第3話 相良屋の証言

 

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第3話 相良屋の証言

坂本家は高知城下の上町(かみまち)にあった。上町は北から、北奉公人町(きたほうこうにんまち)、本町(ほんちょう)、水道町(すいどうちょう、通町(とおりちょう)、南奉公人町(みなみほうこうにんまち)、の五つの道路が東西に貫いている。
この町は下級武士、商人、職人、医者などが一緒に住む庶民の町だった。この町の様子が一目瞭然と分る資料が残っている。安芸市立歴史民俗資料館が所蔵する「上町分町家名附牒(かみまちぶんまちやなつけちょう)」である。
上町の町家、つまり上町の町人の名前が地図帳のように並んでいる資料である。下級武士(郷士)の名前は記入されていない。
坂本家のあった本町一丁目南側には
久村屋半兵衛
(  空白    )
相良屋八郎右衛門
(  空白    )
掛川屋権右衛門扣
(  空白    )
壷屋佐五兵衛
と町家が並んでいて、三つの空白がある。この空白のどれかが、郷士坂本家の屋敷である。
土佐史談会の広田博氏と内川清輔の調査により、坂本家は二百十一坪で、久村屋と相良屋の間と分った。

高知の郷士史家・松村厳は文久二年(一八六二)生まれで昭和十六年(一九四一)に死去している。文久二年と言えば坂本龍馬脱藩の年である。龍馬と同年代に生まれて、昭和まで生きた松村が貴重な証言を記録していた。
「坂本龍馬」(『土佐史談』第六十八号、昭和十四年九月刊)に次のように書いている。
〈題して「坂本龍馬」といえども坂本一代の事を叙するに非(あら)ずして、特に自分の聞知せる所を叙するに過ぎず。聞知といえど、皆、縁故者の言である。〉
縁故者から直接聞いた実話をまとめた文章と書いている。
〈坂本龍馬は本丁一丁目南側に生れて、相良(さがら)屋と相隣して居た。異相ありて、満身に黒子(ほくろ)九十二ありと称し、其乳母これを隠くし兼★かね★て居た。相良屋は耳垂(たぶ)の大なるを以て、坂本の黒子とならび称せられ、町中の一話柄となれり。
坂本は郷士にて、御用人格なり。長男を権平と云い、初の名は佐吉、坂本は次男にて、その弟なり。少時常に唐へ行きたいと申居(もうしお)れり、言う意は洋行したきなり。
相良屋は村越元三郎といふて、明治中、菜園場に陶器店を営で居り、余のために語る所なり。〉
相良屋は村越元三郎で坂本家は隣りであったと証言していた。そして龍馬はほくろが九十二個あり、町中の話のたねになっていたと語っている。
そして、ここが重要である。龍馬は子供の頃から洋行したいと言っていたと証言している。
龍馬は黒船来航前から、勝海舟に会う前から、海外に興味を持っていたのである。
龍馬の異国への視線は、十九歳の時、ペリー来航に遭遇したことにより具体的な形となる。勝海舟の門下生となり、咸臨丸アメリカ渡航について話を海舟から聞くことになる。