第39話 近藤長次郎と龍馬ー1

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幕末史研究会
事務所:〒180-0006 武蔵野市中町2-21-16
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「坂本龍馬八十八話」

小美濃 清明

第39話 近藤長次郎と龍馬ー1

長次郎は坂本龍馬と同じ上町の生まれである。
水通町の横丁にあった大里屋という餅菓子屋の長男である。龍馬とは郷士と町人という身分の違いがあった。

龍馬は豪商才谷屋が興した郷士である。龍馬は商人・職人を見下す目線を持っていない。士農工商という階級を超えて活動した人物である。
しかし、長次郎から見れば、郷士の次男坊であり、羨望の視線で常に龍馬を見ていたと思われる。侍になりたいという願望が長次郎の中で次第に膨れ上っていったと思われる。由比猪内の下僕となって江戸へ出た。

安積良斉の門下生として学問を身につけるところまでいったが、両親の死で、土佐へ戻っている。
そして、再び江戸を目指した時、「岩崎弥太郎はその志に感心して自分の差している刀を餞別(せんべつ)として長次郎に贈ったと「藤陰略話」にある。
この長次郎の才能に注目していたのが土佐藩抱工(かかえこう)の左行秀である。同じ水通町に住んでいた。

この左行秀は江戸で刀鍛冶の修行した後、土佐へ移っている。名工で、吉田東洋が暗殺された時、この左行秀が作った二尺七寸という刀で斬り合っている。龍馬の兄権平が左行秀に注文して作らせた刀も現存している。刀の中心(ナカゴ)には「坂本直方(権平)」の名も刻されている。

抱工は上士であり、行秀は最後に新留守居組までになっている。

抱工は藩から扶持(ふち)をもらい、作った刀は販売するので現金収入もある。行秀は豊かな生活をしていた。

酒を飲めない行秀は甘党である。それで長次郎との接点があった。初め行秀は子供がなかったので吾子のように可愛がっていたようである。
行秀は藩命で江戸砂村下屋敷へ移るようになる。万延元年頃という。これは土佐藩が砂村に鍛錬場を造り小銃の生産に着手したからである。

輸入銃をモデルに日本製洋式銃を造るという仕事のために行秀は江戸へ出た。行秀は藩工になる時、刀鍛冶兼鉄砲鍛冶として抱えられていたのである。

長次郎二度目の出府の際は砂村藩邸に住んでいた。行秀は長次郎の侍になりたいという夢を実現させるために、惜しみなく経済援助をつづけたという。行秀は長次郎の父親的存在であり、長次郎が海舟門下生として江戸を離れるまで続いていたという。


第38話 坂本龍馬と高杉晋作

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第259回 幕末史研究会
日時 2018年1月27日(土)午後2:00から4:00 会場 武蔵野商工会館4階 吉祥寺駅中央口徒歩5分 講師 松方 冬子氏 東京大学史料編 纂所准教授 テーマ 「約条・契約から条約へ」
内容 徳川政権を素材に異国人の受け入れと通商がどのような    基本法(「約条」と「契約」)によって統御されていたかを探る 他。

「坂本龍馬八十八話」

小美濃 清明

4、龍馬をめぐる人々

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第38話 坂本龍馬と高杉晋作

土佐国、佐川出身の田中顕助(光顕)は昭和十四年まで生きた。幕末動乱の時代を生き抜き九十七歳で死去している。顕助は龍馬暗殺の時、京都にいて暗殺現場に駈けつけていた。
龍馬より八歳年下で、長州へ脱藩し高杉晋作へ接近していった。
田中顕助は高杉晋作に心酔しており、無理矢理に晋作門下生となったようである。
この田中が坂本龍馬と高杉晋作を並べて見ている。
「当時龍馬はこのお龍をつれて、一緒に歩いていた。これには、どうも驚かされた。男女同行はこの頃はやるが、龍馬は、維新前石火刀仗の間において、平気で、こういう狂態を演じていた。そういうところは高杉と、そっくりである。」
幕末当時、男と女が並んで歩くこともなかったのである。田中からすれば狂態なのでああり、手をつないで高千穂に登った姿を見たら田中は何んと言うであろうか。
田中は高杉と初めて会った時のことを次のように語っている。
「西へ行く人というのは、西行法師をさす、西行法師が隠遁したのを慕って、反対の東へゆくという心持は、神よりほかに知るものはないという諷意だ。
私と初対面の時は、正にこういう際であって、何でも場所は東山にある料亭で、高杉は、首に頭陀袋をかけていた。
芸妓がよってたかって、物珍しそうに、この新発意をからかいはじめた。
すると、高杉は、坊主頭をたたいて、謡い出したもんだ。
坊主頭をたたいてみれば
安い西瓜の音がする
満座、笑いくずれてしまった。その瓢逸な態度というものは、今もなお、眼底にありありとのこっている。」
龍馬にもこうした面がある。
「龍馬は、顔に似合はぬ、朗々、玉を転ばすやうな、可愛い声で
「障子開ければ、紅葉の座敷……」
と例のヨイショ節を、能く唄った。よさこい節は、其の本場だけに、却々、旨いもんぢやった。狎妓(なじみ)が
「貴郎(あなた)、今夜は、まだお得意(はこ)が出ませんね、さア一つ願ひます」
と言ふと
「うム、好し★」
と、盃を膳の上へ置き、左の膝を立て、手を拍って拍子を取り、三味線に合せて
花のお江戸の両国橋へ
按摩さん眼鏡を買ひに来た
よさこいよさこい
お医者の頭へ雀が止うまる
止うまる筈だよ薮医者だ
よさこいよさこい
此の二つは、文久年間、江戸で流行ったものだが、其の本は、龍馬が、江戸に居る際「土佐の高知のはりまや橋」の換歌に作って、唄ったのが初めださうで、これは俺の作ったものぢゃと、何時も、自慢に唄ふ。」
と「海援隊の回顧」という関義臣の回想録にこのように書かれている。
龍馬の一面である。
「龍馬は闊達磊落な男で、長州でいえば、高杉晋作の型に似ている。高杉と久坂玄瑞とが、常に相携えて、長短相補っていたように、坂本の相談相手には、中岡慎太郎がいる」と田中光顕は語っている。


第37話 土佐藩の斥候・密偵

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「坂本龍馬八十八話」

小美濃 清明

第37話 土佐藩の斥候・密偵

ペリー艦来航の時、幕府、各藩は情報収集のため、斥候、密偵を放っている。
土佐藩が放った斥候、密偵が何人いたかは不明だが、「侯爵山内家家史編纂掛」の史料を読んでいると、何人かの名前が上ってくる。
森澤禄馬(もりさわろくま)、衣斐小平(えびこへい)、大庭儀平(おおばぎへい)、谷村才八(たにむらさいはち)が斥候として記録に出てくる。
森澤の報告に、
〈毎日斥候として御物頭(おものがしら)あるいは平御士神奈川迄遣わされ候(そうろう)こと〉
とあるので、上士たちが毎日に交替で斥候として情報収集していたと分かる。特別に訓練をうけて教育された専門の斥候、密偵がいたわけではないようである。
ただ情報収集する能力の優れたものが、出張する回数が増えたと思われる。森澤、大庭、谷村の報告が現存するということは、その才能があったということである。
その中で特に注目したいのは大庭と谷村である。佐久間象山塾の門人帳「及門録」に嘉永六年(一八五三)十二月一日、坂本龍馬と共に連記されている人物と思われるからである。
谷村才八に関しては同姓同名である。

大庭が大庭毅平と「及門録」にあり、「山内家家史編纂掛史料」には大庭儀平とある。しかし、この当時、江戸の土佐藩邸に大庭姓は一人であり、「毅」はキあるいはギと発音するので、「毅平」「儀平」ともに「ギヘイ」と発音していたと考えられる。
同一人物と考えてもよいと思われる。

及門録を見てみると、大庭と谷村二人が丸カッコでくくられており、坂本龍馬が一人そのカッコに別カッコで付け加えられている。この書き加えは何を意味しているのだろうか。
大庭家の家格は「御馬廻」で知行二百石の上士である。七代目大庭恒五郎景保の末弟が毅平景政(ぎへいかげまさ)である。
嘉永六年九月十五日、砲術修行のため、江戸表へ出立を命ぜられている。
谷村家の家格は「御馬廻」で世禄八十石の上士である。六代目谷村酒之自輝(よりてる)の弟が才八自寛(さいはちよりひろ)である。
嘉永六年九月十五日、学問修行のため、江戸表へ出立を命ぜられている。
この大庭と谷村は嘉永六年九月十五日、同じ日に藩命で江戸出府することになった。
ペリー艦隊二度目の来航に備えての人事で江戸へ出てきている。坂本龍馬のように私費で剣術修行で出ていて、たまたまペリー来航に遭遇して、臨時御用で警備陣に加えられた郷士と違うのである。
最初から大庭・谷村で組み合わされたチームなのである。
下田へ斥候として派遣させられたのも、藩及び寺田左右馬の指示であろうか。
『ペリー艦隊日本遠征記』にも「二人組の密偵」「二人の日本役人」と二人組の行動が記録されており、これが斥候の普通の形だったのかもしれない。


第36話 大庭儀平・谷村才八の下田報告-4

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小美濃 清明

第36話 大庭儀平・谷村才八の下田報告-4

大庭儀平・谷村才八の報告のつづきである。
○佐久間修理は夜中異国船へ参ったという風聞があります。それ故に佐久間の姿を画いた例の砂金鏡があるそうだという風聞です。これも彼国へ参る下心であり、不届成奴★ふとどきなるやつ★でございます。
この報告は吉田松陰密航未遂事件についてである。
佐久間修理(象山)の弟子が(吉田松陰)が密航を企てたが、弟子が伝聞では消えてしまい、佐久間修理自身が密航を企てたことになっている。
大庭・谷村はこの風聞を下田で知り報告しているのである。
砂金鏡で佐久間修理が自身の姿を画いたというこれも風聞を聞いたのである。吉田松陰が銀板写真を写したという事実もない。「不届成奴」という大庭・谷村の報告は幕末当時の一般的な感情が出ていて面白い。
吉田松陰については『ペリー艦隊・日本遠征記』に詳しく記述されている。
先ず、吉田松陰は小舟でペリー艦隊に乗り移っているが、実はその二日前に陸上でペリー艦隊乗組員と接触していた。
〈ある日、このような上陸のさなか、一行が郊外を抜けて田舎を歩いていたところ、二人の日本人があとをつけてくるのに気づいた。
はじめは二人組の密偵が監視しているのだろうと思い、ほとんど注意を払わなかった。ところが、この二人はひそかに近寄ってくるようだし、こちらと話す機会をうかがっているように見えるので、アメリカ士官たちは彼らがやってくるのを待った。近寄ってきた二人を見て、この日本人が地位と身分ある人物であることが分かった。いずれも高い身分を示す二本の刀を帯び、幅広で短い立派な錦襴★きんらん★を袴をはいていた。〉
吉田松陰と金子重之助の二人がペリー艦隊の士官へ近づいたのである。そして、
〈時計の鎖をほめるような振りをしながら、畳んだ紙を士官の上着の胸に滑り込ませた。二人は意味ありげに唇に指を押し当て、秘密にしてくれと懇願してから、足早に立ち去った。〉
手紙を士官の上着に入れて松蔭と重之助は去っていった。手紙は四月二十五日と日付があった。船へ乗り込む二日前である。
ペリー艦隊の通訳ウィリアムズが漢文の手紙を英語に翻訳した。長文の手紙だが、最後に次のように書いている。
〈われらの言葉は粗野で意中を吐露するに足りませんが、われらの心は真に誠実であります。執事、願わくは其の情を察し、其の意を憐れみ、疑うことを為すなかれ、拒むことを為すなかれ。万二(瓜内万二、松蔭偽名)公太(市木公太、重之助偽名)〉
松蔭と金子重之助は四月二十七日の夜、ペリー艦隊に乗り込んだが、アメリカへ連れて行くことを拒否されている。翌日、松蔭と重之助は自首して捕らえられることになる。
その後、日本側の首席通訳、森山栄之助がポーハタン号に来て、
〈「昨夜、発狂した二人の日本人がアメリカ艦に近づいていった」と話し、旗艦にやってきたかどうか、もしそうなら、その男たちがなにか不都合なことをしなかったかどうか教えてほしいと言った。
副官は、まことに大勢の人々が給水や業務でたえず海岸からやってくるので、来艦した二人を正確に覚えているわけではないが、と答えてから、なんの悪行も犯されなかったし、そんな素振りを見えなかったと断言した。
そして、通訳に、いま話に出た日本人は、無事に海岸にたどり着いたかとたずね「着いた」との答えに大いに安堵した。〉
と記録が残っている。


第35話 大西儀平・谷村才八の下田報告ー3

 

明けましておめでとうございます。
 本年も宜しくお願いします。 
       小美濃 清明

 

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小美濃 清明

第35話 大庭儀平・谷村才八の下田報告3

大庭儀平・谷村才八の報告のつづきである。
○女の姿をほしがります。絵にかきますと、三年の命しかないと申しますので
誰でも恐れて写しません。そこで女郎を見本に出してみました。砂金鏡という鏡を女の前に立て両脇に小さなろうそくのようなものを立て、火をつけると、その姿が移ります。そして、火を消してもその鏡に姿が移り、消えません。それをまた紙へ写し取ります。甚だめずらしいものです。
「砂金鏡★さきんかがみ★」と報告されたものはカメラである。ペリー艦隊は写真機を持って来ており、各地で撮影している。銀板写真★ぎんばんしゃしん★機である。
これはフランスのルイ・ジャック・マンデ・ダゲールによって一八三○年代に発明された写真術で、彼の名前をとってダゲレオタイプともいわれる。
この写真は直接陽画法のため一撮影で一枚の画像しか作ることができない。しかも左右逆像である。
ペリー艦隊に同乗して来日した写真師はエリファレット・ブラウン・ジュニアである。
ブラウン・ジュニアは、浦賀奉行与力・田中光儀、浦賀奉行支配組頭・黒川嘉兵衛を撮影している。おそらく、下田で撮影したのもブラウン・ジュニアと思われる。
外国人が日本国内で日本人を撮影した最古の写真という位置づけで重要な写真とされている。
下田で撮影する時、すでに「写すと三年の寿命で死ぬ」という迷言ができていて、誰も恐れて写さないと大庭・谷村が報告している。
銀メッキの板に直接、光を当てて画像を写す技法なので、「砂金鏡★さきんかがみ★」と翻訳したのである。実際、銀メッキの板を見ての日本語化であったと思われる。
大庭、谷村が実際撮影している風景を見ていたのか、伝聞だけで報告書を作成したのか不明である。
文章からの感じでは「甚だめずらしいものです」と報告しているので、撮影しているところを見ての報告と思われる。
○異船バッティラと申すのを日本のテンマ船のように思っていますがそれは違います。
筒(大砲)が装備できる打ち船という意味だそうです。才八が咄の他に小船があります。それが当方のてんまです。風が無い時は六人両脇に腰かけてカイ★●●★で漕ぎます。大変早く肝つぶした申します。風のある時は革の帆を使うようです。
ペリー艦隊が軍艦に積んできた小さな舟についての報告である。
バッティラと言われているのは、日本でテンマ船と言う、本船と陸との連絡に使われる船と違うと書いている。バッティラと言うのは大砲が装備できる「打ち船」という意味であると報告している。
谷村才八の報告に他の小舟がでてきますが、それが日本側のテンマ船のことです。これは無風の時は六人ずつ左右に腰かけて、オールで漕いでいきます。カッターである。大変早く、びっくりします。風がある時は革の帆で帆走しますと、書いている。
大庭・谷村は下田の湾内で帆走する小舟を見ての報告である。


第34話 大庭儀平・谷村才八の下田報告-2

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第34話 大庭儀平・谷村才八の下田報告-2

大庭儀平と谷村才八の報告のつづきである。
○当場所(下田)の女子供に至るまで異人を恐れなく心やすくなりました。初めは女子供は恐れて逃げましたが、道で会っても日本と通りの礼をいたします。歯を染めている女へは彼がユビに自分の歯を左右に摺て手を振り通るそうです。子供、白い歯の女には何やら言いますが、人妻には言葉をかけないと申すアメリカの法だそうです。
お歯黒をしている女性は既婚者である、ということがペリー艦隊の乗組員にも分かったのである。トラブルを発生させないようにというペリー提督の指令が全乗組員に伝えられたのである。
○町家へ異人が茶を求めに参りまして、そこへ珍しい物を置いて並べます。役人へ出しますと、銭と引替と言っております。この頃、直売を待って買う人もいるようです。
乗組員たちは下田で土産品を買うようになったが、アメリカの品物を下田の人々に売る者も出てきたのである。
○異人の船には何刻と申す法があるようです。上陸願を持って上陸して来て、刻限切れになって、本船はバッティラを引き上げたので、ある者はその夜は野宿したようです。翌日帆柱へ登らされるのが罰のようです。そのうちの一人が落下しまして即死しました。ひどく皆が歎きましたので、ねんごろに葬式をいたし村の寺に葬りました。
この事故は『ペリー艦隊・日本遠征記』にも記録されている。
〈ポーハタン号乗り組みの一水兵が不運にもマストの上から落ちて、まもなく亡くなったため、埋葬の準備をしなければならなくなった。
日本当局は、この水兵を陸上に埋葬したいという要請を快く承諾した。そこで埋葬地が柿崎村の近くに選ばれ、そのときから、此処はアメリカ人用の埋葬地にあてられた。葬儀の当日、数人の日本役人が来艦し、日本の法律上必要なのだと言って、死体を検分したいと願い出た。役人は、これは監督官にも自分たちにも自由にできない手続きであるが、委員たちに要求すれば、今後は行なわずにすむはずだと丁重に前置きして、検分を要求したのだった。
まだ棺に釘を打っておらず、日本役人の要求を拒むだけの理由もなかったので、検死は許可された。それから通常のキリスト教の儀式にのっとって陸の埋葬地に葬られた。〉
○日本には子供がたくさんいるのを羨ましいと言っております。彼の国にては五人子供が生まれると、二人は育ちますが、三人は死ぬと申しています。寒中は母子共に死ぬこともあるそうです。母乳が少く、食物に米がなく、ハミなどを喰うそうです。
乗組員と下田の人々の交流は、密度を深めて、このような個人的な話も始めていたのである。健康に育った下田の子供たちの姿はアメリカ水兵の心をとらえたのである。
「ハミ」とは何だろうか。食品のことなので「ハム」と発音したのが、大庭や谷村には「ハミ」と聞こえたのだろうか。下田の人々が「ハミ」と聞いて、大庭や谷村に伝えたのだろうか、そこは不明である。


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第33話 大庭儀平・谷村才八の下田報告1

嘉永七年(一八五四)三月三日、日米和親条約を締結して帰国の途についたペリー艦隊は、途中、下田に二十五日間、停泊した。
その時、土佐藩はペリー艦隊の動向を探るために斥候を下田へ派遣していた。  これはその報告内容である。この資料は「侯爵山内家家史編纂掛」の記録であり、高知市民図書館収録のものである。  斥候大庭儀平、谷村才八は嘉永六年十二月一日、坂本龍馬と共に、佐久間象山塾へ入門した仲間である。 ○ 二人(大庭・谷村)の宿泊している宿へ異人が毎日訪れて来ました。上官の者は衣装も立派な羅紗(ラシャ)を着用し、下着には白羽二重の様なものを着て、上に羅紗の筒(つつ)ぼを着用しています。笠と思うような冠のようなものをかぶっており、はなはだ自慢げに見えます。 ○ 異人らは家に来ますと、座敷に上りますがクツを脱がず、座敷でも座るということもなく立っております。その時は両手を片腹へ当て両臂を張っております。道を歩いている時も、立ち止まればやはり両臂をはります。また座へ腰かける事もあるようです。 ○ 二人の宿の前を異人が通ります時は宿の娘を招きたいと入って来て、娘の手を取ります。これは異人の礼と申すそうです。その言葉は「タダイマ」と申し、頭は下げないで帰る際は「アバヨ」と申し帰るそうです。これは江戸にては子供の別れに申す言葉です。御国元では「イマイマ」と申す言葉です。これなどは異人が横浜で聞き覚えたものと思われます。 ○  二人の宿に異人が入って来てドビンへ指をさし「茶茶」と申しましたので、宿の娘が、茶を入れて差し上げたところ、熱くて、「水水」と申したので水でうめましたところ呑みまして、異国の銭二十文ぐらい置いて帰りました。アメリカの銭ではなく唐銭のようです。 ○ 百文銭をしきりに欲しがりますので、天保通宝がありましたので見せますと「天保天保」と云い手を出しました。 ○ 異人は蛇を取りに行きました。その時、役人がつきそい■山へ入りますと、笛を吹きました。すると蛇がたくさん集まりましたのでそれを籠(かご)に入れて帰り、湯がいて皮をがして、油で揚げて食べておりました。  ペリー艦隊の乗組員は幕府の役人による監視下におかれていたので、自由に行動はできなかった。その時の様子が『ペリー艦隊・日本遠征記』に次のよう記録されている。 〈アメリカ人は依然として自由をかなり拘束され、プライバシーは兵士や密偵の疑り深い監視と、差し出がましいおせっかいによって侵害された。提督自身、ある日士官数人を伴って町を歩いているとき、たえず二人の日本役人が先行していることに気づいた。役人は出会う住民をかたっぱしから家に追い戻して戸を閉めさせた。商人が外国人に品物を売ることを禁じられているのは明らかで、どんなささいな品物を買おうとしても、まったく手に入れることができなかった。提督はふたたびこの狭量な処遇に抗議しなければならないと思い、旗艦付副官を監督官のもとに派遣し、いくつか苦情を申し立て、即刻このような扱いをやめるよう要求させた。〉  幕府の役人とペリー艦隊との交渉の結果、自由に行動できるようになった。そして、買い物に使う、貨幣のことが問題となった。そして、  一ドル銀貨は中国銅銭一六○○個と同じ価値として、臨時の為替レートができた。日本の貨幣は厳重な法律により流通を統制されていて、外国人との取り引きには使用できなかったので、下田の商人は合衆国の貨幣を受け取ることになったとペリー艦隊は記録している。  日本で最初にドル貨幣で、ペリー艦隊乗組員が買い物をしたのは下田である。


斥候・森澤禄馬の報告2

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第32話 斥候・森澤禄馬の報告2

斥候・森澤禄馬の報告2

斥候の森澤はどのようにして情報をとっているのか分からないが報告は詳細である。「昨十五日はペルリより献上物御受取の様子である。その品は地球蒸気船雛形、これは五間ほどもある。バッテーラ三艘献上の由(よし)。  去る十六日応接の日は又又ペルリ病気の為副将アーダムス上陸、大酔にて当所より■ハ留のところ、「サケサケ」と申し勝手口ニ向い招き候由(そうろうよし)。帰路は足も立たず、船着まで這っていったそうです。この頃の様子、双方甚しく和睦いたしたように見えます。何んという所置なのでしょう。雲の上の事は合点がいきません。喧嘩過ぎては委細も分りませんが、唯今の機密は一切洩しません。「ユスランド」の人物一人乗組んでおりました。これは彼国より使節が参る筈のところ、アメリカ船に同乗し、一人参加していたのですが、病死いたしましたので、葬式をいたしたいと願い出ましたので、横浜という応接所のある所へ葬りました。日本人も立会い、棺の釘も抜き、人物を改めた上に埋葬いたしました棺は座棺で上が広く、下が狭い日本式のものでした。その後、お経を唱えました。日本側より法華宗の一人が引導を渡したそうです。
一日に一度、御門出もありましたところ、諸藩の物見、見物人がの歯を挽くようになくなることはなく、ひっきりなしに人が見物に来ています。  その上、諸藩参勤交代の途中で見物に来るので驚いております。この間も備前の家老、伊木若狭出府の途中で、一同肝を潰しました。騎馬具足櫃の供廻り五十騎でした。この人は三万三千石ということです。」
土佐藩の放った斥候の一人森澤禄馬は詳細な報告を伝えている。特にアメリカ側の様子を克明に描いている。副将アーダムスが酒に酔って日本語で「サケサケ」と叫んでいる様子や船着場まで立てずに這っていたと描写している。森澤はどこにいるのだろうか。実際には見てないのだろうが、応接所の誰かから目撃談を聞いているのだろう。新聞社の社会部記者のように取材しているのだろう。そして文章力も確かであり、その場面が見えてくるような報告書に仕上がっている。  またペリー艦隊に同乗していた人物が病死した際、棺の釘も抜いて遺体の確認をしている様子や、日本側が僧侶を一人参列させて、読経させている場面も生々しい。禄馬は立ち合っていないが、取材と文章力での場面を彷彿とさせている。  そして、禄馬は日米が急に和睦していく様子に疑問を投げかけ、合点がいかないと記している。雲の上のことは分からないという結論であり、自分が握った情報は機密として洩らすことはしないと言っている。  幕末の情報世界も今日も、あまり変わらないということが発見であり、こうした記録を伝えている山内家家史編纂所のすごさを実感するレポートである。


坂本龍馬大鑑

村長より緊急報告です。

小美濃清明講師の著作による超豪華本が出ました!

坂本龍馬大鑑 です。

全国郵便局、書店、Amazonなどで購入できます。

「湿板写真家・林道雄所蔵」
「湿板写真家・林道雄所蔵」

忠実に再現した貴重な複製お宝に触れて
“坂本龍馬の実像”を体感する!

坂本龍馬の辿った道を貴重な資料と共に辿る! 大政奉還から150年。そして坂本龍馬没後150年を迎える2017年。日本近代史上最大のヒーロー「坂本龍馬」の最新情報がわかる1冊。明治維新の裏の立役者として、あまりにも有名であるにもかかわらず、多くの謎を残している龍馬。本書では、ヒーロー伝説の再現と共に、今まで語られていなかった龍馬と海外との関わり等、いまだ確認されていないその一面に迫る。大河ドラマ『龍馬伝』監修や、龍馬研究を手掛けている有識者たちによる最新の知見を集めた「最新の龍馬像」をまとめた豪華書籍に加え、龍馬ゆかりの品々を忠実に再現した複製資料全10点+DVDを収蔵。
高知・長崎・鹿児島・京都・東京を中心に、広範囲なお宝資料収集を実施。また重要文化財に指定されている貴重な資料を含む「龍馬直筆の手紙」や関連資料を精密に複製・再現し、これまでにない〝坂本龍馬の実像〟を“読んで、触って、体感する”まったく新しい読書体験をすることができる豪華保存版です。


【監修・執筆者】小美濃清明
早稲田大学卒。作家。幕末史研究会会長。全国龍馬社中副会長。主な著書に「龍馬の遺言〔近代国家への道筋〕」(藤原書店)、「龍馬八十八話」(右文書院)、「坂本龍馬と刀剣」、「坂本龍馬・青春時代」(ともに新人物往来社)などがある。

「読んで」、「触れて」、「感じる」 龍馬という漢。精巧に再現した貴重な複製お宝で龍馬に“触れる”全く新しい歴史体験が味わえます。 大政奉還、明治維新の立役者龍馬がどんな人物だったのか?
新しい知見を集めた書籍と、貴重な複製書簡などでこれまでにない“龍馬の実像”を体感!

生き生きとした龍馬の足跡を感じられる全10点のお宝&DVDを収蔵。

手紙への裏書き(龍馬直筆) 桂小五郎から龍馬へ

複製お宝史料 手紙への裏書き(龍馬直筆) 桂小五郎から龍馬へ

薩長同盟成立後、桂小五郎の要請に応え、慶応2年2月5日、龍馬は寺田屋での襲撃で手を負傷しているにもかかわらず、
薩長同盟の書簡に、朱書きの裏書きをしている〈一部抜粋にて複製〉。(宮内庁書陵部蔵)
手紙(龍馬直筆) 龍馬から中根雪江宛

複製お宝史料 手紙(龍馬直筆) 龍馬から中根雪江宛

2016年新発見。慶応3年11月10日、暗殺の5日前。文章に新国家と書かれている。(個人蔵)
手紙(龍馬直筆) 龍馬から乙女姉へ

複製お宝史料 手紙(龍馬直筆) 龍馬から乙女姉へ

慶応2年12月4日。新婚旅行の報告。日本初の「新婚旅行」と言われている。寺田屋の遭難のあと、危険な京都を離れ、妻お龍と一緒に鹿児島で湯治しに行く龍馬。霧島山登山の様子を「イロハニ」の記号で説明している〈一部抜粋にて複製〉。(京都国立博物館蔵)
手紙(龍馬直筆) 龍馬から乙女姉へ

複製お宝史料 手紙(龍馬直筆) 龍馬から乙女姉へ

文久3年6月29日。「日本を今一度洗濯いたし申し候」という有名な言葉が登場。勝海舟の弟子になり、幕府の海軍操練所にいながらも幕藩体制への怒りが「日本の洗濯」という形で表現されている〈一部抜粋にて複製〉。(京都国立博物館蔵)
書状(龍馬直筆) 新政府綱領八策

複製お宝史料 書状(龍馬直筆) 新政府綱領八策

慶応3年11月。明治維新後の新政府設立のための綱領。船中八策を簡略化して書かれたような内容になっている。後半部分に「○○○」と名前を伏字にしてある箇所があり、誰の名が入るのか議論になっている。(下関市立歴史博物館蔵)
写真 坂本龍馬湿板写真

複製お宝史料 写真 坂本龍馬湿板写真

慶応2~3年撮影。当時の湿板写真を元に大型写真として再現。
(高知県立坂本龍馬記念館蔵)
俚謡(龍馬直筆) 紙本墨書

複製お宝史料 俚謡(龍馬直筆) 紙本墨書

稲荷町(遊廓街)から朝帰りした龍馬は、お龍に責められ、即興で俚謡を謡う。お龍への愛と遊びたい気持ちとを織り交ぜたこの俚謡を聞き、お龍も許してくれたといいます。龍馬の人間臭い面が垣間見られる史料。(下関市立歴史博物館蔵)
海戦図(龍馬直筆) 長幕海戦図

複製お宝史料 海戦図(龍馬直筆) 長幕海戦図

馬関海峡での長幕海戦図。丙寅丸を指揮した高杉晋作などの文字も見える。第二次長州征伐では亀山社中のユニオン号で長州藩を支援、長州藩の勝利に貢献した。龍馬はこの戦いについて、この戦況図付きで長文の手紙を兄・権平に書き送っている〈一部抜粋にて複製〉。(個人蔵)
記録帳 玄武館出席大概

複製お宝史料 記録帳 玄武館出席大概

「玄武館出席大概」は清河八郎が安政4、5年頃に北辰一刀流玄武館(千葉周作が開いた道場)に籍を置いていた309名の氏名を記録したもの。龍馬が山岡鉄舟(小野鉄太郎)に剣術を習っていたことを証明する史料〈一部抜粋にて複製〉。(清河八郎記念館蔵)
地図 龍馬が見ていたとされる世界地図

複製お宝史料 地図 龍馬が見ていたとされる世界地図

新製輿地全図。箕作省吾作。(国立国会図書館蔵)
【特別付録DVD】 約1年間に及ぶ本書取材の記録

【特別付録DVD】 約1年間に及ぶ本書取材の記録

龍馬の人生と明治維新のことを、末裔の方々や研究者たちが、すべて本企画のために分かりやすく振り返る。特別にインタビュー撮り下ろし

岡崎誠也(高知市長)、尾崎正直(高知県知事)、勝 康(勝海舟の子孫)、小曾根吉郎(小曾根乾堂の子孫)、西郷隆夫(西郷隆盛の子孫)、坂本匡弘(坂本家10代目)、橋本邦健(全国龍馬社中会長)、前田終止(霧島市長)、宮川禎一(京都国立博物館学芸部列品管理室長)、三吉治敬(三吉慎蔵の子孫)等(五十音順/敬称略)

坂本龍馬大鑑

監修・執筆者:小美濃清明

早稲田大学卒。作家。幕末史研究会会長。全国龍馬社中副会長。主な著書に「龍馬の遺言〔近代国家への道筋〕」(藤原書店)、「龍馬八十八話」(右文書院)、「坂本龍馬と刀剣」、「坂本龍馬・青春時代」(ともに新人物往来社)などがある。

【本書の内容】

第一章
新国家をつくる
第二章
高知城下に生まれて
第三章
幕末東アジア情勢
第四章
剣術修行開眼
第五章
土佐藩の枠にとらわれず
第六章
脱藩決行
第七章
勝海舟に心奪われて ~アメリカ最新事情に触れる~
第八章
薩摩の志士たちと“日本の洗濯”へ
第九章
長崎の港を見つめて ~海援隊誕生~
第十章
運命の薩長同盟締結
第十一章
秘境竹島に夢をもとめて
第十二章
本懐全う~「新国家創造」に夢と愛を捧げた志士~
第十三章
新国家の財政計画

完全受注生産版『坂本龍馬大鑑』仕様
※商品デザインおよび写真はイメージです。実際の商品とは異なる場合があります。
※お宝および本書の内容は変更になる場合がございます。

完全受注生産版『坂本龍馬大鑑』仕様

[書籍]
判型:A4判(上製・糸綴じ) ページ数:192ページ予定
特製ケース入り
[付録]
貴重な複製お宝資料全10点収蔵
[DVD]
龍馬の足跡を追った貴重映像を収録

定価:16,200円(税込)
カドカワストア 特典ポストカード付

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第32話 斥候・森澤禄馬の報告 2


小美濃清明講師の略歴は上部の「プロフィール」をクリックしてください。

幕末史研究会
事務所:〒180-0006 武蔵野市中町2-21-16
FAX・O422-51-4727/電話・090-6115-8068(小美濃)
Eメール:spgh4349@adagio.ocn.ne.jp
プログアドレス:http://blogs.yahoo.co.jp/bakumatsushiken
幕末史研究会は、東京都武蔵野市を中心に1994年から活動を続けている歴史研究グループです。

第32話 斥候・森澤禄馬の報告 2
(注)第31話が編集の都合で後になります。申し訳ありません。

斥候・森澤禄馬の報告2
斥候の森澤はどのようにして情報をとっているのか分からないが報告は詳細である。「昨十五日はペルリより献上物御受取の様子である。その品は地球蒸気船雛形、これは五間ほどもある。バッテーラ三艘献上の由(よし)。  去る十六日応接の日は又又ペルリ病気の為副将アーダムス上陸、大酔にて当所より■ハ留のところ、「サケサケ」と申し勝手口ニ向い招き候由(そうろうよし)。帰路は足も立たず、船着まで這っていったそうです。この頃の様子、双方甚しく和睦いたしたように見えます。何んという所置なのでしょう。雲の上の事は合点がいきません。喧嘩過ぎては委細も分りませんが、唯今の機密は一切洩しません。「ユスランド」の人物一人乗組んでおりました。これは彼国より使節が参る筈のところ、アメリカ船に同乗し、一人参加していたのですが、病死いたしましたので、葬式をいたしたいと願い出ましたので、横浜という応接所のある所へ葬りました。日本人も立会い、棺の釘も抜き、人物を改めた上に埋葬いたしました棺は座棺で上が広く、下が狭い日本式のものでした。その後、お経を唱えました。日本側より法華宗の一人が引導を渡したそうです。
一日に一度、御門出もありましたところ、諸藩の物見、見物人がの歯を挽くようになくなることはなく、ひっきりなしに人が見物に来ています。  その上、諸藩参勤交代の途中で見物に来るので驚いております。この間も備前の家老、伊木若狭出府の途中で、一同肝を潰しました。騎馬具足櫃の供廻り五十騎でした。この人は三万三千石ということです。」
土佐藩の放った斥候の一人森澤禄馬は詳細な報告を伝えている。特にアメリカ側の様子を克明に描いている。副将アーダムスが酒に酔って日本語で「サケサケ」と叫んでいる様子や船着場まで立てずに這っていたと描写している。森澤はどこにいるのだろうか。実際には見てないのだろうが、応接所の誰かから目撃談を聞いているのだろう。新聞社の社会部記者のように取材しているのだろう。そして文章力も確かであり、その場面が見えてくるような報告書に仕上がっている。  またペリー艦隊に同乗していた人物が病死した際、棺の釘も抜いて遺体の確認をしている様子や、日本側が僧侶を一人参列させて、読経させている場面も生々しい。禄馬は立ち合っていないが、取材と文章力での場面を彷彿とさせている。  そして、禄馬は日米が急に和睦していく様子に疑問を投げかけ、合点がいかないと記している。雲の上のことは分からないという結論であり、自分が握った情報は機密として洩らすことはしないと言っている。  幕末の情報世界も今日も、あまり変わらないということが発見であり、こうした記録を伝えている山内家家史編纂所のすごさを実感するレポートである。