第4話 欄干に腰かける龍馬

現在の天神橋

第4話 欄干に腰かける龍馬

         小美濃 清明

 高知の夏は暑い。しかも湿気が高い。幕末期にこの季節を土佐の人々はどのようにして過ごしていたのだろうか。
テレビの旅番組で四万十川の沈下橋が紹介されることがある。欄干のない橋は洪水の時、流木が欄干に引っかからずに流れていくので、橋が破損することはなく、今は高知県の名所となつている.。
この沈下橋から夏休みの子供たちが川に飛び込む場面を、四万十川の清流とともに高知県の観光案内として放送している。
幕末期に沈下橋はなかったが、川は涼を求める若者たちが集う場所だったと思われる。
高知城下には鏡川と江ノロ川という川が流れている。鏡川は高知城の南側の外堀として、江ノロ川は北側の外堀としての役割を果たしていた。
この鏡川に大橋という木橋が架かっていた。この橋は現在、天神橋というコンクリートの橋に架けかえられている。しかし、大橋は繁華街の「大橋通り」という道路の名前に残っている。
この大橋の欄干に腰かけている龍馬を見たという話がある。
土佐史談会副会長・谷是(ただし)氏のご母堂・谷豊(とよ)さんからお聞きした話である。
高知市潮江天神町の谷家は長宗我部元親に仕えていた谷市左衛門が長岡郡介良(けら)村に居住していたと伝えられる。山内氏入国後、川島鵜右衛門と改名し、百姓となり帰農していた。
六代下って川島市兵衛の子が谷姓を復活させて、谷中庵三的(さんてき・一六三六~一七二四)となり、潮江・谷家の初代となった。
きよし
そこから八代目となる谷巌(いわお)の弟谷潔(きよし)の妻となるのが谷豊さんである。
この谷家には『家伝の灸』という背骨の両側に『はしご』をかけるように据える『はしご灸』が伝えられていた。
七代目谷民衛のもとに『はしご灸』の治療に通っていたのが第6話に登場する安田たまきである。
治療中に安田たまきは坂本龍馬の思い出を語っており、民衝から豊さんにその話が伝えられていた。
「夏のある日、安田たまき(当時は藤田好)が使いで大橋を渡っていると、龍馬から声をかけられた。ふり仰ぐと、龍馬が大橋の欄干に腰かけていた。」
という話である。夏の日、涼を求めて大橋にくる若者たちが多い。大橋の中央部分あたりは川風が吹き涼しいのである。若者たちが集まって通る女の子に声を掛けているというシーンである。龍馬が何歳ぐらいの時であろうか。欄干に腰かけるということから考えると若い時、今の高校生ぐらいの年齢であろうか。十六、七歳と考えると、江戸へ修行に行く前あたりになる。
安田たまきは龍馬より十歳年下であるから、六、七歳となる。その時、安田たまきが一人だったのか、友達と一緒だったのかは分からない。
夏の暑い日、高校生の龍馬が小学生の安田たまきに「どこへ行くんだい」と声を掛け、振り仰ぐと兄・栄馬の友達が笑いながら欄干の上から見下ろしている。
川風が吹く鏡川の上で二人が視線を交わす場面である。
土佐電鉄の「大橋通り」で下車して、高知城を背にして歩いて行くと、鏡川にぶつかる。白いコンクリートの橋が、現在の大橋(天神橋) である。正面に筆山(ひっさん)の緑濃い姿が見えて、麓に潮江(うしおえ)天満宮の森がある。
若き日の龍馬を想像しながら、大橋を渡るのも一興である。