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龍馬と刀剣ー8
才谷梅太郎の変名は慶応二年一月から確認できるので、才谷を名乗っていた期間すべてが伏見・寺田屋へ投宿する事は危険であったのである。こうした状況の中で、寺田屋へ長逗留することは考えられない。
危険な地域の中で、龍馬が短刀合口拵の製作を考え、「メモ」を書いていること自体、不自然なのである。
この「メモ」が書かれたときの状況(のんびりとした日常生活の断片)と、伏見の状況は全く異なっているのである。
また、お登勢は龍馬より六歳上であり、(是は学問ある女、尤(もっとも)、人物也)と龍馬自身が評価する女性である。そのお登勢へ「メモ」の中で、本の説明に図を描き、寸法を加え、表題を 『刀剣図考』 と図に書き込み、巻数を書き、太刀の絵が描いてあると本の内容を記している。説明が丁寧すぎるように思うのである。むしろ歳下の女性への気遣いが感じられる。
そして、もうひとつ、お登勢は寺田屋の女将である。その女将に(やどにてかりてある たんすのひきだし)と書くだろうかという疑問が残る。
こうした様々な理由から、このメモはお登勢宛とは考えにくいのである。残るのは妻お龍である。
③ 宛先はお龍とすると
龍馬が才谷梅太郎の変名を使った慶応二年~三年の間、
お龍はどこにいたのだろうか。
(1)伏見 慶応二年一月一日~二十四日
(この間、負傷した龍馬と行動)
(2)薩摩 慶応二年三月十日~六月二日
(3)長崎 慶応二年六月四日~慶応三年二月八日
(4)下関 慶応三年二月十日~
慶応二年一月一日から一月二十四日までの間で、龍馬は一月十九日に寺田屋へ一泊している。薩長同盟成立の直前であり、龍馬は多忙である。この「メモ」を書く状況にはない。(伏見)は除外できるので、(薩摩)(長崎)(下関)、この三カ所のどこかで「メモ」は書かれたことになる。