龍馬と刀剣ー7

小美濃清明講師の略歴は上部の「プロフィール」をクリックしてください。

龍馬と刀剣ー7
坂本龍馬と刀剣 小美濃清明著・新人物往来社刊

「メモ」にある(白鞘の短刀)と『坂本龍馬手帳摘要』に記されている(短刀合口掠)は同一の短刀ではないだろうか。
短刀が同一であることを証明するには「メモ」が鹿児島で善かれたことを立証しなければならない。
「メモ」を項目ごとに細かく検討してみることにする。

宮地氏は、宛先をお龍か寺田屋お登勢と推定されたが、その説をさらにすすめて、そのどちらが真の宛先であったか推理してみる。

① 差出人・才谷梅太郎
才谷梅太郎の変名を使用した時期に関しては『坂本龍馬全集』の中で宮地氏が、慶応二年一月三日、久保松太郎宛・書簡の解説で次のように書かれている。
(「才谷梅太郎」という変名は、慶応三年春下関「自然堂」時代より、使いはじめたと言われているが、実際は一年早い此頃からと判断したい。)
この久保宛の書簡には才谷梅太郎の署名がある。慶応二年」月から暗殺された慶応三年十一月まで、才谷の変名は使用されていた。
龍馬がお龍と共に薩摩藩内に滞在したのは慶応二年三月十日から六月二日であるから、才谷梅太郎の変名使用期間の中に入る。鹿児島滞在中の「メモ」に才谷の変名が使われたとしても矛盾はない。
「メモ」は鹿児島で書かれた可能性を持っている。

② 宛先・ごく親しい女性
この「メモ」がお登勢宛とした場合、寺田屋は伏見の船宿であるから、龍馬は伏見、もしくは伏見の近くに居ることになる。寺田屋に長逗留をして、外出先の何処かからこ
の「メモ」を書いたことになる。
伏見は京都から大坂への中継地であり、現在は京都の一部に入るが、当時は別の町である。この伏見から船で大坂へ出るのが当時の一般的な順路であった。多くの旅人は船待ちの都合で伏見に宿泊する。
龍馬も出京の度にこの伏見を通っている。しかし、慶応二年一月二十三日、寺田屋で負傷した後、伏見は龍馬にとって最も危険な地域よなる。