第30話 品川海岸からの撤退命令

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第258回 幕末史研究会
日時 2017年11月25日(土)午後2:00から4:00
会場 武蔵野商工会館 5階
吉祥寺駅中央口から徒歩5分
講師 町田 明広氏・神田外語大准教授
テーマ 西郷隆盛とその時代・幕末編
講義内容 西郷の元治・慶応期の政治動向に焦点をあて、
島津久光との関係性を重視しながら、最新研究に基づいて述べます。
会 費 一般1500円 大学生500円 高校生以下無料
申し込みは8月25まで下記事務所まで
幕末史研究会
事務所:〒180-0006 武蔵野市中町2-21-16
FAX・O422-51-4727/電話・090-6115-8068(小美濃)
Eメール:spgh4349@adagio.ocn.ne.jp

プログアドレス:http://blogs.yahoo.co.jp/bakumatsushiken

第30話品川海岸からの撤退命令

嘉永七年(一八五四)二月二十八日、幕府から土佐藩に品川海岸からの撤退命令が出た。
ア メ リ カ
(亜米利加(アメリカ)船、禰平穏の趣候間、海岸通屋敷、屋敷相固候面面、最早、其儀(いよいよへいおんおもむきにそうろうあいだかいがんどおりやしき やしきあいかためそうろうめんめん もはや そのぎ)に及ばず候)
という「御達」が届いたので、土佐藩の総員引き揚げが始まった。
七ツ半頃(午後五時頃)大砲五門を台車に載せて、足軽に小銃を持たせ、物頭以上の藩士は騎馬で隊列を組んで品川下屋敷を出発した。
鍛冶御門内(現、有楽町国際フォーラム)にあった土佐藩上屋敷に到着したのは六ツ時(午後六時)だった。
途中、道の西側は見物人が多く集まり、土佐藩士の姿や大砲の大きさや数を見ながら評価しているようだった。
土佐藩の評判は上々であり、満足のいくものが多かった。
その頃、江戸で流行した狂歌がある。

品川の固めの出しのよくきくは
下地もうまくなれし土佐武士(とさぶし)

品川の土佐藩の固め場(守備陣地)の良く効果的であったのは、準備も上手な熟練の土佐のサムライであったからだ……という意味である。そして、品川の堅目(かため)のだしのよく効くのは、料理の下どしらえも、上手にできる土佐の鰹節だからだ……という意味を掛けた狂歌である。
土佐藩の総員とは何人だったのだろうか。
山内家家史編纂所の.「間隙雑記」には次のように記されている。

士大将(さむらいたいしょう)
寺田左右馬 原半左衛門
物頭(ものがしら)
野本源蔵  鹿瀬伝八郎
羽田縫右衛門 落合久米太郎
森 藤太夫 片岡 多門
宮井 守衛 植村権之進
平御土(ひらおさむらい)
山田太助 横田源作 大庭毅平 谷村才八 中山右衛門七 寺田小膳 野中太内 藤岡勇吉 山田大平 山本代平 衣裳小平 植村源次郎 高村直蔵 勝賀瀬半助 市川千吾 阿部喜藤次 安養寺善平 和気柳平 谷兎毛 香河甲馬 大谷俊平 村井運八郎 野野村為八 馬淵桃太郎
伊笹敬次 近藤達吾 渡遵又四郎 細井半十郎 奥宮井惣二 井家右馬次 大略右之通
壱番弐番御人数当御屋敷江相詰候御士ハ 細井半之進 市川俊三郎
軽格ハ姓名存知不申候 御小人迄四百人も可有之と奉存候

指揮官は寺田左右馬と原半左衛門の二人
物頭(隊長格)は野本源蔵以下八人
平御士(上土)は山田太助以下三十一人である。
その他、品川下屋敷へ詰めていたのは、細井半之進と市川俊三郎の二人である。
そして、他の軽格(下士)の姓名は知らないと書かれている。坂本龍馬は軽格なので氏名が記録されなかったのである。
そして、御小人まで四百人もいただろうと書かれていた。
龍馬の名前が嘉永六年十二月一日、佐久間象山塾の「及門録」に記されているが、三人が一組となって記述されている。
大庭毅平と谷村才八の二人と龍馬である。平御士の中に大庭と谷村の名はある。それは二人が上土だからである。同時期に象山塾入門の二人が品川警備陣に加えられていれば坂本龍馬も、
当然、品川に来ていると思われる。
しかし、名が記述されていない。それは軽格のため「姓名存知不申候」として、記述されなかったのである。
総員は約五百名から六百名ぐらいだろうか。


第27話 祝砲の数

第258回 幕末史研究会
日時 2017年11月25日(土)午後2:00から4:00
会場 武蔵野商工会館 5階
吉祥寺駅中央口から徒歩5分
講師 町田 明広氏・神田外語大准教授
テーマ 西郷隆盛とその時代・幕末編
講義内容 西郷の元治・慶応期の政治動向に焦点をあて、
島津久光との関係性を重視しながら、最新研究に基づいて述べます。
会 費 一般1500円 大学生500円 高校生以下無料
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坂本龍馬八十八話

小美濃 清明

第27話・祝砲の数

嘉永七年(一八五四)一月、再来航したペリー艦隊は一月二十五日、大砲を発射した。
「寺田左右馬日記」には次のように記されている。
(一月廿五日 晴、西風甚シ。今日、夷船に於て祝砲連発。巳刻頃初り暫時(ざんじ)にシテ止ム。其響、万雷ノ如ク聞ユ。斥候ノ士藤岡勇吉、馬淵桃太郎帰り報す。凡百廿八発。説に云、夷主(いしゅ)ノ生辰(せいしん)こ当ル故こ爾り、余ノ思フハ渠兵威(かれへいい)ヲ示シ我気ヲ挫(くじ)カン為ナルベシ。真成ニ可悪(まさににくむべし)。
この一月二十五日は西洋暦で二月二十二日で、アメリカ合衆国の初代大統領、ジョージ・ワシントンの誕生日であった。夷主とは大統領の意味であり、生辰とは誕生を意味している。この日に祝砲を発射することは土佐藩でも幕府から伝えられていて、斥候を出していたのである。
藤岡勇吉と馬淵桃太郎の報告によると一二八発であったという。
祝砲は最高栄誉が二十一発と決まっているそうである。二十一発の六倍が一二六発となる。
六膿で発射したと考えれば一二六の筈である。藤岡と馬淵の数え間違いの可能性がある。
祝砲は空砲である。では空砲とはどのような撃ち方を言うのであろうか。実弾を発射しない撃ち方が空砲なのだが、実弾に代わるものを砲身に装填しなければ火薬だけでは発射しない。
実弾の代わりロープや帆布を装填して火薬を爆発させると実弾と同じような爆音が出るそうである。帆船には古いロープがいくらでも積んである。そのロープを束にして大砲の砲身に装填するとのことである。
ロープは空中でバラバラになり燃えてしまうのである。
しかし、空中で燃えないこともある。勝海舟の「海軍歴史」によると威臨丸が太平洋を始めて横断してアメリカを訪問した時、空砲で事故が起きている。
「成臨艦米国渡航のした」にある《総督の負傷》に次のように記録されている。
(三月十日、使節をフランシスコへ招く。この往返は、当港に繋ぐ蒸気測量船を用ゆ。当日、ポーハタン船の川岸に繋ぎありて祝砲せしが誤りて当地の総督カネガム(Cuningham)を打ち倒す。
ポーハタン船、石炭積み込みのためにわが邦船と並び川岸に繋ぎおりしが、ここにて発砲せんとし、誤りて路上往来の者を打ちしなり。彼の邦の軍艦、つねに号令厳整、甲板上当直士官よりして以下達望者並びに銃卒の輩、必ず手銃あるいは剣をとりて一小事と錐も着艦せざることなし。今いかにしてこの飛禍を生ぜしめしや、もっとも不審。規則に託して注意の粗暴に出でたるなるべし。
ここに及びて祝砲を止め、各々総督を肩にしその居宅に送る。わが輩ま溌続きてこれを訪う。彼、肩上より半面、鮮血こんこんたり。)
カニンガム総督はポーハタン号から発射された祝砲のロープが肩から上に当たって負傷したのである。
江戸湾の中で発射された一二六発は万雷のようだったと報告された。寺田左右馬は爆音で日本人の気をくじく作戦だと解釈して、まさに悪むべし、と書いている。
坂本龍馬もこの祝砲、一二六発を聞いていたはずであり、同じ思いで品川警備陣の中にいたと思われる。
この体験が龍馬のその後の人生を決定したのではないだろうか。アメリカ海軍の軍事力は圧倒的な力で日本に迫ってきた。打本をアヘン戦争で侵略されてしまった清国と、同じ道を歩ませてはならないと、若き龍馬は思ったのではないだろうか。


第26話 浜川砲台の装備

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第26話 浜川砲台の装備

土佐藩鮫洲抱屋敷は現在の品川区東大井二丁目付近にあった。京浜急行立会川駅の近くである。
旧東海道と立会川が交差するところに浜川橋が架かっている。このあたりは浜川町という町名がある。橋の北側、品川寄りが北浜川町で、南側、大森寄りが南浜川町といっていた。
この浜川橋の品川寄り北浜川町に土佐藩の荷上げ地があった。八百六十九坪の小さな荷上げ地が鮫洲抱屋敷と称されていた。
この抱屋敷は明暦の大火、別名、振袖火事(一六五七)のあと、土佐から海路、運ばれた木材を荷上げした場所である。
幕末期にこの抱屋敷を海へ築き出す形に拡大させて、砲台を建設している伯明治期に面積を測量した記録では二千二百余坪になっている。
この場所に嘉永七年(一八五四)一月二十一日、わずか一目で砲台を造っている。
高さが六尺、幅が三十七、八間で砲門は八カ所である。
土を盛った土手に杉の樹を斜めに立てて、縄で縛って杉の葉を土の中に半分埋めて、半分を表面に出して、土が崩れないようにした。

六貫目 ホーイッスル砲 一挺
一貫目 ホーイッスル砲 二挺
鉄製五貫目砲 五挺
計八挺を設置している。

嘉永六年六月、ペリー艦隊は三日に来航、十二日に退去している。そのあと、土佐藩は築地下屋敷から徒歩十分という距離にある、木挽町の佐久間象山塾で西洋砲術の訓練を藩士たちに受けさせている。
二十名近くの土佐藩士が象山の門下生として西洋式大砲の操作を習っている。
木挽町で砲術の基礎を学び、裏庭で大砲の模擬訓練を受けていた。
当時、塾頭は長岡藩の小林虎三郎が務めていた。

木挽町は周囲が大名屋敷、旗本屋敷、狩野勝川(かのうしょうせん)の画塾屋敷などがあり、実射訓練はできなかつた。
実射訓練は大森海岸で行われていた。嘉永七年一月十六日、ペリー艦隊が浦賀に再来航した時、佐久間象山は大森海岸で大砲の実射訓練をしていた。
おそらく一月十七日のことであろう。黒船来航の知らせが象山の耳に入った。
その日、象山は砲術塾の新入生に実射訓練をさせていたという。象山は黒船最来航の情報を聞いた時、苦笑しながら「もう来てしまったの
か、これは泥縄だな」と言ったという。
ペリー再来航は予告されていた。四月か五月の再来航に間に合うように象山は訓練をしていた。しかし、ペリーが予定を繰り上げて再来航
したので、訓練が途中で、まだ終了していなかつた。
象山は大森海岸で訓練生を前に泥棒を捕まえてから縄を絢うようなものと言ったのである。
ペリー提督は象山にしてみれば泥棒のようなものに映っていたという話である。


第31話 斥候・森澤禄馬の報告1

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第31話 斥候・森澤禄馬の報告1
26話・浜川砲台の装備、27話・祝砲の数、30話 品川海岸からの撤退命令
以上のニ話は、HP掲載の不備につき、後日に掲載します。
「さる二十八日に品川下屋敷へ出張を命じられて取るものも取らず参りました。委細のお話も申し上げらせんが、然るに、異国船は最初の頃は、猿島より野島の辺りに七艘が碇泊していました。
二十七日に至り、六艘が川崎宿の南大師川原沖へ進みましたので、諸方で騒ぎ立て品川屋敷へ二番手まで出陣しました そして、異国船は川崎まで進入しましたので、江戸人共が騒ぎ立てまして、通訳を使い談じたところ、生麦より神奈川沖二十丁位のところに碇泊しました。追々一艘が入津し都合八艘になりそこにいます。
朝昼晩、三度空砲を放っています。砲の数はわかりません。砲は三十ポンド位とのことです。
二十五日、再度、神奈川まで行きましたところ、番船(見張船)が数十艘出ておりまして、船を近づけることができずむなしく帰ってまいりました。
去る月十六日より大槻磐渓も浦賀へ斤候のため来まして、異国船が神奈川へ移動したので、又々大槻も神奈川に止宿して動静をさぐっておりました。委細は段々と分ってくると重いますが、只今は井の中の蛙のようで、格別の見分もありません。
最初浦賀にて御奉行二名、御目付一人立ち合って応接いたしました節は養老酒ならびに蜜柑をご馳走したそうです。その時はペルリは病気で上陸せず副将のアーダンス一人、ペルリの子一人(十七歳のよし)、アーダンスの子一人(二十二歳のよし)、他に異人拾人余が上陸し、アーダンスは随分酔ったそうです。その折、追々書翰を渡す段どりをききましたところ、重要な返書をいただくにつき、浦賀で受取るのは第一、御国威も立たず、使節の申し訳けも立たたないとアメリカが申し出て、拒否したので御役人も当惑したとのことです。
九日、又々応接があり、浦賀では不承知であり、神奈川之南横浜という所へ応接所、千畳敷の館を建設すると云いましたところ、承知しないで、江戸まで行くと云っています。
そして、品川海の測量を申し出ましたので断りました。
ところが、アメリカは不承知で、バッテーラニ艘で測量をしているそうです。そう云いますが今のところ見えないので、明日あたりは見えるのではないかと思います。
只今のところ、特別の風聞もありませんので、追々、格別の伝聞を伝えます。」

土佐藩は異国船・幕府・他大名家の動向を探索するために斤候を出している。その一人が森澤禄馬である。その森澤が土佐にいる留守家族へあてた手紙に斤候で得た情報を書き送ったのである。
土佐藩の斤候が何人いたのか不明だが、斤候は情報の収集と伝達を任務としており、そうした能力のある藩士がペリー来航時に、臨時御用としてその任にあたっていたのかもしれない。
坂本龍馬が斤候として任務につく可能性はあったのだろうか。


第25話 寺田左右馬の嘆き

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第257回 幕末史研究会
日時 2017年10月28日(土)午後2:00から4:00 会場 武蔵野商工会館 4階 吉祥寺駅中央口徒歩5分 講師 結喜しはや氏 (歴史作家) テーマ 近藤勇の妻・ツネと太田垣連月 講義内容 明治期に伝聞された新撰組局長・近藤勇亡きあとの妻ツネと      太田垣連月の話、幕末の京都よもやま話など。 会費 一般1500円 大学生 5 …すべて表示すべて表示
第25話 寺田左右馬の嘆き

嘉永七年(一八五四)一月十一日、異国船八艘、伊豆の海に来るという情報が江戸の土佐藩上屋敷(現在の有楽町・国際フォーラム)に伝えられた。
一月十二日、異国船四、五艘が下田港に近づいた。その船はロシア船であるという続報が上屋敷に報告された。
一月十四日、異国船は豆州松崎の沖を通過、帆影は見えなくなったと新しい情報が入った。
一月十五日、江戸は雪が降り、気温は寒く、異国船、浦賀に十般来航という情報が伝えられた。
一月十六日、天候は晴れたが、異国船はアメリカ船であり、十二艘という情報が伝えられ、追々七十二艘になるというデマが飛んでいた。
一月十八日、林大学頭、鵜殿民部少輔、井戸対馬守が江戸から浦賀へ向かった。
一月十九日、寺田左右馬は上屋敷から舟に乗り、品川下屋敷に向かうが、その途中、各藩の海岸防備の様子を見ていく。
築地鉄砲洲の紀州藩邸は砲眼が三カ所あり八の字に開いていた。           84
金杉の会津藩の砲台は土手に長く砲門がおよそ三十余あったが、大砲そのものはまだ設置されていなかった。
田町の薩摩藩の台場はまだ建設の最中だった。    …イ
土佐藩品川下屋敷に着いた寺田左右馬は、砲台建設の件を徳弘弘蔵に命じて上屋敷に戻った。
一月二十日、雨が降っているので寺田左右馬は鍛冶橋から屋根舟に原半左衛門と二人で舟に乗り、品川下屋敷へ向かう。
日記には次のように書いている。
(元游客、女妓ヲ載せ宴楽ヲスルノ船ナリ。今ヤヤ甲冑ヲ載せ鎗ヲ横へ兵船ノ装ヲ為す世ノ変遷程難キモノハナシト、或ハ歎シ、或ハ笑シ過ヌ。午後品川邸こ到る。)
この屋根舟は、もと遊客や芸者を乗せて宴会をほしいままにした舟である。それが今や甲冑を載せて、鎗を積み、兵船を装っている。世の中の変わることば予想もできないことであると嘆き、笑ったと記述されている。
この寺田左右馬が土佐藩・品川海岸警備陣の最高指揮官である。この寺田がこのような体たらくなのである。
ペリーの再来航は予告されていたのである。ただ、翌年四月か五月という予告が、ロシアのプチャーチンが長崎へ入港して交渉を開始したことで一月に繰り上げられただけである。
土佐藩は嘉永六年十一月、鮫洲抱屋敷の中に砲台を建設する許可を幕府に申請していた。許可は下りたが、工事は始まっていなかったのである。
急遽、建設を始めて一目で、土を盛り上げただけの砲台が一月二十一日に足軽七十人で造られた。
坂本龍馬はこの寺田左右馬が指揮官の警備陣の中に加えられている。


第29話 徳弘孝蔵の手紙

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第25、26、27話は、こちらの都合で後日に掲載させて頂きます。

第29話 徳弘孝蔵の手紙

徳弘孝蔵は嘉永六年六月のペリー来航の後、江戸へ出て、再来航に備える準備をしている。
大砲、銃器、弾薬の準備や砲台の建設である。また大砲要因の養成も必要であった。
徳弘は多忙であり、自らそれをする時間もないので佐久間象山塾で土佐藩士の養成を行っていたと思われる。

ペリー艦隊の再来航は嘉永七年(一八五四)一月である。まだ土佐藩の準備は出来ていなかった。
一月十八日と記された徳弘孝蔵が土佐へ送った手紙がある。
「お聞き及びと思いますが、アメリカ人一月十五日に七艘で入津いたしました。小生たちは一番手として品川へ引き移りました。
さて、砲筒も台場も間に合いませんでした。知り合いに頼み台場をにわかに築き、八丁砲眼を開け、近々に出来る筈です。
八幡と申します所、大森の手前にあります。ここを陣屋としまして、幕を張り、賑々しいです。品川下屋敷も浜へは陣幕を張っています。寺田左右馬殿、原半左衛門殿が羽田、森、広瀬に代り、野本源蔵殿が御物頭になり足軽十人が付ています。品川御屋敷、陣屋に詰めています。池田運平が足軽七十人小頭。
御筒は二人、市川俊三郎と小生は例の如く足軽十人が付いています。
この度もアメリカをなだめてなだめて、なだめ付けのようです。
公義の御触書には只●ただ●只●ただ●、動揺せぬようにとの御指示が書いてあります。
さて、江川太郎左衛門殿へ仰せ付けには浦賀、本牧をも過ぎ、江戸海へ乗入れた時は異国船に乗り移り、精一杯さとし引戻させるようにとのご指示のようです。
さて小生もこの間は金川(神奈川県)辺りまで監視に行くよう命じられて行きましたところ大風雨で異国船も分からず生麦辺りより本牧あたりから見ましたところ、一カ所に集まっておらず、金澤にも四艘、浦川にも二艘とでした。今回は前回と違って見物は苦しからずというので、舟に乗り近くに寄って見られるそうです。
アメリカも磯遊びなどにバッテイラ(小舟)に乗ってきて、子供たちが恐れて駆けて帰ってくると、手招きして氷砂糖などを投げてくれるそうです。
黒ん坊が海上達者で恐れ入るとのことです。四、五間も飛び働いているそうです。船と船の間であれば棹を出しするすると伝っていき、棹を使えば三間も四間も飛ぶようです。
二十五日(洋暦二月二十二日 ワシントン大統領誕生日)には祝日で大砲を連発いたしました。これは前夜に御触れがあったので、騒がないようにとのことでした。
四ツ頃(午前十時)より轟音で五十発ほど鳴り、音調子よく陣屋にて聞き感じ入りました。
平静ですので、諸大名が毎日見物に船を出すので、まるで太閤記を見ているような珍らしい風景です。
二十四日には南の方で雷(かみなり)がしきりに鳴り、秋のようです。珍らしいことです。
近日中、この騒動はおさまり、めでたいことになることを祈っています。
陣中で実に忙しいこの中で聞きました話はこのようなものです
一月十八日」
徳弘孝蔵が「御国元社中」へあてた手紙である日付一月十八日とあるが、一月二十五日の祝砲の件が書かれているので、この手紙が書かれたのは少し後であろう。手紙に書かれている内容から推定すれば二月中旬以降であろう。


第28話 龍馬の師・徳弘孝蔵 (25,26,27話は後日に)

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第25話 寺田左右馬の嘆き
第26話 浜川砲台の装備
第27話 祝砲の数
以上の三話は、HP掲載の不備につき、後日に掲載します。

第28話 龍馬の師・徳弘孝蔵

龍馬の師・徳弘孝蔵 徳弘孝蔵は土佐藩の西洋流砲術家である。
孝蔵は代々後持筒(藩主側筒役)の家に文化四年(一八〇七)八月十五日生まれた。十七歳で御持筒御雇となり、翌年、十八歳で江戸表勤番を勤めた。
文政八年(一八二五)父保孝が病没したので跡目相続をしている。十九歳であった。
天保四年(一八三三)江戸勤番の時、若殿様風砲御鉄砲御用、書物写し方御用、書替御用などを勤めた。
同九年から十一年までは場内鳥打御用を勤めている。常に土佐藩の砲術役の中心にいて、日本の伝統的砲術を修行していた。
ところが天保十二年(一八四一)再度の江戸勤番の時、五月九日、徳丸原で高嶋秋帆の西洋流砲術訓練を見学して、西洋流砲術に強い衝撃をうけた。
七月十日、土佐へ帰る前、秋帆を長崎奉行所江戸屋敷に訪ねて、西洋砲術についての教えを受けている。
孝蔵は砲術家として、西洋砲術の重要性を認識し、習得することを決心する。そして、秋帆の弟子で江戸在住の下曽祢金三郎の門へ入ることになる。
天保十二年十一月六日、下下曽祢へ入門。同十三年六月二十五日、免許皆伝となり、土佐藩西洋流砲術の起源となった。
翌年、藩命により、西洋式大砲を製造することにるる。製造は下曽祢金三郎に依頼し、出来た大砲を弘化二年(一八四五)九月、品川下屋敷で試射したとされている。
品川下屋敷は海岸に面していないので、付属する鮫洲抱屋敷で江戸湾に向い実射したと思われる。試射に成功したのでこの大砲を高知へ送っている。
弘化三年(一八四六)二月二十二日、この大砲を仁井田浜で試射し、二十四日、雑喉場下で藩主山内豊煕(とよてる)の御見分を受けた。
嘉永六年(一八五三)徳弘孝蔵は白札(しらふだ)となった。そして、六月三日のペリー来航により異国船御手宛御用を命じられ、急遽、江戸へ出ることになる。ここで徳弘孝蔵が土佐藩の異国船警備陣の中で砲術、大砲の指揮をとる。
坂本龍馬は江戸で佐久間象山塾に入門しているが、帰国後、徳弘孝蔵の門下生となっている。
龍馬と徳弘孝蔵の関係は江戸で始まったと考えられる。
土佐藩は来年四月か五月にペリー艦隊が再来航するという情報をもとに湾岸警備の準備をすすめている。
「覚
一、 鉄砲五十三挺
内六貫目玉一挺但台車共
一貫目玉二挺但台車共
十文目玉五十挺
一、玉薬箱壷ッ但台車共
一、鑄玉並鑄鍋其外小道具類一式」
これらの武器を土佐から海路、江戸表へ送るため、浦賀関所を通過する裏印をいただきたいという老中あての文書がある。
嘉永六年八月十四日の日付で提出されて九月十日に許可が下りている。
そして二度目として
「鉄砲 三十四挺
鉄砲玉 八千発
内十文目玉 三千発
五文目玉 五千発」
十月二十八日の日付で、十二月二日に許可されている。

徳弘孝蔵に学んだのは坂本龍馬、坂本権平兄弟の他に、武市半平太、岡田以蔵、義平父子と多士済々である。


第24話 浜川砲台築造

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3、ペリー来航

第24話 浜川砲台築造

浜川砲台築造
嘉永六年(一八五三)十一月十三日、土佐藩は砲台の築造願を幕府に提出している。
佐々木高行日記には
〈品川大井村抱(かかえ)邸外海岸ニ砲台ヲ築カン事ヲ幕府ニ請フ〉
とあり、抱屋敷外の海岸としている。
ただ海岸に面した砂地なので、十分に固める必要があり、大森、品川御台場を応援できるように海面へ築出す計画であるとされている。幕府へは図面は後から提出するので、許可を先にいただきたいとしている。
明治期になって測量した図面によると、浜川砲台の総面積は
総積 二千三百七拾八坪五合五タ
とある。
天保十三年の幕府に提出した「指出」では八百六十九坪とあるので、約三倍に拡大していることが分る。
ただ、龍馬たちが配置された時は八六九坪のままであった。それはペリー艦隊は、来年四月か五月と予告していた再来航を一月に繰り上げて来航したので、間に合わなかったのである。
その後、次第に埋め立てが行われて現在の姿になったと思われる。
宮地佐一郎先生がご健在の時、龍馬が十九才で警備したという海岸は品川のどこですかと質問したことがある。しかし、誰もその研究はやっていないということであった。
土佐史談会の会員で東京在住という会員の仕事である。と宮地先生に言われて、筆者が基本的なことからスタートした。場所の特定、測量、史料収集という順で調査を進めていき、「寺田左右馬日記」の追跡という作業に入った。
場所が特定された時、宮地先生は一度見に行きたいので、連れていってもらいたいと話されていたが、一時間の車の移動にも病の身では耐えられない状態であった。筆者の撮影した写真で見るだけに終った。
浜川砲台の測量を実施している折、立会川商店街の方々と話をした。それがNHKの歴史番組「運命の言葉」で浜川砲台、勝島運河が放映されると町実体が活気をつけ、今年の大河ドラマで更に大きく動き始めているようである。
土佐藩品川下屋敷の中に建つ品川区立浜川中学校の新入生に毎年、坂本龍馬と品川という講演をすることになっている。
先日は品川区立小中学校教育会社会科研究部の講習会が行われ、五十人を超える先生が集まって下さり、一時間の講演とその後に地域の史跡巡りを実施した。浜川砲台跡、浜川橋(涙橋)、山内容堂墓を先生方と歩いてみた。
小学生、中学生の地域学習の一助になれば幸いと思っている。


第23話 木挽町界隈

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幕末史研究会
事務所:〒180-0006 武蔵野市中町2-21-16
FAX・O422-51-4727/電話・090-6115-8068(小美濃)
Eメール:spgh4349@adagio.ocn.ne.jp
プログアドレス:http://blogs.yahoo.co.jp/bakumatsushiken
幕末史研究会は、東京都武蔵野市を中心に1994年から活動を続けている歴史研究グループです。
第23話 木挽町界隈

木挽町界隈

坂本龍馬が学んだ佐久間象山塾は木挽町五丁目にあった。明治になってこの辺りは工部省、大蔵省の建物が並び官庁街となっている。霞ヶ関に官庁街ができる前の官庁街は木挽町界隈である。
その当時の地図を見ると、佐久間象山塾はイギリス人ウォートルスの館となっている。
Thomas James Walters(大蔵省土木寮技士)
一八六八年わが国貨幣司が大阪に造幣工場を設立するに当たり、TBグラバーの推薦により香港造幣局の設計・監督を担当したウォートルスを招聘した。
明治元年(一八六八)八月着工し、途中火災が生じたが、再建工事を含め明治三年(一八七○)十一月に大阪造幣局は竣工した。この建物は横須賀製鉄所と並び、わが国の近代ヨーロッパ式建造物として記念されるべきものなのである。
龍馬が後藤象二郎にあて書いた手紙に「江戸の銀座を京都に移す」とい案は大阪に明治三年造幣局を造るという形で実現しているのである。
大阪造幣局の工事は慶応四年八月に着工しており、九月八日の明治改元より早いのである。
ウォートルスは明治四年(一八七一)一月東京に赴任し、銀座瓦街建設工事に従事した。その時、ウォートルスの宿舎が造られたのが木挽町五丁目であり、佐久間象山塾と同じ場所である。佐久間象山の屋敷の三倍ぐらい広い面積であり、ウォートルス館の一部が象山塾の上に建てられたことになる。
その当時の地図で見ると、工部省の隣りに「英人ウォートル館」と記入されている。
明治八年(一八七八)二月、銀座瓦街がほぼ完成したあと、イギリス公使館、兵部省庁舎、霞ヶ関陸軍兵営、木挽町電信中央局等の設計・監督を行っていた。
建築の他にも浅野長勲を説得して有恒社製紙場を設立し、イギリスから弟のアルバート・ウォートルスを呼び寄せ、わが国洋紙製造にも貢献している。
現在この木挽町五丁目辺りは、昭和通りの角から電源開発ビル、日産自動車本社、新橋演舞場と並んでいた。現在、日産自動車本社が移転して、改造工事が進行中である。幕末当時のものは全く残っていないが、当時の堀が自動車道路として使用されており、唯一幕末という時代を連想させるものである。
木挽町という地名はなくなったが、道の名前として「木挽町通り」となっている。
銀座に出るとこの木挽町界隈を歩いて、幕末当時に想いを馳せるが、土佐築地下屋敷、桂川甫周屋敷、大槻平次屋敷もすぐ近くである。龍馬、松蔭、海舟たちが嘉永六年、ペリー来航当時、それぞれに異国を意識し、この江戸の町、木挽町あたりを歩き、あるいは走っていく様子が目に浮かんでくる。


第22話 三田中屋敷

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第256回 幕末史研究会

日時 2017年9月23日(土)午後2時から4時  会場・武蔵野商工会館4階 吉祥寺駅中央口徒歩5分
講師 岩下哲典氏(東洋大学教授) 小林哲也氏(東洋大学大学院生) テーマ「大政奉還」150年によせて
1、大政奉還と政権奉帰をめぐて・小林氏。2、政権奉帰後の慶喜と泥舟・岩下教授
会 費 一般1500円 大学生500円 高校生以下無料
申し込みは下記事務所まで
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FAX・O422-51-4727/電話・090-6115-8068(小美濃)
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第22話 三田中屋敷

土佐藩の中屋敷は二カ所にあった。日比谷御門内の日比谷中屋敷と三田中屋敷である。
土佐藩が天保十三年(一八四二)に幕府に提出した「指出」によれば
日比谷中屋敷 一一二五坪
三田中屋敷 六九五五坪
とある。
しかし、三田中屋敷は安政二年(一八五五)二月十九日、薩摩藩へ譲渡している。
土佐藩の三田中屋敷は薩摩藩の隣りにあり、武術の訓練に使用した矢などが飛び込み、両藩の間に問題が起きることがあったという「佐々木老候昔日譚」には次のように記録されている。
〔佐々木老候昔日譚〕
翌安政二年二月、三田の藩邸を薩摩に譲渡すことヽなり、藩士は大いに失望した。其の次第は、薩摩の上屋敷は三田に在つて、其の隣が土佐の中屋敷である。丁度今の『イロハ』といふ牛肉屋のある邊だ。さうして其の向ふが有馬で、又阿波の屋敷が隣であつたに依つて、三田の四國町と云ふた。
土佐の辻番は、中々八釜しい、江戸の三辻番の一で、有名のものであつた。所が時々薩摩の侍が来ては縮尻るのみならず、通行の際喧嘩を吹きかける。土佐の辻番は、足輕許りだが、相應の腕利のものを置いてあつたから、それを縛つて薩摩の邸へ渡すと、イヤでも何とか処置をせねばならぬ。さうすると、薩邸の侍は馬に乗つて駆けながら悪口をする。土佐の方でも負けては居ず、棒を投げ、馬を仆して縛る。その時分『土佐の棒』と云へば、名高いものであつた。今度は薩摩の侍が、土佐の屋敷へ石を投込んだり、塀の外から、援身を突込んだり、辻番の行燈を打倒したりして見るが、夫でも叶はぬ。一體土佐の屋敷には本邸はなくて長屋ばかりだが、屋敷が廣いので、在府のものが行つては調練をする。〓が空砲ではあつたけれども、込矢が外れて、_々薩摩の屋敷へ飛ぶ。そこで苦情が起つたが、御親戚の間柄だに依つて、双方とも不都合であると云ふので、終にはその屋敷を薩摩へ譲ることになつたのである。自分等はつまり我藩の重役等が、薩摩のものに殺されたのだと、大にふ平を唱へたけれども、局外であつたから、何時の間に譲つたか知らぬ位であつた。其の代りとして、巣鴨の雲州松平出羽守屋敷を御買入になつたが、これは雲州の隠居が物嗜きに建てたものであつて華奢は華奢だが、木道具が小さくて、別に役には立たなかつた。
其の時分、土佐の屋敷は、鍛冶橋上屋敷に、今の三田、築地、日比谷中屋敷鮫洲、夫から深川の砂村に、鷹狩などの屋敷があった。
土佐藩と薩摩藩が御親戚というのは土佐藩第十三代藩主山内豊熈(とよてる)の妻・〓姫が薩摩藩の島津斉興三女だからである。
広くなった薩摩屋敷は戊辰戦争の時、重要な役目をした屋敷となる。