土佐国の領主
となって進駐した。
山内家臣団は土佐藩の上土となり、長宗我部遺臣であった半農の一領具足たちは、そのまま土佐国内に残り、土佐藩の下士となった。そのため、二百六十年間、上土と下士という二重構造がつづき、常に乳轢を生じさせる原因となっていると土佐史の解説書には書かれている。
そして、上土の下士に対する差別は、服装、儀礼、習慣にいたるまで徹底しており、それにより多くの事件が発生したとされている。
坂本龍馬に関連してよく知られるのは井口村永福寺門前事件である。
ますなが
文久元年(一八六一)三月四日の夜、上土の小姓組山田広衛は同伴の茶道方益永繁斎と、友人宅の節句酒に酔って通行中、暗夜のために山田に触れた下士の郷士中平忠次郎を無礼討ちにした。
忠次郎と同行していた少年宇賀(うが)喜久馬は、小高坂に住む忠次郎の実兄池田寅之進に急報した。
寅之進は現場に急行して、江ノロ川のどんどんと呼ばれていた堰のあたりで、水を飲んでいた山田広衛を討ち、益永繁斎をも斬り伏せた。
この刃傷事件はすぐ高知城下に広がり、下士は池田家に集まり、上土は山田家へ集合した。
上土側は池田寅之進の身柄引き渡しを要求したが、下士側は拒絶した。双方がにらみ合う状態がつづいたが、結局、下士側の池田寅之進と宇賀喜久馬の二人が切腹してこの事件は落着した。
事件の発端は宇賀喜久馬が美少年であり、それを連れ歩いていたのが山田広衛の感にざわったためと言われている。
この喜久馬の切腹の折、首を斬り落としたのは兄の宇賀利正である。利正の息子が有名な物理学者となる寺田寅彦である。
利正はこの事件についてひとことも語らず、寺田寅彦も随筆には書いていない。
利正は二十五歳であり、喜久馬は十九歳であったと作家・安岡章太郎氏は『流離讃』の中で書いている。宇知見利正、喜久馬、寺田寅彦は安岡家系譜に名が記述されている一族の人々である。
しかし、土佐郷土史でこの事件を扱ったものは利正を十六歳とし、喜久馬を十三歳としている。 安岡氏は(この事件を世間に流布させた人たちが、その悲劇性を強調しようとするあまりに、主人公たちの年齢を実際よりもずっと若く引き下げてしまったものであろうが、その理由を追
求する気持も、私にはない。)と書いている。
歴史の記述には往々にして、そのような傾向がみられ、坂本龍馬を調べて、資料を読んでいると時折、ハテと首をかしげる事がある。
この上士と下士の差別という問題も、どう考えればよいのかという資料がある。
坂本龍馬は嘉永六年(一八五三)剣術修行で江戸へ行き、ペリー来航に遭遇している。その折、藩の臨時御用で警備陣に加えられ、その後、佐久間象山塾へ入門し、大砲操練を習っている。