第47話 後藤象二郎の軍艦買付け

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「坂本龍馬八十八話」

小美濃 清明

第47話 後藤象二郎の軍艦買付け

薩摩・長州に比較して軍備の遅れていた土佐藩は慶応二年(一八六六)八月から同三年七月まで、軍艦を急遽買い付けている。
後藤象二郎は慶応二年七月七日、高知から陸路宇和島へ向った。そして豊後水道を渡って臼杵へ上陸し、九州を横断、七月二十六日長崎へ到着している。二十日間の旅だった。その後、長崎で江戸から来るジョン万次郎を待って、八月二十五日、長崎を出航し上海へ向った。後藤象二郎が自ら軍艦を買付ける海外出張である。ジョン万次郎は通訳として、どうしても連れていかなければ、交渉ができなかったので、一カ月長崎でジョン万次郎を待っていたのである。
上海では蒸汽船スパンスキー(30トン後に箒木(ははきぎ)と命名)と暖〓可(80トン後に空蝉と命名)を買付けて九月六日、帰国している。
この二艘につづいて、蒸気船兵庫(後に胡蝶と改名)、蒸汽船朱林(後に夕顔と改名)、帆船ガフチール(後に羽衣と改名)、帆船セイボルン(後に横笛に改名)砲艦南海(後に若紫と改名)、帆船大坂(後に乙女と改名)と八艘の軍艦を買付けた。
合計金額は三一七九〇〇両余といわれている。後藤象二郎が土佐藩参政として指揮しての買付けである。
この会計を処理する役が土佐商会の岩崎弥太郎である。
この他に銃器、弾薬の買付けもある。巨額な買付けを行った土佐藩はイギリス商人オールトと長崎の商人から借金が二十万両を超えている。
この会計問題についての回答となるか分らないが土佐郷士史家・平尾道雄が「土佐藩」第二財政と経済の中で、通貨私鋳をとりあげている。私鋳とは、公でなく貨幣を鋳造することであり、贋造(がんぞう)である。
平尾は次のように記述している。
真覚寺の僧静昭の日記、明治元年(一八六八)閏四月十二日の記事に「御国において壱歩銀鋳るとて、他国銀座の人百五-六十人計入りこみ上町に滞留の趣」と当時の風説を載せたものがあるが、これによると壱歩銀私鋳の計画も進められていたようである。
問題になった二歩金私鋳のことも、この前後に着手されたものらしく、これについては藩内有司の間に異論もあったが背に腹はかえられず、極秘裡に鋳造された。メキシコ銀を改鋳して金をかけた贋造二歩金が大坂を中心にその付近に姿をみせたのはそれからまもなくのことで、このことは当然市場を混乱におとしいれた。明治元年八月二十九日、行政官は各府藩県に指令してその出所を探索させたが判明せず、ついには阪神の国際貿易にも支障をあたえ、翌二年八月十二日(洋暦)外国公使団から日本政府にきびしい抗議が提出されたのである。狼狽(ろうばい)した政府は贋金一〇〇両を三〇両の相場で回収する手段をとり、また期を定めて贋造者の自首を要請した。九月五日土佐藩はこれに応じて事訴することになり「先年来王事に国力を尽し分外の費用これあり、止むを得ざる情実を以って鋳金仕り候。一時焼眉の急を救うのみにて速かに止めさせ候次弟」とその事情を弁じて罪を待った。十一月の届書によれば造金高五万四四〇〇両、その鋳造期間を慶応三年正月から翌年正月とし、正月下旬に機械設備一切を破却したとあるけれども、これはなんらかの事情によって故意に事実を糊塗(こと)した部分もあるようである。
政府はこの贋金問題については、明治二年五月の箱館戦争以前のものは已発覚・未発覚または已結正・未結正を問わず一切不問に付する方針を定めたので土佐藩は無罪ということになった。土佐藩のほかに薩摩藩も偽造のことがあったが自首のために無罪となり、自首を怠った筑前福岡藩は責任者がきびしい処分をうけた(『維新経済史の研究』)。西南雄藩のこのような違法行為はそれぞれ藩財政の深刻な苦悩を暴露したものと考えることはできないであろうか。


第46話 海舟と龍馬

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第46話 海舟と龍馬

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勝海舟の曾祖父は米山検校である。越後から江戸へ出てきた盲目の青年は死去した時、莫大な財産を持っていた。
子供は十二人で、六男が男谷新次郎で水戸藩士となり、九男が男谷平蔵で幕臣となった。金で買ったサムライの地位である。
男谷平蔵の三男が勝左衛門太郎惟であり、勝小吉という方が誰でも知っている名前である。その小吉の息子が麟太郎で海舟である。一人の妹がお順で佐久間象山の正室である。

坂本龍馬の生まれた坂本家は高知の豪商才谷屋が郷士株を買って興★おこ★した家である。
坂本家初代が直海★なおみ★であり、二代直澄★なおます★、三代直足★なおたり★が坂本龍馬の父である。四代直方★なおかた★が権平兄である。
龍馬は正式には郷士御用人坂本権平弟と書かれている。
この二人に共通するのは関ヶ原合戦以来の武士でないということである。旗本八万騎などと言い、徳川家康と共に関ヶ原で戦った家というのが売り物の旗本も多い。こういう連中は自分の出自を誇るものである。
武家社会というのはそういうものである。そうした中で、自分の能力を武器として生きていく姿が二人に共通しているのである。
幕末期には剣術も身につけていなければ殺されてしまい、目的を達成できない。剣術を上達させるのは度胸である。海舟と龍馬は似ているのである。
そして、これは宮地佐一郎先生に教えていただいたのだが、江戸ッ子と土佐人は気が合うのだと言う。だから海舟と龍馬は気が合うのです。だからあなたと私は気が合うのですと笑っておわれた。名言である。
この師弟は共に佐久間象山塾で学んでいる。同門である。この三人に共通するのは干支★えと★である。
象山 文化八年(一八一一)辛未★かのとひつじ★
海舟 文政六年(一八二三)癸未★みずのとひつじ★
龍馬 天保六年(一八三五)乙未★きのとひつじ★

何かのご縁であろうか。三人が未は珍しい。
海舟と龍馬は後年、仲が良くないという説がある。しかし、遠く離れていても心が通じていれば、何もしないこともある。
「慶応二年二月一日
聞く。薩、長と結びたりと云う事、実成るか。我門柳川の士、当春、薩船に便して下の関へ到りしに、長より早速使者指し越し、手厚成りしと。又聞く、坂龍、今、長に行きて是等の扱いを成すかと。左もこれあるべくと思わる。」
海舟は日記にこう書いている。心が通じているのである。
そして、龍馬が死して十五年のあと、
「日月は転ぶ丸の如し、追想豈漠然たらんや、一龍棺を蓋ひて後、既に過ぐ十五年」とい漢詩を甥の坂本直(高松太郎)に寄せている。
海舟は愛弟子を常に思いつづけていたのである。人と人とのつながりとは、そんなものなのである。


第45話 サトウの語学力

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第45話 サトウの語学力

サトウの語学力
アーネスト・サトウの語学力については良く知られている。「おだてともっこには乗らねえ」と洒落●しやれ●
を飛ばした話は有名である。
坂本龍馬とサトウは夕顔に乗り八月十二日に須崎を出航して長崎に八月十五日夜遅く入港している。その間、四日間、同じ船に乗っているのである。サトウの日本語はすばらしく、いくらでも日本語で会話ができたはずである。だが二人はほとんど話を交していないようである。
サトウは日記に船の速度が遅いことと、指にできた_●ひよう●疽●そう●の痛みにいらだっていたと書いている。二人の会話がなかったことは残念である。
サトウの語学力が驚異的であったことを如実に語る史料がある。維新史料編纂事務局が出版した「維新史料○芳・坤」にアーネストサトー書翰が載っている。
毛筆、草書体のこの手紙は慶応三年十一月九日に薩摩藩士・吉井耕助にあて書いている。署名はヱルネスト サトウとカタ仮名で書いている。
時候のあいさつの後に
〈何度もお使いの人に来ていただき、かたじけなく思います。早速お使いの人に返事を差し上げなければならないところ、近日大阪へ行くつもりででしたので、返事を見合せていました。
しかし、ミトフォルドならびに拙者(せっしゃ)両人、昨日当地(京都)に到着しましたので直ぐにお尋ねしなければならないのですが、取込んでおりまして、それができませんので、お気毒ながら、ちょっと宿の寺へお寄り下さるようお願い致します。用向がありますので、前もって来られる時間をお知らせ下されば、間違いなくお待ち申し上げます。〉
と書き、十一月九日、吉井幸輔様とある。龍馬暗殺の六日前に京都で書いている手紙である。
龍馬暗殺については萩原延寿氏が「遠い崖」の中で次のように書いている。
「この私が、長崎で知った土佐の才谷梅太郎は数日前京都の宿で三名の姓氏不詳の徒に暗殺された。
Saedani Umetaro, a Tosa wan whose acquaintance I had made at nagasaki, had been murdered a few ago at lus lodgings in kioto by three men unknown
(この稿については萩原延寿氏より原文資料提供を頂いた)」
宮地佐一郎著「龍馬百話」(文春文庫)より

アーネスト・サトー書翰
維新史料編纂事務局蔵寫眞
以寸楮仕啓上候冷寒之時節益御壯健被爲入太慶奉存候然む過日態々御使を御遣被下忝く存候早速御同人へ頼み返事差上へき筈之處近日上阪之積有之暫時見合申候然むミトフォルド并拙者両人昨日當地來著致直〓御尋問罷出可申候得共取込〓付其儀不能候間御氣之毒〓がら御寸暇〓て宿寺へ御奇被下候様奉願候尤用向〓付他行御座候間前以御來臨之刻限御爲知被下候半バ無相違御待可申候謹言
十一月九日
ヱルネスト・サトウ


第44話 サトウと高知

 

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(アーネスト・サトウ)

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小美濃 清明

第44話 サトウと高知

アーネスト・サトウは初めて高知を訪れた。その時のことをサトウは詳しく記録している。
《九時半過ぎに、船は浦戸に投錨した。はるかかなたに小山がつづいている。海岸沿いに生(は)えている帯のような松並み木の景色は、私にセイロン島のポアン・ド・ガル湾をまざまざと思いおこさせた。ポアン・ド・ガルは、コロンボの築湾ができる以前は、東洋通いの郵便船がよく寄港した場所である。
高知湾は出入口がきわめて狭隘(きようあい)で、岩礁(がんしょう)が多く、湾とは言うものの実際には一つの入江をなしている。船は砂浜に向かってまっすぐ走っていたようだったが、やがて急に左に転じて船首を川の中へ乗り入れ、小さい入江の内側の水深十五フィートのところに碇(いかり)をおろした。》(岩波文庫『一外交官の見た明治維新』より)
サトウは、高知を初めて見てセイロン島のポアン・ド・ガルを思いたしている。印象はかなり明るい南国の島といった感じだったのだろう。その印象は今でも同じである。
浦戸湾(高知湾)は入口が狭く、航海士にとっては操船がむずかしい湾である。サトウも須崎に較べて、あまり良好でない湾の様子を細かく描写している。
慶応三年八月十一日、九反田の開成館で山内容堂に謁見したサトウは、その様子を次のようにつづける。
《容堂は口をひらくや、お名前はかねがね承知していると言った。私はこれに答えて、面謁の光栄を与えられたことに感謝すると述べた。ついで容堂は、もし加害者が土佐人であるならば、これを逮捕の上、処刑しようし、たとえ犯人が他藩の者であっても、探索の手をゆるめはしないと、前に後藤が保証した通りのことを繰りかえした。彼は大君(タイクーン)からの手紙を受取っていたが、それには、犯人は土佐人だという確かな証拠があると聞くから、犯人を処罰するように勧告するという意味のことが書いてあった。犯人が自分の藩の者ならもちろんさっそくその通りにするが、大君(タイクーン)の言う「証拠」とは何を言うのか自分にはさっぱりわからないと言った。》
容堂も犯人は土佐人ではないと信じていて、イギリスや幕府の言うことに対して納得していないのである。
《容堂老人は、実は友人から、イギリス人が同胞の殺害に激昂(げきこう)しているから、この事件については妥協したらよかろうとの忠告の手紙がきているが、自分としてはそんなまねはしたくない、もし当藩の者に罪があるなら、これを処刑しようし、また事実そうせざるを得ないが、もし藩の者に罪がないならば、万難を排して無実を申し立てる所存であると言った。》
容堂の友人とは松平春嶽のことであり、忠告の手紙とは坂本龍馬が兵庫まで届けたものである。その手紙のために、龍馬は須崎まで来ることになってしまったのである。
このあと、容堂と後藤はサトウにイギリスの憲法、国会、選挙制度などについて質問をしている。サトウはイギリスの憲法に似たもものを新しい日本に制定しようと考えていると知るのである。


第43話 須崎の板垣退助ー2

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第43話 須崎の板垣退助ー2

これは後藤の談判が正しく、談判会場が変更されたことに気づかなかった乾たちの負けである。
談判会場については一部の研究書で夕顔の中とされているが誤りである。夕顔から机、腰を大善寺へ運んでしまっているので、談判はできない。後藤が自からバジリスクに乗り込むという迅速な判断が談判開始を円滑にさせている。後藤の颯爽とした姿が浮んでくる逸話である。
談判はパークスの威圧と怒気を含めた言葉で始まったが、後藤は冷静に対応し、八月七日、八日と二日間にわたり土佐は関与していないと論証した。通訳はアーネスト・サトウが務めた。
その結果、長崎へ行き現地で談判を続けることとして、英国側はパークスの代理で、アーネスト・サトウ、土佐藩側は佐佐木三四郎と決まった。
パークスは英国艦バジリスクで須崎を出航し江戸へ向かった。サトウはバジリスクから土佐藩船空蝉(うつせみ)に乗り移り、須崎から浦戸へと向う。アーネスト・サトウが初めて高知を訪れることになる。
この時、龍馬は夕顔の中で八月八日、兄権平へ手紙を書いている。その手紙には須崎へ来ている理由と、無銘の了戒二尺三寸の刀を拝領したいと書いている。そして、今持ち合せている、時計一面を贈りますとして手紙に添えて権平へ届けている。
この須崎で秘かに須崎港へ上陸しているとも言われている。龍馬は乾退助と語り合ったのかもしれない。


第43話 須崎の板垣退助ー1

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第43話 須崎の板垣退助ー1

「パークスが軍艦で土佐へ来る」と知った乾(板垣)退助は兵隊を連れて須崎へと走った。軍務総裁・乾退助、別撰小隊長・山田喜久馬、足軽小隊長・山地忠七、祖父江(土屋)可成、差使役・高屋佐兵衛という陣容で各隊が揃って高知から須崎へと向った。
土佐藩上層部は不測の事態が起ることを心配して談判中は出兵しないと藩議で決定していたが、乾は「兵制ヲ改革シ、且ツ実地演習ヲナス高時機」と判断して勝手に兵を出してしまったのである。
これらの諸隊が須崎に到着した時、夕顔の乗組員たちが、船から机、腰掛を大善寺へ運び込んでいた。
山田、山地、祖父江らは作業中の乗組員に問いただすと、談判会場を作っているところであり、パークスは英国兵を率(ひき)いて会場へ来る予定だと答えた。
これを聞くと、彼らは応接掛の佐佐木三四郎、渡辺弥久馬のところへ押かけ、「英国側が兵を率いて談判にのぞむのは真(まこと)か」と詰め寄った。佐佐木、渡辺が
「そうだ」と答えると、彼らは
「そうか、それならば我々もまた兵を率いて談判するべきと思うが、いいがか」と迫った。
佐佐木、渡辺は返答につまり、押し問答をくり返したが、それならば談判の代表をつとめる後藤象二郎のところへ行こうと押しかけた。
「兵を率いて談判するかしないか」と問うと、後藤は
「兵を率いていくことは勿論だ。英国が兵を率いて来るならば、土佐も兵を率いていき、もし、無礼の言葉を発したら、あなたたちが討ちなさい。しかし、それよりも前に私が斬っているだろう。談判の際はあなたたちを呼ぶから待機していて下さい。」
と答えた。
乾らは悦び勇んでその準備をしていたが一向に声が掛からなかった。
後藤は大善寺での談判を変更し、英国軍艦バジリスクに自ら乗り込み、幕府立ち会いのもと談判を開始していた。
乾らは湾内に停泊しているバジリスクを遠くから見ているしかなかった。


第42話 後藤象二郎と龍馬

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第42話 後藤象二郎と龍馬

慶応三年(一八六七)七月六日の夜、長崎でイギリスの軍艦イカルス号の水夫二名が何者かに斬殺された。

犯人は白袴をはいていたという情報で、龍馬たちの海援隊に嫌疑がかかった。海援隊の隊士は白袴姿である。そして、その夜、土佐藩船横笛が長崎港を出航し、土佐藩軍艦南海丸も三時間後に出航したので、横笛から南海丸に乗っ移って、犯人は逃げたという噂さが広がっていた。
英国公使パークスは「土佐は薩摩、長州につぐ雄藩だから、幕府は恐れて詮議をしないに相違いない」と思い込み、大坂で幕府の重役に迫った。
外国奉行の平山図書頭は数回、パークスと折衝をこころみたが、不調に終わり、ついに土佐藩重役に大坂へ出頭するように命じてきた。
そこで山内容堂は京都にいた大目付・佐佐木三四郎と仕置役・由比猪内を下坂させた。
七月二十九日、大坂の薩摩屋敷でまず西郷隆盛と会い、英国との談判の方法について細かい予備知識を得て、問題が切迫した場合は薩摩藩軍艦三邦丸を備用するという諒解を取りつけた。
その後、佐々木、由比は老中・坂倉周防守に面会し、外国奉行・平山図書頭列席で問答をしたが、何の確証もなく、ただの風聞にすぎないと土佐藩側は〓述した。
幕府はパークスが土佐人が犯人と信じ込んでいると説明する。それならば直接、談判をしたいと土佐側が申し出ると、不測の事態が起こることを心配して幕府はそれを許可しなかった。
佐佐木、由比がこの状況を高知の容堂に報告するため、土佐へ帰国すると幕府に伝えると、幕府は外国奉行・平山図書頭、大監察・戸川伊豆守、小監察・設楽若次郎らを土佐へ派遣するから、そう心得よと返答してきた。
佐佐木、由比が帰国することになると、パークスは幕府を通じて英国軍艦で両名を土佐へ送り届ける言い出した。
〈証拠は無い。それを土佐人と決めつけ、土佐へ軍艦を差し向けるとは無礼である〉
と返答し、大坂から兵庫へ向かった。兵庫には薩摩藩の三邦丸が待っていた。
そこへ、松平春嶽から山内容堂へあてた手紙を届けるために坂本龍馬がやってきた。佐佐木に手紙を届けて、話をしている間に三邦丸は錨を上げ出港してしまった。龍馬は下船することができず、偶然高知へ行くことになる。これも龍馬らしい逸話である。
八月二日、三邦丸は須崎に入港。すぐに佐佐木は郡●こおり●奉●ぶ●行●ぎよう●・原傳平、前野源之助を呼び、英国艦、幕府艦がつづいて入港するので準備をするよう指示した。
「英国軍艦、須崎へ来る」。この突然の事態に、須崎はもとより高知城下も人心が沸騰した。
談判は後藤象二郎が土佐藩を代表して、パークスと行うと決定した。
龍馬はこの年の一月、長崎の清風亭で会見し意気投合している。三邦丸に龍馬が乗っていることも後藤に伝えられている。
しかし、佐幕派は二度も脱藩し許されている龍馬をにくんでいるので、これを秘密にしていた。そして秘かに三邦丸から土佐藩船・夕顔に龍馬を移した。
容堂にも龍馬潜伏の件が報告されると、
「その取りはからいについては、しっかりと聞いた、何にぶん、やかましいことだねえ」と笑ったという。


第41話 西郷隆盛と中岡慎太郎

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第41話 西郷隆盛と中岡慎太郎

宮地佐一郎先生は『中岡慎太郎全集』を完成させた。長い間の念願だった全集の完成は平成三年(一九九一)春であった。
刊行のことばに
「土佐国奈半利川の清流を遡る草深い山村の庄屋から、幕末の維新回天の事業に馳せ参じて奔走挺身した、先覚者、知識人、周旋家中岡慎太郎研究の、現在における集大成として、この一冊を江湖に送ります 編者」
とある。常に坂本龍馬と比較すると、中岡が龍馬の影にあるとして、もっと研究しなければいけないと宮地先生は話されていた。この全集の完成により、中岡慎太郎研究が一段と加速していくのを期待していると嬉しそうにられていた。

慶応三年(一八六七)二月十六日、高知を訪れた西郷隆盛は城下の豪商・川崎深右衛門屋敷を宿所とした。
西郷は散田邸で山内容堂に四賢侯会議への出席を求めた。容堂は承知し、西郷の使者としての役目は終った。 ところが西郷は風邪をひき病床に伏してしまう。暖い鹿児島から来て土佐の寒さで体調を崩してしまった。

しかし、西郷の人気は高く、宿所を訪れて一目会いたいという土佐人も多かった。厚かましい男は、書をねだり、風邪をひき床にあると云っても帰らず、せめて一とひと文字書いてくれと言った男もいる。

そんな中、坂本権平が訪ねると快よく西郷は会った。

弟・龍馬が望んだ坂本家の刀を持参し、これを届けて欲しいと西郷に頼んだ。権平が西郷に見せたのは吉行である。西郷は権平の願いを承知して、吉行を預り鹿児島へ帰っていった。
西郷が鹿児島へ帰ったのは二月二十七日である。
五日後、三月二日、中岡慎太郎が鹿児島へやって来て、三月三日、西郷邸へ一泊している。
高知から預ってきた吉行は西郷の邸にあると考えられる。
西郷は中岡が長崎へ行くことを知っているので、龍馬へこの吉行を届けるよう依頼したと見られるのである。 ただ中岡が長崎を訪れた三月十四日、亀山社中を訪問しているが、龍馬に会った記録はない。
しかし、龍馬が長崎にいなかったのではない。この日龍馬は福岡藤次、岩崎弥太郎を訪れている。龍馬と中岡は長崎で会うことができなかったのである。
その後、中岡は大村で三月十五日渡辺昇に会い、太宰府に向う。
十七日、中岡は太宰府に到着、十七日に三条実美に謁見している。十九日、中岡は太宰府を出発し、二十日下関に着いている。ここで龍馬に会っているので、龍馬は長崎から一足先に下関に戻っていたのである。ここで、権平から西郷へと渡された吉行は、中岡から龍馬へ渡されたと思われる。

龍馬の友、西郷、中岡手を経て、龍馬へ届けられたのである。


第40話 長崎の岩崎弥太郎

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第40話 長崎の岩崎弥太郎

長崎の岩崎弥太郎 いろは丸が沈没した事件はその後、長崎で談判となる。土佐藩は参政・後藤象二郎を筆頭として岩崎弥太郎らが交渉を開始した。
岩崎の日記「瓊●けい●浦日歴」を見ていくと、その過程がよく分る。瓊浦とは長崎のことである。
慶応三年(一八六七)四月二十三日、いろは丸は紀州藩船明光丸と衝突し沈没した。その情報は四月二十九日、長崎へ伝わった。
四月三十日 岩崎竹島へ向う
このあとの五日間は空白となっている。
五月六日 岩崎唐津へ船が入港。
五月十日 岩崎長崎へ帰る。
五月二十九日 五代才助を訪ねて、紀州藩船を以って沈没いたしたいろは丸品物の代価の償●つぐない●のことについて談ずとある。(原文は漢文なので大意を記す)
六月二日
早朝、紀州償金の帳面を調べ、後藤象二郎の邸に行き坂本龍馬と密話する。
午後二時前に五代才助を訪ねて、品物代価の帳面を渡し、大洲藩の重役大橋采女方へ行き、沈没した船の価の取扱いについて相談した。
六月三日
午後に坂本良●ママ●馬が来て酒を飲む。心の中のことを静かに語る。かねて思っている本心を語ると坂本が手をたたいて、善●よ●いと言った。
六月六日、
午後、才谷梅太郎と大洲藩の船将玉井某を訪ねて、いろは丸の代価について相談をした。
六月九日
後藤象二郎と坂本が午後、水連船に乗る。高橋が随行し、午後二時出港した。
余及び一同が見送ったが、不覚にも決が流れた。
とある。大政奉還へ向って後藤象二郎と坂本龍馬が長崎から京坂へ向ったのである。
龍馬と岩崎弥太郎は長崎で交友を深めているが、岩崎の日記から受ける印象は面白い。
日記の中に二人の交流が分る記述が多くある。六月九日の中にも
「坂本良馬より筑紫鎗ノ短刀所望致候ゆへ、君代りに馬乗袴仕立相贈」とある。
両人とも刀剣の収集という趣味を持っていて、交流が深いようである。
筑紫の国で作られた鎗●やり●を短刀に仕立て直した短刀を岩崎が持っていたのである。これは特別なもので、珍品だった。古刀期の作品でめったにない短刀である。
そこで龍馬はその短刀が欲しくなり、分けてくれと頼んだのである。しかし、岩崎は断り、馬乗袴を誂えて龍馬に贈ったのである。
収集家は自分の集めたものを同じ趣味の人に見せて自慢するのが楽しいのである。そして、それを評価してくれると更に楽しいのである。龍馬は欲しいという程、評価してくれたので、岩崎はご満悦なのである。
二人の間柄はいろは丸談判で急速に接近していったのではないだろうか。
いろは丸の賠償金の価格は、岩崎弥太郎を中心に決定されていくのが真相ではないだろうか。八万三千両の賠償金は後に七万両に減額されている。当初から高い価格を提示していたように思われる。


第39話 近藤長次郎と龍馬ー2

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「坂本龍馬八十八話」

小美濃 清明

第39話 近藤長次郎と龍馬ー2

行秀は砲術専門家と交流があり小銃を製造している。その人脈の中で海舟を知っていたと云われる。

長次郎の方が海舟門下生になるのが早かったと云われている。

脱藩した龍馬が江戸へ出た時、すでに長次郎は砂村にいた。鍛冶橋門外にあった千葉定吉道場を訪ねたというが危険である。

鍛冶橋内には土佐藩上屋敷があり、目と鼻の先に脱藩者が訪ねるのは考えられないことである。

むしろ、長次郎も行秀も居る砂村の方が良いと思われる。
この砂村で一事件が起きている。砂村の鍛錬場で小銃を生産している時、五十人ぐらいの若者が働いていた。

この集団の中に過激派浪士をかくまって欲しいと板垣退助が頼み込んだ。行秀はしかたなく承知した。しかし、行秀と退助の間で衝突が起き、行秀が慶応三年藩命で土佐へ帰国する時、京都の土佐藩邸でこの話を暴露した。そして、土佐へ帰国した行秀は板垣退助からの密書を藩庁へ提出した。

板垣退助は藩庁から尋問を受ける事になった。結局、板垣はその罪で切腹を言い渡されることになる。しかし、戊辰戦争が始まり板垣は会津まで転戦していった。

切腹はうやむやになり明治を迎えた。その時、西郷は「戊辰戦争で命を捨てた者は多いが、命を拾った者はおはんだけじゃ」と笑ったという。

砂村下屋敷は江戸中心部から離れており、周囲は水田であった。隠れ家としては最適であったのではないだろうか。
龍馬も砂村を訪ねていないだろうかと考えている。