第7話 龍馬と栄馬

小美濃清明講師の略歴は上部の「プロフィール」をクリックしてください。

第252回 幕末史研究会
日時 2017年5月28日(日)午後2時から4時 会場 武蔵野商工会館4階 講師 合田一道 氏 (作家) テーマ 北から見た幕末維新 会費 一般1500円大学生500円高校生以下無料 講義内容 明治維新は北辺の北海道をも揺るがした。最後の戦いとなった      箱館戦争の意味とは、朝廷がまっ先に北海道開拓に着手した理由とは。
幕末史研究会
事務所:〒180-0006 武蔵野市中町2-21-16
FAX・O422-51-4727/電話・090-6115-8068(小美濃)
Eメール:spgh4349@adagio.ocn.ne.jp
プログアドレス:http://blogs.yahoo.co.jp/bakumatsushiken

第7話 龍馬と栄馬

坂本龍馬は脱藩をする前、安田たまきの兄・藤田栄馬に共に脱藩しようと誘ったという。しかし、栄馬は脱藩しなかった。その理由は栄馬は長男だったからである。家の跡目を継ぐという役目があったのである。そして、もう一つ、龍馬のように国家とか政治といったものに興味が薄かったこともある。
栄馬のご子孫にうかがった話だが、栄馬は父から、「お前には美しい嫁をもらってやるから脱藩するな」とも言われて、説得されたと言う。
父は約束を破らず本当に美しい嫁をもらってやった。嫁は岡本槇★まき★という女性である。(写真A)
この槇の写真が高知市の栄馬のご子孫のお宅に保存されていた。額に入っていたので、複写させてもらうことにして、額の裏側を開くと、槇の写真の下にもう一枚の写真が入っていた。白地の着物に紋付の羽織を着た男性だった。栄馬のご子孫にこれは誰ですかと尋ねるたが、初めて見る写真なので、誰か判らないとの話であった。
後に、栄馬の孫(亀井とよさん)がこれが藤田栄馬であると証言してくれた。
写真Bが栄馬である。
明治になって撮影されたもので、茶人として趣味の世界で生きていた龍馬の親友の姿である。
幕末の土佐史を研究していると、土佐の若者が次々と脱藩し、動乱の時代を生きていく。土佐の若者全てが、龍馬に続くように活躍するように錯覚するが、それは正確ではない。栄馬のように平凡な生活を望む若者もいたのである。
学生運動の中心でヘルメットをかぶり、角材を振った学生もいれば、ノンポリもいたのである。
栄馬はさしづめ、ノンポリの典型であり、龍馬はヘルメット派の代表であり、暗殺されている。
栄馬は明治になって、高知の新興財閥・川崎幾三郎のもとで経済人として働き、趣味で陶器を焼き、茶道の宗匠として無味庵夏一と名のり、狂言などを演じる優雅な生活を楽しんでいる。
この栄馬と槇の間に生まれたのが楠猪である。(写真C)
楠猪も母親ゆずりで美しかった。この女性に一目惚れしたのが横山又吉であった。黄木★おうぼく★という号を持つこの男は高知で有名な暴れん坊であり、自由民権運動の中心にいた。
又吉は安政二年(一八五五)十一月十五日、高知城下旭村下島の医師。横山常吉の四男に生まれた。十一月十五日は龍馬を同じ誕生日である。
藩校致道館に学んだのち、陸軍士官学校へ入学。しかし、フランス語の学習が嫌いで中退し高知へ戻った。そして、板垣退助の立志社へ入り、たちまち政治青年の頭目となって活躍した。
明治十三年(一八八○)、又吉は高知新聞に入社し、坂崎紫瀾、植木枝盛らと共に痛烈な政府攻撃の論陣を張った。
こんな男が楠猪をくれと栄馬に迫った。当然栄馬は断った。
すると又吉は「娘をくれなければ、家に火をつけるぞ」と栄馬を脅かしたという。ご子孫に伝わる本当の話である。
この又吉は、後に高知商業学校の創立者となる男である。