第21話 近藤長次郎と砂村下屋敷

 幕末史研究会は、東京都武蔵野市を中心に1994年から活動を続けている歴史研究グループです。
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第256回 幕末史研究会

日時 2017年9月23日(土)午後2時から4時  会場・武蔵野商工会館4階 吉祥寺駅中央口徒歩5分
講師 岩下哲典氏(東洋大学教授) 小林哲也氏(東洋大学大学院生) テーマ「大政奉還」150年によせて
1、大政奉還と政権奉帰をめぐて・小林氏。2、政権奉帰後の慶喜と泥舟・岩下教授
会 費 一般1500円 大学生500円 高校生以下無料
申し込みは下記事務所まで
幕末史研究会
事務所:〒180-0006 武蔵野市中町2-21-16
FAX・O422-51-4727/電話・090-6115-8068(小美濃)
Eメール:spgh4349@adagio.ocn.ne.jp
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第21話 近藤長次郎と砂村下屋敷

近藤長次郎と砂村下屋敷

土佐藩が江戸で所有していた屋敷は七カ所にあった。その内のひとつ、砂村下屋敷は近藤長次郎にとっては大切な場所である。
長次郎は一度目の江戸行きは由比猪内の下僕として出府している。そして、安積艮斉(あさかごんさい)へ入門している。しかし、両親の死で高知へ戻っている。
二度目の出府はいつだったのか、研究者によって意見が分かれている。
再出府の際、富士川を渡る時、雨後の逆流で舟が転覆し持物を全て失って裸同然で砂村下屋敷に着いている。
この砂村には水通町三丁目に住んでいた土佐藩抱工の刀鍛冶左行秀が住んでいた。藩命でこの砂村藩邸内に鍛錬場を造り、刀鍛冶、鉄砲鍛冶で働いていた。
顔見知りの長次郎は左行秀を便りにして出府したのである。高知出発の時、岩崎弥太郎がその志を誉めて刀を一振、長次郎に贈ったがそれも富士川で流してしまい。丸腰であった。
左行秀は長次郎の差料を一振造って贈ったのではないかと筆者は考えている。それは長次郎の写真である。大きな刀を差している。長次郎の顔よりも長い柄(つか)である。鞘も写真のアングルがはみ出してしまうほど長いのである。左行秀は幕末期の名工で作品は多く残っている。行秀の作品だけを掲載した本も出版されている。左行秀の作った刀の中に長く、反りの少ない刀がある。長次郎の写真に写っている刀も反りが少ない。柄(
柄も普通の刀よりも長くできている。
長次郎が砂村藩邸で左行秀に作ってもらった可能性が大きいのである。
左行秀は土佐藩に抱えられる時、刀鍛冶兼鉄砲鍛冶として採用されている。幕末期、土佐藩はこの砂村藩邸内で洋式小銃を製造していた。
砂村藩邸は六千坪以上あり、広い鍛錬場を建てることも可能であった。輸入した小銃をモデルとして、日本製の洋式小銃を生産する、工場長役で、土佐から砂村に出張したのは左行秀である。
工場で働いていた若者は五十人位いたそうである。
近藤長次郎が裸同然で転がり込んできても、問題はないのである。そして、この小銃工場は洋式銃の研究者、大砲術研究者との人脈もあったといわれている。
近藤長次郎の略伝を伝える「藤陰略話」には次のように書かれている。
〈其(そ)の頃、高島(秋帆)、勝(海舟)両大家ハ声誉殊ニ高ク且(かつ)当世ノ実学家ナレバ此両家ニ入門スレバ志ヲ述フベシト左(行秀)ニ其意ヲ語リシヨリ左(行秀)モ之ヲ賞シ媒介シテ入門サセケル〉
左行秀は鉄砲の製作として、洋式砲術家の人脈がある。近藤長次郎が勝海舟に近づいていくのも、砂村下屋敷がひとつのキーワードになっているかもしれない。


第20話 及門録

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第20話 及門録

及門録

佐久間象山塾の門人帳「及門録(きゅうもんろく)は京都大学の図書館にある。一度実物を見たいと思っていた。
それは実物を見ないと分からないことが多いからである。普通、本は黒インクで印刷されている。カラー写真であれば、朱筆はすぐ分かる。しかし、印刷された本では色が判別できない。「及門録」を見るために京都日帰り旅行をすることにした。
新幹線は便利である。日帰りで京都へ行けるのである。
「及門録」を手にして、やはり来てよかった思う。黒の墨、それも頁によって墨が異なる。朱筆で書き入れている文字もある。茶色の筆もある。印刷された本では全く分からない情報がある。
また頁によって紙が違う。書体が違う。
最初の一頁に及門録とあり、これが朱筆である。
門人帳の最初が、白井平左衛、山寺源大夫、水野瀬平、蟻川賢之助、北山安世、岡無理弥、金児忠兵衛、永井庄三郎、金井彌惣左衛門、増田助之■と十名の名前が並ぶ。岡無理弥だけが朱筆である。上に朱筆で松本藩とある。全て楷書である。
八頁に武田斐三郎が黒の墨で加藤遠江守様御家来と肩書きがある。その隣り五十七番目に朱筆で山本覚馬とあり、朱筆で会津藩となる。
十頁に勝麟太郎とあり、海舟だけに殿がついている。お順の夫象山から見れば義理の兄である。殿をつけなければならないのか。勝麟太郎殿と一気に書かれていて、後から殿だけ加筆してはいない同筆である。お順が正室となったあと、この門人帳は清書されたものであろう。
二十頁に伴銕太郎(ばんてつたろう)と朱筆で書かれて、薩州藩と朱筆で書かれている。その横に幕臣と黒の墨で書かれて、たてに棒が黒色の線がある。
二十二頁に黒い墨で吉田大次郎とあり、上に朱筆で「後ニ寅次郎と号ス」とある。吉田松陰である。
二十四頁に黒の墨で八月九日、宮部鼎蔵とあり、横に細川越中守様御家来とある。
三十二頁には朱筆で
長岡藩 川井継之助、土州藩 溝渕廣亟とある。
四十四頁には黒の墨で
土州 大庭毅平
谷村才八
坂本龍馬
と並んでいる。そして、上に十二月朔日とある。楷書ではなく行書である。


第19話 山内容堂と鯉尾

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 坂本龍馬八十八話

小美濃 清明

第19話 内容堂と鯉尾

京浜急行鮫洲駅前の小高い丘の上に山内豊信(とよしげ)の墓がある。土佐藩第十五代藩主で隠居名を容堂★ようどう★という。
品川区立会★たちあい★小学校の校庭の横にある墓には「贈従一位 山内豊信公之墓」と刻まれている。容堂の墓は高知にはない。
土佐藩主歴代の墓は筆山墓所に初代山内一豊が最上部に安置され、代が下るごとに墓も山麓へ向かって並んでいる。
しかし、十五代山内豊信はその中になく、品川に眠っているのである。

山内豊信は安政大獄で井伊直弼からにらまれ、藩主を十六代豊範(とよのり)にゆずり、隠居して容堂となった。まだ三十三歳の若さでご隠居様と呼ばれたのである。
苦しい近親生活を過ごしたこの品川の地に何故、好んで墓を造らせたのだろうか。
容堂は文政十年(一八二七)高知に生まれた。弘化三年(一八四六)二十歳で千五百石の家督を継いだ。山内家の分家である。
嘉永元年(一八四八)六月十六日、十三代藩主山内豊煕(とよてる)が死亡した。九月十八日、十四代藩主となった山内豊惇★とよあつ★がわずか二カ月で死去した。十二月二十七日、分家の豊信が十五代藩主となった。思いもよらぬ藩主となった豊信は二年後、烏丸光政の長女正(なお)を京都から正妻として迎えた。全て土佐藩主として受け入れたのである。
しかし、豊信は英明であったが気性が激しく、思い込むと一途なところがある大名だった。
老中阿部正弘の側室に鯉尾(りお)という絶世の美女がいた。阿部の屋敷を訪れた折にでも豊信は鯉尾に会ったのだろう。
阿部が死去した後、豊信は鯉尾を側室に迎えたいと言い出した。これには土佐藩全てが反対であった。
十三代藩主山内豊煕の未亡人智鏡院は薩摩藩主島津斉彬の妹である。智鏡院は豊信の義母にあたる。
容堂が鯉尾を側室にするという噂を聞き、心配して実兄の島津斉彬に訴えた。
斉彬は妹からの知らせで越前の松平春嶽に手紙を書き、容堂を説得している。
しかし、一途な容堂は気持ちを変えることはなかった。鯉尾を側室に迎え入れたのは安政五年初め頃と言われている。
その約一年後、容堂は十五代の座を降り隠居することになる。
安政六年(一八五九)九月四日、隠居となり品川下屋敷に謹慎した。その際、鯉尾の生んだ光姫四カ月の赤子を連れて謹慎したそうである。
生後四カ月の赤子と一緒の謹慎である。公にはされていないが、光姫を生んだ鯉尾も一緒だったと推定されている。
鍛冶橋の上屋敷には正室正(なお)がいる。大名家として京都の公家の娘を迎え入れたのは公(おおやけ)の容堂である。
品川下屋敷には一人の人間容堂がいた。可愛い光姫と鯉尾との生活は容堂にとって、かけがえのないものだったのだろう。それ故に明治五年(一八七二)四十六歳で死去した容堂はここに眠りたいと願ったのである。
明治五年六月二十八日、品川・大井村に神式で埋葬された棺の側には光姫が参列していたと記録されている。


第18話 品川下屋敷の容堂

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第255回 幕末史研究会

日 時 2017年8月26日(土)午後2時から4時
会 場 武蔵野商工会館 4階 吉祥寺駅中央口徒歩5分
講 師 小美濃 清明 (幕末史研究家)
テーマ 坂本龍馬と三岡八郎の新国家財政構想
内 容 新しく発見された手紙の真偽、龍馬と三岡の関係。
新国家の財政をこの二人が構想する過程を見ていく。
会 費 一般1500円 大学生500円 高校生以下無料
申し込みは8月25まで下記事務所まで
幕末史研究会
事務所:〒180-0006 武蔵野市中町2-21-16
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第18話 品川下屋敷の容堂

品川下屋敷の容堂

土佐藩は江戸に三ヵ所の下屋敷を所有していた。
築地(中央区築地一丁目付近)
品川(品川区東大井三丁目付近)
砂村(江東区北砂一丁目付近)
土佐藩第十五代藩主だった山内豊信(とよしげ)は安政六年(一八九五)に隠居し、豊範(とよのり)が十六代藩主となった。
豊信は容堂(ようどう)となり、御隠居様と呼ばれるがわずか三十三歳の若さである。
容堂は井伊大老から一橋派とみなされ、品川下屋敷に謹慎させられている。安政六年九月四日から文久二年(一八六二)八月十一日まで三十七カ月間、品川下屋敷にいた。
容堂は漢詩と酒を愛した謹慎生活を楽しんでおり、そうした心境を漢詩に詠んでいる。

謫居何必言愁苦  謫居何ぞ必ずしも愁苦と言わん
詩酒陶然独閉戸  詩酒陶然として独り戸を閉ざす
西隣知有野僧棲  西隣に野僧の住むあるを知り
月暗林中聴粥鼓  月暗き林中に粥鼓を聴く

詩酒を友とした容堂の生活がしのばれる。粥鼓とは木魚のことである。山内容堂の解説書ではこの木魚の音は品川海■寺(かいあんじ)から聞えたとされている。
海■寺は現在の地図によれば品川区南品川五丁目になる。容堂が謹慎している品川下屋敷は品川区東大井三丁目にあった。海■寺の木魚が聞える距離ではない。一キロメートル以上離れているのである。
品川下屋敷、鮫洲抱屋敷の調査の際、この木魚の音の件も調査した。品川下屋敷の西隣に来福寺という真言宗豊山派の寺がある。この寺の本堂を見せていただいた。木魚が置かれていた。容堂が聴いた木魚と同じものかは分らないが、この来福寺からの木魚の音を容堂は聴いていたと確認した。
容堂の墓は品川区東大井四丁目にある品川区立立会小学校の隣りにある。高知にはないのである。
高知の筆山に初代山内一豊から歴代藩主の墓が山頂から下へ向って墓が配列されているが十五代だけ無いのである。
容堂は品川を愛し、品川に遺言で墓が作られている。
万延元年(一八六〇)三月三日、容堂はこのように漢詩を詠んでいる。

〈C〉 亢龍喪元
亢龍喪元桜花門  亢龍元(くび)を喪ふ桜花門
敗麟散与飛雪翻  敗麟は散り飛雪となりて翻(ま)ふ
腥血如河雪亦亦  腥血河の如く雪亦亦し
乃祖赤装勇無存  乃祖(だいそ)の赤装勇存する無し
汝到地獄成仏否  汝地獄に到りて成仏するや否や
万頃淡海付犬豚  万頃の淡海犬豚に付せん

大雪の朝、品川下屋敷で雪見酒を飲んでいた容堂のもとに桜田門外の変が伝えられて詠んだ漢詩である。乃祖★だいそ★とは祖先のことであり、赤装とは井伊の赤具足である。
〈先祖以来の赤具足というが勇気なぞありはしない。お前は地獄に行って成仏するかわからんぞ。〉
万頃とは広いという意味であり、淡海とは琵琶湖のことである。井伊家は彦根城が居城であり、琵琶湖に面した所領である。
〈広い琵琶湖なぞ犬か豚にくれてやれ〉
桜田門で殺害された井伊直弼に向って、容堂が叫んだ声が聞えてくるような漢詩である。容堂が復権していく雄叫びである。


第16話 横浜の異人

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第255回 幕末史研究会

日 時 2017年8月26日(土)午後2時から4時
会 場 武蔵野商工会館 4階 吉祥寺駅中央口徒歩5分
講 師 小美濃 清明 (幕末史研究家)
テーマ 坂本龍馬と三岡八郎の新国家財政構想
内 容 新しく発見された手紙の真偽、龍馬と三岡の関係。
新国家の財政をこの二人が構想する過程を見ていく。
会 費 一般1500円 大学生500円 高校生以下無料
申し込みは8月25まで下記事務所まで
幕末史研究会
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第16話 横浜の異人

小美濃 清明

谷干城(たにたてき)は安政六年(一八五九)、高知を出立して江戸へ向かっている。江戸へ到着する前、横浜の町を見物していた。
おそらく龍馬も脱藩したあと、横浜を見物していると思われるので、谷干城の日記から横浜の町の様子をのぞいてみよう。
「安政六年十月十四日
金川(神奈川)より二十丁(約二キロメートル)の大きな道を塩田の中に作っている。交易場に行くまでに五つの橋を渡っていく。途中に諸役人の屋敷が建っていて、まだ建築中の家もある。茶店なども出来ている。
交易場の三丁(約三○○メートル)手前に関所があったが、入るときには切手(入場券)はいらなかったが、帰る時には町会所が発行した切手をもらわなければ通さないそうである。
交易場は中々盛況で広さは高知の本町ぐらいの広さであり。唐津焼、塗り物細工、小間物屋などが多かった。
大町五、六丁の中の一丁の間は遊女屋であり、料理屋などもある。それらを見たあと、浜辺へ回り、異人の商館の方へ行くと、「ソコもココも異人だらけなり」と驚いている。
かねて聞いているとおり、背が大きく、鼻筋が通っている。髪毛は皆、赤犬のちぢれたようなものだ。長さ二寸位に見える頭巾をかぶり、クツを履き、長さ二尺四・五寸(約七五センチ)ぐらいの杖(つえ)の如き者(ステッキ)を持っている。
異人の店には、織物、小砲(ピストル、銃)、目金(眼鏡)、書籍などが飾ってあり、売っている。
その中の一軒の店の老人が、自分で目金かけて、自分の目を指差して、「よかよか」と言った。これは「よかろうが」と申すことであると干城は書いている。
その側にいた若い異国人が目金をかけて試みると、老人は手を振りながら目をツブリ申した。若き故に見えない。
老眼鏡をかけた若者は見えないと、身振り手振りで日本語でセールスをする老人を干城は楽しそうにみている。
そして「イクラ」と干城が質問すると、老人は「二分ニツ」と言った。別の店へ行くと「二分三ツ」と言ったと干城は書いている。二分二朱ということである。
この町の中を異国人も店を見ながら散歩しているその様子を干城は
〈皆、立派成る男である。女性もいる。五十歳ぐらいのバンバ(お婆さん)も連れており、娘も連れている。娘の顔は玉の如く美しく絶世の美女である。そして、犬を連れているが、我国の犬と違って、大きな耳がたれている。〉
耳の立っている日本犬に見慣れた干城には耳がたれた犬は珍しかったようである。
また英国人とフランス人の見分けがつかないと書いている。これは現在でも同じである。
また欧米人が連れている中国人にも注目している。
〈南京人(なんきんじん)も多く来ております。十二、三才の少年もおります。皆、英国人の雇っている人のようです。南京人は我々と変るところはありません。言語もよく通じます。唐の人は多く口ひげをはやしていると言われますが、今ここに来ている人たちは皆口ヒゲを剃っています。〉
朝から昼ごろまで見物した干城は町役所で切手をもらい仮関所を出て昼食を神奈川宿でとっている。昼めしを食べながら、横浜の港を眺めると十五艘の異国船が浮かんでいた。
横浜が出来た最初の頃の風景である。もの珍しさで、多くの人々が見物に来ている。

龍馬も横浜の風聞を聞き、訪れていたのではないだろうか。
好奇心の強い龍馬であれば、異国人と会話をしたり、飾ってある目金をかけたり、ピストルを「いくら」と言っているかもしれない。耳の垂れた犬に大笑いしていたのではないだろうか。攘夷などという思想は龍馬にも谷干城にもなかったと思われる。


第17話 アメリカ味噌

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第255回 幕末史研究会

日 時 2017年8月26日(土)午後2時から4時
会 場 武蔵野商工会館 4階 吉祥寺駅中央口徒歩5分
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内 容 新しく発見された手紙の真偽、龍馬と三岡の関係。
新国家の財政をこの二人が構想する過程を見ていく。
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第17話 アメリカ味噌

小美濃 清明

谷干城(たてき)の日記に面白い記事がある。
安政六年(一八五九)十月二十七日の記述である。江戸へ出た谷干城は忙しく毎日、江戸の中を歩き回っている。開国して異国の文明が江戸の街を急速に塗り替えている。様々な町の風景が見えてくる一日である。
〈十月二十七日、陰(くも)り。冷茶にて支度(朝食)致す。サイ(おかず)は山本氏の贈り物なり。四ツ前より麻布の谷(親類)へ行く。赤羽橋へ迄、岡村辰四郎、宮崎六郎等同道飯倉片町の下曾根(金三郎)の調練場へ。蛮夷の旅館立派に出来実に大大名の屋敷の如し蛮夷は未だ居渡り不申體也。 九ツ前山ノ内の御屋敷へ入る。頼助さん巻藁(まきわら)を拵へ弓を射る行く否酒を出す。頻(しきり)に断る 不許、五ツ六ツ 呑(の)みて断はる又飯(めし)を出す 三椀食、暇乞仕り帰る。日陰町を通り菊の湯へ入り帰る代十六文。御国のアメリ加味噌(○○○○○○)等蛮夷の衣類を着しクツをはき入場に来る他處人笑ひ詈る実に恥づべし。帰掛熊太へ寄る、昨日の御飛脚状今日山本氏より廻る一同安全大に安心巳屋へ帰支度仕る。青木氏よりをもらふ武藤氏の巳屋や持ち行、開らく。夜に入熊太方行、読む太郎氏も来る。四ツ頃止、蛮夷一段の議論にて九ツ半を聴帰る。火付日記を付る。今夜も亦焼(やけ)る青山通りの由〉
10月27日曇。 冷茶で朝食を食べる。おかずは山本氏の贈り物。10時前に麻布屋敷(土佐藩の支家)にいる谷へ行く。赤羽橋まで岡村、宮崎氏が同道した。飯倉片町の下曾根金三郎の調練場へ行く。蛮夷の旅館(外国の大使館)が立派に出来た実に大大名の屋敷のようがだが、まだ誰も住んでいない。正午前山内の屋敷(上屋敷カ)へ入る。頼助さんが巻タバコをこしらへ、弓を射ているところへ行く。酒を出す。断ったがしきりに断るが許してくれず、五、六杯飲んでやめた。次に飯を出したので三杯たべて帰ってきた。日陰町を通り菊の湯へ入り帰った。入湯料は十六文。土佐国のアメリカかぶれ(○○○○○○○)が異国人の衣類を着てクツ(○○)を履(は)き菊の湯へやって来た。他県人が笑い詈(ののし)る。実に恥ずかしい。帰りがけ熊太へ寄る。昨日の御飛脚便(土佐からの便り)今日山本氏より回ってきた。一同は無事なので安心した。自分の部屋へ帰る支度をする。青木氏よりをもらったので武藤氏の部屋へ行き包を開らいた。夜になり熊太の部屋行き御飛脚を読む、太郎氏も来た。午後10時頃やめた。外国についての大議論は午前1時になったので帰ってきた。日記をつける。今夜はまた火事だ青山通りのようだ。〉

二十三歳の干城の一日は忙しい。麻布屋敷にいる谷(親類)へ会いに行く。赤羽橋まで同行者がいて、飯倉片町の下曾根金三郎の砲術場へ行く。外国の大使館が建設されて大名屋敷のようだ。そのあと上屋敷に行く。帰りに菊の湯へ行くと、土佐人のアメリカかぶれが横浜あたりで買ってきた異国人の洋服を着てクツを履いてやってきた。大きな声で土佐弁で喋っている。同国人として恥ずかしいと干城は苦りきる。築地屋敷に戻って友人の部屋で午前一時まで外国について大議論をしている。
干城は江戸へ入る前、横浜の町を見ている。外国人の様子を見ている。今日は外国の大使館を見た。これから日本はどうなるのだろうと真剣な議論がつづいた。
菊の湯に来たアメリカかぶれの連中は何も考えずにコスプレだ。
青山通りでまた火事だ。一日の日記が終わっている。幕末の江戸の一日が克明に描かれて面白い。


第15話 龍馬の江戸生活

谷 干城(たにたてき)

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坂本龍馬八十八話

2、江戸・横浜で

第15話 龍馬の江戸生活

坂本龍馬は江戸で二度、修行生活をしている。一度目は嘉永六年(一八五三)四月から安政元年(一八五四)六月までの一年三カ月間である。
二度目は安政三年(一八五六)八月から同五年(一八五八)八月まで二年間である。
単身で江戸へ出た竜馬は毎日、どんな生活をしていたのだろうか。興味深いテーマである。しかし、龍馬は修行時代の生活を記録した日記を残していない。同時代、江戸へ出た土佐藩士の日記はないか調べてみた。
谷干城★たにたてき★の日記が残っていた。
干城は天保八年(一八三七)二月、土佐国高岡郡窪川村に生まれている。龍馬より二歳年下である。千城は、安政三年(一八五六)六月、臨時御用で江戸へ出立し、翌四年十一月に高知へ戻っている。
二回目は安政六年(一八五九)九月高知を出立し江戸へ向い、文久元年(一八六一)九月、江戸を離れて、十月高知に帰国している。

龍馬の二回目の江戸修行と千城の一回目の江戸修行は重なっており、二人は同時期に江戸で生活している。
ただ干城は一年五カ月間の江戸滞在で、龍馬より短かい滞在であった。
干城の二度目の江戸滞在の時、龍馬は江戸におらず高知にいる。干城の残した日記は二度目の江戸滞在中のものである。干城の生活から龍馬の江戸生活が垣間見られるように思われる。
干城は安政六年十月十四日、江戸へ着くが夜になっていたので藩邸に入れず、旅籠★はたご★に泊っている。宿代は三百文と記録されている。
翌十五日朝、旅籠を出て、上屋敷(鍛冶橋御門内、現国際フォーラム)へ到着の届けをしている。その後、築地屋敷へ行き宮地熊太郎に筆を借りて、御己屋(寄宿する部屋)の拝借願書を書いて、再び上屋敷へ行ってその願書を提出している。
その後、日比谷中屋敷へ行き知人に会っている。八ッ(午后2時)築地屋敷に戻って宮地熊太郎の部屋へ行き髪月(さかやき)代をスリ、髪形を整えている。八ッ(午后4時)に太八郎氏に呼ばれて、咄をして御馳走になり、五ッ(午后8時)に青木方へ行って夕食をいただき、アンドンと火バチを借りて自分の部屋に戻って、日記をつけている。
スシ五つ四十文、唐芋八文、麻裏草履百二十文で買うと記されている。
江戸へ到着した干城はまず上屋敷に到着の報告に行き、寄宿する部屋の借用願を書いて再び上屋敷へ行くという、江戸修行第一日目の事務を一つ一つ、処理している。
龍馬も江戸へ出た第一日目は同じように、藩庁に書類を提出したり挨拶回りに上屋敷、中屋敷、下屋敷の間を歩いていたと思われる。
干城は築地屋敷に滞在しているので、龍馬と同じ屋敷に滞在していることになる。
同二十六日、昼食のあと、柳原より両国へ足ならしに行き浅草御■■で、刀のサヤコジリを二朱二百で買い七ツ(午後四時)に築地屋敷に戻っている。
柳原、両国、浅草と散歩に出かけている。
江戸へ出た単身の侍たちは藩邸で自炊生活をしながら、剣術修行、学問修行などに日を送っている。龍馬も剣術修行が目的であったので、藩邸と道場という毎日であったろう。 しかし、第一回修行はペリー来航によって臨時御用となり、土佐藩の警備陣の中に加えられている。そしてペリー退去のあと、佐久間象山塾へ入門している。龍馬は描いていた江戸修行と全く異なった日々を送ったと思われる。
干城の日記には細々とした生活の物価がわかる記述がある。龍馬の江戸の生活がどのようなものか判るのであげてみる。
炭一俵 二石五十文
布団一枚借用 一夜 三十二文
銭湯(風呂代) 十六文
掛ソバ 十六文
中折紙一束 二百五十文
状紙百枚 百五十文
筆六本 二百五十四文
油入れ 五十二文
硯 五十文
アジの塩焼一ツ 二十文
手拭 百二十文
にんじんの煮物 十二文
朱硯 四十八文


第14話 アームストロング砲が掘り出された

 

内容紹介
精巧に再現した直筆書簡等に触れて「真実の坂本龍馬像」を体感!

2017年11月15日に没後150年を迎える、幕末の志士・坂本龍馬。彼の駆け抜けた33年の濃密な生涯を、最新の知見と資料を集めた豪華書籍 に加え、
昨年12月に発見された書簡「福井藩士・中根雪江あての手紙」をはじめ、貴重な歴史資料のレプリカ10点が収録された受注生産豪華本(オリジナルDVD付) 。
龍馬ファン必携の非常の完全保存版。

NETで「坂本龍馬大鑑」と検索してみました。
すると、小美濃講師の名がズラリ・・・その一部を掲載します(村長)。

これぞ家宝!超豪華 完全受注生産版 坂本龍馬大鑑 〜没後150年目の真実〜 受注期間:2017年7月14日(金)〜9月15日(金)
「湿板写真家・林道雄所蔵」
質感まで忠実に再現した貴重な複製お宝に触れて
“坂本龍馬の実像”を体感する!

【監修・執筆者】小美濃清明
早稲田大学卒。作家。幕末史研究会会長。全国龍馬社中副会長。主な著書に「龍馬の遺言〔近代国家への道筋〕」(藤原書店)、「龍馬八十八話」(右文書院)、「坂本龍馬と刀剣」、「坂本龍馬・青春時代」(ともに新人物往来社)などがある。

坂本龍馬の辿った道を貴重な資料と共に辿る! 大政奉還から150年。そして坂本龍馬没後150年を迎える2017年。日本近代史上最大のヒーロー「坂本龍馬」の最新情報がわかる1冊。明治維新の裏の立役者として、あまりにも有名であるにもかかわらず、多くの謎を残している龍馬。本書では、ヒーロー伝説の再現と共に、今まで語られていなかった龍馬と海外との関わり等、いまだ確認されていないその一面に迫る。大河ドラマ『龍馬伝』監修や、龍馬研究を手掛けている有識者たちによる最新の知見を集めた「最新の龍馬像」をまとめた豪華書籍に加え、龍馬ゆかりの品々を忠実に再現した複製資料全10点+DVDを収蔵。
高知・長崎・鹿児島・京都・東京を中心に、広範囲なお宝資料収集を実施。また重要文化財に指定されている貴重な資料を含む「龍馬直筆の手紙」や関連資料を精密に複製・再現し、これまでにない〝坂本龍馬の実像〟を“読んで、触って、体感する”まったく新しい読書体験をすることができる豪華保存版です。

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「読んで」、「触れて」、「感じる」 龍馬という漢。精巧に再現した貴重な複製お宝で龍馬に“触れる”全く新しい歴史体験が味わえます。
大政奉還、明治維新の立役者龍馬がどんな人物だったのか?
新しい知見を集めた書籍と、貴重な複製書簡などでこれまでにない“龍馬の実像”を体感!
生き生きとした龍馬の足跡を感じられる全10点のお宝&DVDを収蔵。

手紙への裏書き(龍馬直筆) 桂小五郎から龍馬へ
複製お宝史料 手紙への裏書き(龍馬直筆) 桂小五郎から龍馬へ

薩長同盟成立後、桂小五郎の要請に応え、慶応2年2月5日、龍馬は寺田屋での襲撃で手を負傷しているにもかかわらず、
薩長同盟の書簡に、朱書きの裏書きをしている〈一部抜粋にて複製〉。(宮内庁書陵部蔵)

手紙(龍馬直筆) 龍馬から中根雪江宛
複製お宝史料 手紙(龍馬直筆) 龍馬から中根雪江宛

2016年新発見。慶応3年11月10日、暗殺の5日前。文章に新国家と書かれている。(個人蔵)

手紙(龍馬直筆) 龍馬から乙女姉へ
複製お宝史料 手紙(龍馬直筆) 龍馬から乙女姉へ

慶応2年12月4日。新婚旅行の報告。日本初の「新婚旅行」と言われている。寺田屋の遭難のあと、危険な京都を離れ、妻お龍と一緒に鹿児島で湯治しに行く龍馬。霧島山登山の様子を「イロハニ」の記号で説明している〈一部抜粋にて複製〉。(京都国立博物館蔵)

手紙(龍馬直筆) 龍馬から乙女姉へ
複製お宝史料 手紙(龍馬直筆) 龍馬から乙女姉へ

文久3年6月29日。「日本を今一度洗濯いたし申し候」という有名な言葉が登場。勝海舟の弟子になり、幕府の海軍操練所にいながらも幕藩体制への怒りが「日本の洗濯」という形で表現されている〈一部抜粋にて複製〉。(京都国立博物館蔵)
書状(龍馬直筆) 新政府綱領八策
複製お宝史料 書状(龍馬直筆) 新政府綱領八策

慶応3年11月。明治維新後の新政府設立のための綱領。船中八策を簡略化して書かれたような内容になっている。後半部分に「○○○」と名前を伏字にしてある箇所があり、誰の名が入るのか議論になっている。(下関市立歴史博物館蔵)
写真 坂本龍馬湿板写真

複製お宝史料 写真 坂本龍馬湿板写真

慶応2~3年撮影。当時の湿板写真を元に大型写真として再現。
(高知県立坂本龍馬記念館蔵)

俚謡(龍馬直筆) 紙本墨書
複製お宝史料 俚謡(龍馬直筆) 紙本墨書

稲荷町(遊廓街)から朝帰りした龍馬は、お龍に責められ、即興で俚謡を謡う。お龍への愛と遊びたい気持ちとを織り交ぜたこの俚謡を聞き、お龍も許してくれたといいます。龍馬の人間臭い面が垣間見られる史料。(下関市立歴史博物館蔵)

海戦図(龍馬直筆) 長幕海戦図
複製お宝史料 海戦図(龍馬直筆) 長幕海戦図

馬関海峡での長幕海戦図。丙寅丸を指揮した高杉晋作などの文字も見える。第二次長州征伐では亀山社中のユニオン号で長州藩を支援、長州藩の勝利に貢献した。龍馬はこの戦いについて、この戦況図付きで長文の手紙を兄・権平に書き送っている〈一部抜粋にて複製〉。(個人蔵)

記録帳 玄武館出席大概
複製お宝史料 記録帳 玄武館出席大概

「玄武館出席大概」は清河八郎が安政4、5年頃に北辰一刀流玄武館(千葉周作が開いた道場)に籍を置いていた309名の氏名を記録したもの。龍馬が山岡鉄舟(小野鉄太郎)に剣術を習っていたことを証明する史料〈一部抜粋にて複製〉。(清河八郎記念館蔵)

地図 龍馬が見ていたとされる世界地図
複製お宝史料 地図 龍馬が見ていたとされる世界地図

新製輿地全図。箕作省吾作。(国立国会図書館蔵)

【特別付録DVD】 約1年間に及ぶ本書取材の記録

龍馬の人生と明治維新のことを、末裔の方々や研究者たちが、すべて本企画のために分かりやすく振り返る。特別にインタビュー撮り下ろし

岡崎誠也(高知市長)、尾崎正直(高知県知事)、勝 康(勝海舟の子孫)、小曾根吉郎(小曾根乾堂の子孫)、西郷隆夫(西郷隆盛の子孫)、坂本匡弘(坂本家10代目)、橋本邦健(全国龍馬社中会長)、前田終止(霧島市長)、宮川禎一(京都国立博物館学芸部列品管理室長)、三吉治敬(三吉慎蔵の子孫)等(五十音順/敬称略)

【本書の内容】
第一章新国家をつくる第二章高知城下に生まれて第三章幕末東アジア情勢第四章剣術修行開眼第五章土佐藩の枠にとらわれず第六章脱藩決行第七章勝海舟に心奪われて ~アメリカ最新事情に触れる~第八章薩摩の志士たちと“日本の洗濯”へ第九章長崎の港を見つめて ~海援隊誕生~第十章運命の薩長同盟締結第十一章秘境竹島に夢をもとめて第十二章本懐全う~「新国家創造」に夢と愛を捧げた志士~第十三章新国家の財政計画

完全受注生産版『坂本龍馬大鑑』仕様
※商品デザインおよび写真はイメージです。実際の商品とは異なる場合があります。
※お宝および本書の内容は変更になる場合がございます。

以上、NETからの丸写しです(村長)。
2、江戸・横浜で

小美濃清明講師の略歴は上部の「プロフィール」をクリックしてください。

第14話 アームストロング砲が掘り出された
土佐史談会へ行くと、内川清輔先生が「小津高校の校庭からアームストロング砲が出てきたそうです。行きませんか」と筆者を誘った。
勿論、行きます、と答えて、すぐ出かけた。

やっぱり、土佐藩にアームストロングはあったのか、と少し興奮気味に二人で歩いて高知県立小津高校へ向った。

高知城の北側に出て、改道館の門の前を歩いて行くうちに、段々と熱が冷めてきた。
「砲銃弾薬引渡調_」にあったアームストロング砲二挺は明治政府に引渡したはずである。もし掘り出されたものが本物なら、土佐藩はアームストロング砲を三挺所有していたことになる。

何故、一挺だけ埋めたのだろうか。疑問がいくつも湧きあがってくる。しばらくして、小津高校の校門をくぐり、校庭の片隅に砲身だけが鉄製の枠に載せられている前に立った。見た瞬間、大きいと思った。幕末の大砲のイメージより砲身が長いのである。砲身の筒先から中を覗いてみた。施条砲であった。二十本以上の条が螺旋(らせん)を描いており、砲身はスリムに出来ていた。

幕末期に佐賀藩はアームストロング砲を製造している。戊辰戦争の時、佐賀藩の大砲は現在、東京大学のキャンパスになっている本郷台から不忍池を越えて、上野寛永寺向けて発射されている。アームストロング砲だと伝えられている。

幕府の彰義隊を壊滅させたアームストロング砲は、加賀屋敷と加賀の支藩富山屋敷から発射されたという。 土佐藩が所有していたアームストロング砲はイギリスから輸入した砲だったのだろうか。それとも佐賀藩が製造したものだったのだろうか。

佐賀藩が製造したアームストロング砲が土佐藩へ渡ってきたのだろうかと考えてみた。

そういえば、戊辰戦争の時、土佐藩は江戸の砂村下屋敷で左行秀が製造した小銃を宇都宮藩に貸していた。

平尾道雄著『子爵 谷千城傳』に次のように記述されている。

〈当時、諸藩いづれも窮乏して戦費の捻出に苦しみ、宇都宮藩の如きは兵士に使用せしむべき小銃すら其用意なく、僅(わず)かに薩摩藩の鹵獲せる敵の洋式銃を以て一時を糊塗して居たが、子(千城)は西の丸に於て同藩士懸勇記より之を聞き、鑄工行秀作る所の不用銃約五十挺を宇都宮藩に貸与した。〉 藩と藩の間で銃器の貸し借りはあったのである。土佐藩もアームストロング砲を佐賀藩から借りていたのだろうか。
この小津高校のアームストロング砲といわれた大砲は、後に写真を撮って、アメリカへ送った。筆者の友人のサンフランシスコ在住のロミュラス・ヒルズボロウ氏の友人で銃砲の専門家に鑑定を依頼した。 しばらくして、ヒルズボロウ氏から返信があった。小津高校の校庭から掘り出された大砲の砲身は、アームストロング社で製造したものではないという回答だった。

この大砲は幕末期よりも新しい時代に製造されたものと思われると手紙には書かれていた。

龍馬は高知の仁井田浜で十二ポンド軽砲を撃っている。


 


第13話 土佐藩のアームストロング砲

「坂本龍馬大鑑」
幕末史研究会・小美濃清明会長の執筆による超豪華本が出ます!

坂本龍馬~没後150年目の真実
A4版上製/192ページ●お宝資料&DVD封入●特製ケース入
発行:株式会社KADOKAWA
【通常価格16,200円(税込)】11月15日(金)発売

龍馬に関する最新の知見と資料を集め、まとめた貴重な複製お宝資料全10点&オリジナルDVDを収蔵。
[本書の内容]
第一章・新国家をつくる。第二章・高知城下に生まれて。第三章・幕末東アジア情勢。第四章・剣術修行開眼。第五章・土佐藩の枠にとらわれず。第六章・脱藩決行。第七章・勝海舟に心奪われて。第八章・薩摩の志士たちと”日本の洗濯”へ。第九章・
長崎の港を見つめて~海援隊誕生~。第十章・運命の薩長同盟締結。第十一章・秘境竹島に夢をもとめて。第十二章・本懐全う~「新国家創造」に捧げた志士~。第十三章・新国家の財政計画
+【特別付録DVD】約11年間に及ぶ本書取材の記録
※本書の内容は変更になる場合がございます。
本書は完全受注生産版ですので9月15日までに書店に予約を願います。
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第13話 土佐藩のアームストロング砲

土佐史談会は高知県立図書館の三階にある。平尾道雄先生が使用した書籍などが平尾道雄文庫として書棚に並んでいる。
古い雑誌や会誌「土佐史談」を見ていると、平尾先生の直筆のメモなどが出てくることもある。中には平尾先生の名前が書かれた薬袋が出てくることもある。
多くの研究者が収集した史料が室内に並んでいて、歴史の重みを感じる部屋である。全国に会員がおられ、問い合わせの電話も多い。

或る日、史料を読んでいたら、長岡の方から電話があり、「土佐藩にガトリング砲はありませんでしたか?」という質問があった。
内川清輔先生がどうだろうか? 少し調べてみようと話されていた。
しばらくして、土佐藩が明治になって政府に提出した「砲銃弾薬引渡調牒」の写しが存在しているのが分かった。
坂本龍馬が慶応三年九月二十四日、高知へ戻り、小銃千挺を土佐藩重役、渡辺弥久馬、本山只一郎に引渡した話は有名である。その小銃も含まれているはずの「砲銃弾薬引渡調牒」は興味深い史料である。
大砲  三○九挺
小銃  一三一二七挺
砲弾  六○八二一発
が保管倉庫別に記入され、大砲、小銃、弾薬ごとに記入されていた。これらは全て明治政府に引き渡されたのである。我々が見たのはその「写」であった。
しかし、ガトリング砲はなかった。長岡藩の河井継之助が戊辰戦争の時に使って有名となったこの砲は二挺輸入され、もう一挺が土佐藩へ渡ったのではないかという問い合わせだった。しかし、ガトリング砲は、記入されていなかった。
この調査の途中で「北ノ口南御蔵」に収蔵されていた八十七挺の大砲中にアームストロング砲二挺が含まれていることに記がついた。
土佐藩にもこの有名な砲が所有されていたのである。
アームストロング砲はイギリスのウィリアム・アームストロングが一八五五年に開発した大砲の一種である。
マーチン・ウォーレンドルフが発明した後装式ライフル砲を改良したもので、従来の砲より装填時間が短縮された。砲身は錬鉄製で、複数の筒を重ね合わせる層成砲身で鋳造砲に比べて軽量であった。このような特徴から同時代の大砲の中では優れた性能を持っていたと考えられている。
しかし、薩英戦争の時、戦闘に参加した二十一挺が合計三六五発、発射したうち二十八回発射不能となり、旗艦ユーリアラスに搭載されていたアームストロング砲が爆発して、砲員全員が死する事故が起こった。
その原因は巨大な膨張率を持つ火薬ガスの圧力が尾栓を破裂させたのである。
そのためイギリスでは信頼性が失われて、生産は中止されて、過渡期の兵器として消えていたのである。
廃棄されたアームストロング砲は、南北戦争中のアメリカへ輸出された。そして、南北戦争が終わると幕末の日本へ売却された。
江戸幕府もトーマス・グラバーを介して、三十五門発注したが、グラバーが引き渡しを拒絶したため、幕府の手にアームストロング砲は入らなかったという。
土佐藩のアームストロング砲は長崎のトーマス・グラバーから買い付けたものだろうか。龍馬や近藤長次郎が関係したものなのだろうか。


第12話 脱藩の道

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第254回 幕末史研究会
日時2017年7月29日(土)午後2:00から4:00
会場 武蔵野商工会館 4階 吉祥寺駅中央口徒歩5分
講師 鷹見本雄氏 たかみもとお 鷹見家11代当主
テーマ 編集者国木田独歩の後継者鷹見久太郎が果たした役割は
会費 一般 1500円 大学生 500円 高校生以下無料
講義内容 蘭学者鷹見泉石の曾孫鷹見久太郎はジャーナリストとなり、女性と子供のため月刊グラフィック誌を発刊した。日本
社会に与えた影響は、

申し込みは実施前日までに事務所まで
幕末史研究会
事務所:〒180-0006 武蔵野市中町2-21-16
FAX・O422-51-4727/電話・090-6115-8068(小美濃)
Eメール:spgh4349@adagio.ocn.ne.jp
プログアドレス:http://blogs.yahoo.co.jp/bakumatsushiken

第12話 脱藩の道

坂本権平が語った
「それじゃア、どうも龍馬がおととい家★うち★を出たきり帰って来んが、脱藩したらしい。人を雇うて詮議すると、須崎で、油紙に刀らしい物を包んで背中に負うた龍馬の姿を見た人があるそうぢゃが、それから先のことは判らんキニのう」
という言葉は安田たまきの記憶の中に残り昭和三年まで伝えられた。
「須崎で、油紙に刀らしい物を包んで背中に負うた龍馬の姿を見た人があるそうぢゃ」
これがキーワードとなる。
龍馬は何故、刀を油紙に包んで背負っているのだろう。
乙女から餞★はなむけ★としてもらった刀は「土佐勤王史」によれば〈備前忠広〉という。
佐賀藩抱工で「備前国近江大掾藤原忠広」という名工がいる。この忠広であれば高価な刀剣である。
この日、もしかして、雨が降っていたのではと推定した。雨で刀が濡れないように龍馬は〈備前忠広〉を油紙に包んで背中に負って、須崎の道を歩いていたのではないだろうか。
文久二年(一八六二)三月二十四日、この日の高知の天候が雨であれば安田たまきの証言は信憑性が高い話と考えられるのである。
高知の幕末の天候記録を調査した。
高知から南西へ十キロメートルほど離れた宇佐という村の真覚寺に井上静照という住職がおり、安政元年(一八五四)から明治元年(一八六八)に至る足かけ十五年にわたる日記があった。
文久二年三月廿四日
陰天八ツ頃蓮師の祥月の勤行する七ツー頃より雨ふり出ス夜中大雨波高し

同廿五日
雨日入頃雨やむ夜風少々吹く
と記録されていた。

龍馬が高知から姿を消した日、三月二十四日、七ツ頃(午後四時)から雨が降り始めて夜中大雨であり、波も高かったのである。
里程標によると、高知城下・本町から須崎村まで、十里二十四丁十三間三尺とある。約四十キロメートルである。
城下から朝倉、弘岡、高岡、戸波★へわ★、須崎と平坦な街道がつづいて行く。戸波と須崎の間に名古屋坂があるだけである。
龍馬は吉田東洋を斬って逃走した安岡嘉助、大石団蔵、那須信吾のように追手が掛かってはいないのである。
雨の中、街道を隣り港・須崎港のある須崎村に向かって歩いているだけである。まだ脱藩ではないのである。
歩きにくい山林や坂道を歩く必要はないのである。
龍馬は須崎の発生寺★ほっしょうじ★には頻繁に訪れていたという。
須崎市古市町の川村為三郎氏の祖母・雛★ひな★さんに話に
「私の十歳位の時(文久年間か)龍馬さんが私のうち(黒岩家)へ宿泊したことがあった。片時も刀を離さず用便の時は、私が小姓役のように刀を持って、便所の外で立されたことがあった。便所まで刀を持って行くとは、おかしいことだと思ったが、今にして思うと当時の志士がいつも危険にさらしていたかということが分ります。云々」
とある。
龍馬は須崎へは歩き慣れた道を行くといった感じで向かっているのである。