第54話 肥前の鐔

 小美濃清明講師の略歴は上部の「プロフィール」をクリックしてください。

幕末史研究会
事務所:〒180-0006 武蔵野市中町2-21-16
FAX・O422-51-4727/電話・090-6115-8068(小美濃)
Eメール:spgh4349@adagio.ocn.ne.jp
プログアドレス:http://blogs.yahoo.co.jp/bakumatsushiken
幕末史研究会は、東京都武蔵野市を中心に1994年から活動を続けている歴史研究グループです。

第264回幕末史研究会
日時2018年6月30日(土)午後2時から4時
会場武蔵野商工会館 4階 吉祥寺駅中央口徒歩5分
講師小美濃清明(幕末史研究家)
テーマ 幕末の刀剣
講義内容 日本刀剣史の中で幕末期の刀はどのような特徴が顕著なのだろうか、他の時期の刀剣と比較して検討する。
実物を展示してわかりやすく解説していく。
代表的な幕末期の刀鍛冶についても解説します。
会費 一般1500円 大学生1000円 中学生以下無料
申し込み 6月28日まで事務所へFaxまたは Eメールで。
Eメール・spqh4349@adagio.ocn.ne.jp
FAX・0422 51 4727

「坂本龍馬八十八話」
5、刀剣

小美濃 清

第54話 肥前の鐔

はるい
姪・春猪(はるい)にあてた手紙に龍馬は次のように書いている。
(この鐸、肥前より送りくれ候ものにて、余程品よろしくと段々申もの御座候。江戸などにてハ古道具やなど欲しがりし申候なり。何卒御養子の腰に止り候よふ、希入れ候〉
慶応二年(六六六)、秋ころと推定される手紙である。春猪の夫となった養子・坂本清二郎の差料に使われるようにと願いながら、春猪に鐸を贈ったのである。
肥前の国で作られた鐸は、代表的なものをあげると、南蛮(なんばん)、若芝(じゃくし)、矢上(やがみ)などがある。
いずれも、土地柄を反映して異国情緒が漂う作風である。
南蛮はその名のとおり、南蛮文化をうけた長崎で造られた鐸であり、写真①のように全体が網目のように透かされている。竜を浮きあがらせるように彫刻されているものが多い。
普通の鐸が鉄(銅、鋼などの合金も使用する場合もある)を彫刻して図柄を浮きあがらせる技法だが、若芝は中国の特殊技法である薬液による腐蝕の工法で、山水風景、竹、雲竜などを浮かびあがらせる作風である。写真②のように彫りが浅い仕上がりの鐸であり、中国風の雰囲
気の図柄である。
矢上は長崎市内の地名で、そこに住んでいた光広という鐸工が初代から三代までいた。
じすかし
作風は群猿図を細密な肉彫りにして、地透にする工法で、俗に「矢上の千匹猿」といわれて
いる。
龍馬が春猪に贈った鐸はこの三流派の鐸のどれかだろうと思う。
江戸の古道具屋が欲しがる程、品質のよいものだと龍馬は書いている。龍馬は子供の頃から坂本家の所有する刀剣や鐸を見る機会があった。また坂本家の裏門がある水通町には鐸を作る
職人も住んでいた。
武具類について詳しい知識を持っていたので、江戸の古道具屋も欲しがる位の品質が上等なものと鑑定しているのである。
春猪は兄・権平の娘なので、龍馬からすれば姪であるが、歳が近いので、妹のような存在である。
その春猪が養子をもらい結婚したので、叔父として、姪と養子がうまく暮らしていけるよう気遣いをみせているのである。そうした気配りから自分もよいと思った肥前の鐸を土佐に送ったのである。
龍馬はこの時、長崎におらず、(たぶん下関であろうか、)その地で「肥前より送りくれ候もの」と書いているので、龍馬はこの鐸をもらったものであろうと思われる。
鐸は季節によって付け替えたり、儀式によっても付け替える。現代の背広につけるネクタイのようなものであり、気分によっても取り替えることもある。いつも同じものではないのである。

ちょっといいネクタイを姪の夫にプレゼントしたといった感じの話なのである。


第55話 左行秀という刀工-2

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第264回幕末史研究会
日時2018年6月30日(土)午後2時から4時
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テーマ 幕末の刀剣
講義内容 日本刀剣史の中で幕末期の刀はどのような特徴が顕著なのだろうか、他の時期の刀剣と比較して検討する。
実物を展示してわかりやすく解説していく。
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「坂本龍馬八十八話」
5、刀剣

小美濃 清明

第55話 左行秀という刀工-2
(第54話 肥前の鐔、が後になります)

この左行秀が坂本龍馬の兄権平の注文で作った刀が高知に実在している。
吉日東洋が安岡嘉助、大石団蔵、那須信吾らに襲われた時、東洋は左行秀二尺七寸という長
刀を差しており、応戦したという。
おおしまやま一しだいさん
左行秀は抱工となり、水通町から浦戸湾に面する大島山(五台山) の山麓に屋敷を移して刀
を作っていたが、万延元年(一八六〇) に江戸へ出府するよう藩命が下り、江戸の砂村下屋敷
に移り住んでいる。
第55話 左行秀という刀工
この砂村(現・江東区砂町)下屋敷の一画に鉄砲製造工場が建設され、鉄砲が製造されてい
る。
土佐藩は輸入銃をモデルとして日本製の西洋銃を造る計画を実施した。芸製造の中心に左
行秀を配置したのである。
行秀は優れた技術を駆使して西洋銃を製造していた。その工場には常時、若い職工達が集め
られて鉄砲を製造していた。
ここに近藤長次郎が出府してきて、同居している。長次郎の生活は行秀が援助しており、パ・
トロンとなっている。
行秀は鉄砲鍛冶としても知られており、勝海舟とも面識があったという。
近藤長次郎の略歴を書いた河田小龍の「藤陰略話」には次のように記されている。
〈左ノ藤右衛門ハ名ハ行秀、筑前の鍛工ニシテ名手ノ聞ヘアルヨリ、水通丁三丁目鍛冶七
兵衛卜云ヘルモノ之ヲ請ジ己ガ家二住マシメ其術ヲ学ビ居シガ、後藩こ挙ゲラレ士籍トナリ、
のち
東武沙村二住メリ。其水通ニアリシ頃長次郎近隣ナレバ、日々彼ノ鍛場こ遊ビ懇切ナリシ)
とあり、勝海舟の門下生に長次郎がなる背景を書いている。
長次郎と海舟を会わせたのも左行秀の可能性がある。
龍馬が文久二年(天六二)土佐藩を脱藩して江戸へやって来るのはその年の夏から秋にか
けての頃とされている。
「勝海舟日記」 の文久三年正月元日には、
ちょ、つ‥しろ・フ
(龍馬、殖次郎(長次郎)、十(重)太郎ほか一人を大坂へ到らしめ、京師に帰す。)
とあ態-
坂本龍馬、近藤長次郎、千葉重太郎が海舟の命令で行動している。すでに龍馬、長次郎は門
下生になっているのである。
龍馬は江戸に出て来た時、砂村下屋敷の中にあった行秀の工場に隠れていた可能性はないの
だろうか心
土佐藩上屋敷は鍛冶門内にある。千葉定吉道場は鍛冶門外にある。脱藩した龍馬が上屋敷の
目の前の道場に出入りするのは少し危険のような気がする。
砂村下屋敷であれば、江戸城下から遠い距離であり、長次郎、海舟の接点も考えられるので
ある。


第55話 左行秀という刀工-1

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「坂本龍馬八十八話」
5、刀剣

小美濃 清

第55話 左行秀という刀工-1
(第54話 肥前の鐔、が後になります)

高知城下の坂本家屋敷の裏門は水通町という通りに面していた。この通りは中央を小さな川が流れており、水の通る町だったので水通町と云っていた。川は城下の飲用水となる上水道として使用されていたので、川を見守る役人が配置されていた。
この水通町の西側にさまざまな業種の職人が住んでいたので、職人街を形成していた。
草屋、畳屋、紺屋、仕立屋、樽屋、寵屋、傘屋、髪結、左官、乗物師(駕籠)、と軒が並んでいる。
その中に鍛冶四人、研師一人、鞘師一人、と二丁目に住んでいる。
塗師(ぬし)一人、白銀師(しろがねし)一人、鐸師(つばし)一人が水通町一丁目。
この水通町には武士の表道具(刀剣)の関係職人が集団で住んでいた。刀が錆びた場合、研師が必要となる。鞘が割れたり、古くなった場合、鞠師が必要となる。
鞘を新しく作った場合、鞘に漆を塗る塗師が必要となる。刀の切羽(せっぱ)や鈍(さばき)は白銀師がつくり、鐸は鐸師が作る。武士にとって、必要な職人の集団である。龍馬はこうした刀剣職人(職方)の集団に囲まれて育ったのである。

水通町二丁目と三丁目の間の横丁に大里屋(おおりや)という餅菓子屋があった。ここが亀山社中で活躍する近藤長次郎の実家である。この長次郎をわが子のように可愛がって士分まで育てあげたのが刀鍛冶の左行秀(さのゆきひで)である。
行秀は筑前(福岡県) で生まれて、江戸で刀鍛冶の修行をして、名工となり土佐藩抱工の関田勝広の食客として土佐に入国し、水通町に住んでいた。
この行秀は土佐の酒好き職人の中で下戸だった。酒がまったく飲めなかったのである。
長次郎と知り合ったのも 〝まんじゅう″がとり持った緑だったと思われる。
土佐藩抱工の関田勝広が死去した後、左行秀が土佐藩抱工となった。
その時、土佐藩は刀鍛冶兼鉄砲鍛冶として抱工として上士の末席に加えられている。

 


第53話 龍馬と寺田屋お登勢-2

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「坂本龍馬八十八話」

小美濃 清明

第53話 龍馬と寺田屋お登勢-2

「法華経」という経典がある。二十八品(ほん)の中の第十六品、「如来寿量品(にょらいじゆりようほん)」に次の文言がある。
《衆生既信伏(しゆじようきしんぶく)質直意柔軟(しちじきいにゆうなん)一心欲見備(いっしんよっけんぷつ)不自惜身命(ふじしゃくしんみょう)》
(衆生、既(すで)に信伏し、質(すなお)にして意柔軟(こころなおやか)となり、一心に仏を見たてまつらんと欲して、自身命を惜しまざれば)読み下すとこうなる。
そして、もう一品に、
《諸有修功徳(しょうしゆくどく)柔和質直者(にゆうわしちじきしや)則皆見我身(そツかいけんがしん)在此而説法(ざいしにせツぼう)》これを読み下すと、(諸有(もろびと)の、功徳(くどく)を修(しゅう)し、柔和(にゅうわ)にして質(すなお)なる者は、則ち皆、わが身、ここに在りて法を説くと見るなり)である。
「質直意柔軟」「柔和質直者」と「法華経」の中に二度、(直)と(柔)の組み合わせが出てくる。
すなお   なよらか にゆうわ   すなお   ほ止こけ
質直(すなお)にして柔軟、柔和にして府見直な者は佛(ほとけ)を見ることができると書かれている。そして、やわらかい心を持って質直な者は悟りの境地へと尊びかれていくと書かれている。
龍馬は直陰から直柔と諱(いみな)を変えた背景には何か理由があると考えられる。
龍馬の心は柔らかく、質直(すなお)なのである。
筆者は寺田屋お登勢の墓を訪ねた時、お登勢が熱心な「法華経」の信者であることが分かった。
墓には「妙」「法」「連」「華」「経」の五文字が刻まれた五輪塔であった。直柔という諱に変えさせたのはお登勢だったのではないだろうか。


第53話 龍馬と寺田屋お登勢-1

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「坂本龍馬八十八話」

小美濃 清明

第53話 龍馬と寺田屋お登勢-1

坂本龍馬はイカルス号水夫殺害事件により、イギリス公使パークスが土佐の須崎港へ入港するのを待っていた。
龍馬は薩摩藩三邦丸で須崎へ慶応三年(一八六七)八月二日に入港している。そして、土佐藩船夕顔で八月十二日、長崎へ向けて出港している。須崎港内に十一日間、滞在していた。
その間に寺田屋お登勢へ手紙を書いている。
《御別申候(おわかれもうしそうろう)より急こ兵庫こ下り、同二日の夕七ツ過ギ、土佐の国すさキ(須崎)と申(もうす)港に付居申候。
先々(まずまず)ぶじ御よろこび。是より近日長崎へ出申候て、又急々上京仕候。御まち可レ被レ遣(つかわさるべく)候。
かしこ
八月五日
l芦
うめより
おとせさま
御本之》

坂本龍馬は松平春嶽から山内容堂へあてた手紙を兵庫港に碇泊中の三邦丸に届けに来た。佐佐木三四郎と話しているうちに三邦丸が出航してしまい、予定せずに土佐の須崎港へ来てしまったのである。
突然船が動き出し、下船できなくなった。この船は薩摩藩船である。龍馬も佐佐木も、船長・航海士とうまく連絡をとっていなかったのだろう。船は予定どおり出港した。龍馬は突然乗り込み、佐佐木と話をしていて、下船しそこなったのである。
そこで、土佐へ行くのも悪くはないと龍馬は考えている。臨機応変である。
しかし、・入港して三日後、お登勢へ手紙を書いたのである。お登勢が帰ってこない龍馬を心配しているだろうという気遣いである。
こうした気遣いが人のこころを魅了するのである。それを龍馬は自然にやっているのである。
龍馬は慶応二年(一八六六)一月、伏見の寺田屋で襲われて、負傷している。そのあと、伏見の薩摩藩邸から京都の薩摩藩邸へ送られた。そして、怪我の治療のため、一カ月、京都の薩摩藩邸内に滞在していた。
寺田屋お登勢も龍馬を見舞いに訪ねている。
この頃、龍馬は諱(いみな)を直陰(なおかげ)から直柔(なおなり)に変えている。これは龍馬が殺害されるかもしれなかった大難から、あやうく逃がれたことがきっかけとなったのではないだろうか。


 

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「坂本龍馬八十八話」

小美濃 清明

第52話 菩提心

坂本龍馬が「奈良★ママ★崎将作に逢し夢見て」と題した和歌を詠んでいる。

面影の見えつる君が言の葉を
かくしに祭る今日の尊さ

龍馬はお龍の父・楢崎将作には一度も会っていない。お龍と龍馬がめぐり逢った時、将作はすでに死んでいた。その将作に龍馬は夢の中で会ったのである。
お龍から将作について、いろいろと聞いていたのであろう。青蓮院宮の侍医だった将作は、勤王医として頼三樹三郎や池内大学らと親しく、安政大獄で捕縛されて、入牢中に獄死している。
夢の中で将作は龍馬に語りかけたのである。その言葉を龍馬は大切に思って、将軍の招魂祭をしたおりに詠んだ和歌である。
将作は龍馬に何を語ったのだろうか。それは「お龍を幸せにしてやって欲しい」という意味の言葉だったのではないだろうか。龍馬は生真面目な性格であり、その願いに応えるように将作への菩提心から招魂祭を行い、和歌を詠んでいるのである。
招魂祭は使者のたましいを、あの世から招いて祭祀を行うことであり、僧侶が読経する場合や神官が祝詞★のりと★を唱える場合もある。
龍馬とお龍は下関か長崎で招魂祭を行っていたのである。
もう一首、龍馬の菩提心がみえてくる和歌がある。「父母の霊を祭りて」と題した和歌である。
かぞいろの魂やきませと古里の
雲井の空を仰ぐ今日哉
「かぞいろ」とは「かぞいろは」という古語の略であり、両親、父母という意味の名詞である。
父母の霊を祭って、父母の魂が下りて来るようにと古里★ふるさと★(高知)の空を仰ぎ見ている今日ですという意味である。
龍馬が高知に在る時、坂本家で招魂祭を行ったのであろう。その時に詠んだのである。
おそらく、兄権平を和歌を詠んだと思われるが、それは残っていない。
坂本家は龍馬の祖母・久が和歌に堪能であったので、父・八平、兄・権平も和歌を詠んでいる。龍馬も祖母の血が流れており、和歌を多く詠んでいる。
龍馬の菩提心は坂本家に生まれ育っていくうちに、自然に身についたものであり、心の底に常に存在していたものと思われる。
龍馬の母・幸は弘化三年(一八四六)六月十日、四十九歳で死去しており、龍馬は十二歳であった。
父・八平は安政二年(一八五五)十二月四日、五十九歳で死去している。龍馬は二十一歳であった。龍馬が第一日目の江戸修行を終えて帰国した翌年のことである。
父・八平の死去した安政二年十二月以降のある年、龍馬が高知に在る時期、坂本家で招魂祭が行われたのである。
こうした習慣が坂本家にはあったので、お龍の父・将作を夢に見た龍馬はすぐに、将作の招魂祭を行ったのである。
お龍も自分の父・将作の招魂祭をやろうという龍馬の言葉を嬉しく思ったに違いない。


第51話 お龍の帯留めー1

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小美濃 清明

第51話 お龍の帯留-1

お龍が使っていた帯留(おびどめ)が高知で展示されたことがある。
短い期間だったが、偶然筆者は高知市にいて最終日に見ることができた。
説明板には次のように書かれていた。
一時期、龍と寝食を共にし、なついてもいた千屋家(ちやけ)の仲(なか)に、土佐を去ることになった龍はかつて龍馬が自らの下げ緒と目貫で自分に作ってくれた帯留をその身からはずし、「私にとっては今では命にも変え難いものだけれども、長い間お世話になったから、あなたにさし上げよう」と仲の手に握らせたという。
馬の妻はついに夫の故郷に馴染むことはなかったが、後日、「土佐の人々は坂本のおばさん(龍)のことをとかく言ってゐるけれども、私はあんなに良い人はまたとないと思ふ」と語った仲の存在が龍にとって大きな安らぎであったろうことは想像に難くない。
お龍の妹・君江の夫である千屋寅之助(菅野覚兵衛)の兄・千屋冨之助の娘が仲(嫁いで中城仲子)である。お龍が高知の坂本家を出て、和食村の千屋家に厄介になっていた時、お龍は仲と同じ部屋で寝食を共にしていた。
その帯留は茶色、白色、茶色と三段の縞に染められた刀の下緒に龍の目貫(めぬき)を一つ付けたものだった。
興味深かったのはその目貢であった。龍が体を丸めた形のもので、「丸龍(がんりゅう)」という目貫だった。しかも雄の龍だった。
目貫は刀の柄(つか)の部に巻き込むか、むき出しの鮫皮に貼り付けてあるものである。始まりは刀を握る掌が動かぬように、柄の凹凸をつけるために作られた部品である。
目貫は柄の表裏に使うので一対で作られている。図柄は家紋、植物、人物、道具、武器、茶道具など多種多様である。
特に多いのは十二支であり、自分の干支(えと)を好んで使う風潮がある。
動物の目貫の場合、一対の目貫を雄雌で作る場合が普通である。雄と雌の龍をどこで見分けるかというと、龍の尻尾(しっぽ)である。龍の体には鱗(うろこ)がある。その鱗が尻尾まであるのが雌である。
雄の龍には尻尾に剣が付いている。


第50話 お龍のお歯黒

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小美濃 清明

第50話 お龍のお歯黒

田雪山が聞書きした「千里の駒後日の譚((はなし)」をつづいて見ていく。
寺田屋から薩摩藩邸に着いたお龍は
「大山(綱良)さんに逢って、龍馬等は来ませんかと云ふとイヤまだ来ないが其風体は全体どうしたものだと云ふ。私は気が気でなく龍馬が来ねば大変ですと引返さうとするを、まア事情を云って見よと抱き留めるので、斯様々々と話しますと吃驚(びっくり)し、探しに行かうと云ってる処へ三好さんがブル★震へもって来て、板屋の中で一夜明したが敵が路を塞で居って二人一処には落られぬから私一人来ましたと云ふ、それを聞いて安心と早速大山吉井(玄蕃)の二人が小舟に薩摩の旗を樹てゝ、迎へに行って呉れました。」
お龍は三吉と共に待っているところに龍馬は大山吉井と共に姿をみせた。
この後一月末まで伏見薩摩邸に居り、三十日に京都薩摩邸に戻っている。
「京都の西郷さんから京の屋敷へ来いと兵隊を迎へに越(よこ)して呉れましたから、丁度晦日に伏見を立って京都の薩摩邸へ這入りました。此時龍馬は創を負て居るから籠にのり、私は男粧して兵隊の中に雑(まじ)って行きました。

笑止かったですよ。大山さんが袷と袴を世話して呉れましたが、私は猶ほ帯が無いがと云ひますと白峰さんが白縮緬の兵児帯へ血の一杯附いたのを持って来て、友達が切腹の折り結んで居たのだがマァ我慢していきなさいと云ふ。ソレを巻きつけ髷をコワして浪人の様に結び真上へ_冠りをして鉄砲を担(かつ)ひで行きました。処(ところ)が私は鉄漿(かね)を付けて居るから兵隊共が私の顔を覗き込んで、御公卿様だなどと戯謔(からか)って居りました。」
お龍はこの時、お歯黒をしていたのである。お歯黒は既婚者の証(あか)しである。龍馬とお龍は既に結婚していたのである。
川田雪山はお龍に龍馬との出合いを語らせている。
「元治元年に京都で大仏騒動と云ふのが有りました。あの大和の天誅組の方々も大分居りましたが幕府の嫌疑を避ける為めに龍馬等と一処に大仏へ匿(かく)れて居ったのです。処●ところ●が浪人斗●ばか●りの寄り合で、飯炊きから縫張りの事など何分手が行き届かぬから、一人気の利いた女を雇いたいと云ふので―こゝで色々の話しがあって―私の母が行く事になりました。此時分に大仏の和尚の媒介で私と阪本と縁組をしたのですが、大仏で一処に居る訳には行きませむから私は七条の扇岩と云ふ宿屋へ手伝方々預けられて居りました。」
お龍のこの話は川田雪山が寺田屋事件について聞く前に語ってもらっている。
元治元年(一八六四)五月頃、大仏の和尚(金蔵寺住職知足院)の媒酌で祝言をあげているのである。これを内祝言と考えて、寺田屋事件のあと、京都薩摩藩邸で一カ月滞在しているうちに中岡慎太郎が仲人で本祝言をして結婚を披露したという。それにつづいて鹿児島旅行があり、それを新婚旅行とするのである。
川田雪山のインタビューは横須賀に住んでいたお龍をしばしば訪れて、かなり詳しく聞いたところ、坂崎紫瀾(しらん)の「汗血千里の駒」や民友社の「阪本龍馬」などは事実が余程違って居ると書いている。
「符合した処も幾干(いくばく)か有るが鷺(さぎ)を鴉(からす)と言ひくるめた処も尠なからぬ」と評している。


第49話 山を下りると

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「坂本龍馬八十八話」

小美濃 清明
第49話 山を下りると

龍馬は姉乙女に慶応三年(一八六六)十二月四日、長い手紙を送っている。手紙の中に
〈此所より又山上ニのぼり、あまのさかほこを見んとて、妻と両人づれニてはる■のぼりしニ、立花氏の西遊記ほどニハなけれども、どうも道ひどく、女の足ニハむつかしかりけれども、とふ■馬のせこへまでよぢのぼり、此所にひとやすみして、又はる■とのぼり、ついにいたゞきにのぼり、かの天(アマ)のさかほこを見たり。〉とある。
霧島山にのぼり天の坂鉾をお龍と見た報告を姉乙女にしている。
この山を下りて里に入ると、黒山の人だったという。物見高い村の人たちが龍馬とお龍を待ちうけていたという。
それは何故なのか、その理由が分からずにいた。或る時、それが解けた。いや正確には解けたと思っている。
それは或る幕末の日記を読んでいる時である。龍馬たちとは反対の北国の話である。
桑名藩家老・酒井孫八郎の日記の中に、初めて青森を訪れた孫八郎が青森の女性を描写している部分がある。
眉毛の形が自然のままで剃っていないこと、口の中の歯がお歯黒で染めていないことなどが記録されていた。
これだと思った。
薩摩の女性たちはお龍を見に来ているのだと考えた。
幕末の薩摩藩の国境警備は厳しかったという。藩境界は厳重に守られて密入国はできなかったという。
他国人が入国する時は公式の武士階級の入国から商取引の商人たちと限られていたのではないだろうか。四国八十八箇を巡るお遍路のような人々が薩摩藩にはなかった。
薩摩には限られた人々しか入国していないのである。
文久二年、土佐藩を脱藩した龍馬も薩摩入国を試みたが、達成されなかったという。

許された者だけが薩摩国へ入国できたのである。しかもそれはほとんどが男性であった。
幕末期に他国の若い女性が薩摩国へ入ることはなかったと思われる。
龍馬が連れていった女性は若く美しいという噂が立ったのである。
薩摩の女性たちはお龍を一目見たいと思ったのである。
京都生まれの美人はどのような着物を着ているのだろう。
どのような帯をしめているのだろう。
髪はどのような形に結っているのだろう。
どのような化粧をしているのだろう。
こうした好奇の目がお龍を待っていたのであろう。
薩摩の女性たちは、現在のファッション雑誌を待ちわびるようにお龍が山から下りてくるのを待っていたのである。
そうした女性たちの話を聴いていた薩摩の男たちも、一度見てみたいと思うに違いない。こうして村々人々は龍馬とお龍の行く先々で、その姿を見ようと待っていたと思われる。


第48話 上海の高杉晋作

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「坂本龍馬八十八話」

小美濃 清明

第48話 上海の高杉晋作

文久二年(一八六二)四月二十九日、高杉晋作が乗った千歳丸(せんざい丸)が長崎を出航したのは午後五時 前だった。
この船は幕府が上海へ状況視察をかねて上海へ出張貿易を試みることを目的とした船だった。萩藩江戸留守居役の小幡高政(おがたたかまさ)が、使節の一人、小人目付の塩沢彦次郎に工作して、高杉晋作を随員に加えることに成功した。
海産物、薬用品、白糸、反物、漆器、蒔絵、工芸品などを積み込んでいた。
船長はイギリス人・ヘンリー・リチャードソンで、イギリス船員十五人、オランダ船員一人、勘定役〓立助七郎以下の幕吏、そして諸藩から加わった従者、通詞(つうい)、炊夫(すいふ)、水夫(すいふ)、それに三人の長崎商人、総勢六十七人が乗っていた。
その頃の清国の状況は混乱が極限に近づいていた。
インドを支配した東インド会社は、その経営に必要な銀をうるため、大量のインド産アヘンを中国に輸出した。たちまち清国の官吏や軍人が麻薬に汚染され、銀が国外へ流れ出た。
手を焼いた清国政府は、林則除を広東へ送って、イギリス商社所有のアヘン二万余箱を没収消却する強行手段にでた。それがヨーロッパ勢による中国大陸侵略の糸口となった。
強大な軍事力で清国を屈服させたイギリスは一八四二年八月二十九日、南京条約で香港割譲のほか、広東(かんとん)、厦門(あもい)、上海(しゃんはい)、寧波(にんぽう)五港を開港させた。第一次アヘン戦争である。

その後、第二次アヘン戦争が始まり、英仏軍が天津を攻略、北京に入城して北京条約を追加する。九龍(クーロン)をイギリスに与え、天津、漢口など十港を開き、アヘン貿易を公認させた。
これに対して客家(はっか)出身の洪秀全が清朝を倒して土地、衣食すべて平等に分かち与える理想郷「太平天国」を築こうと呼びかけた。
一八六二年六月、近郊までせまった三万の太平天国軍と清国軍が攻防をつづけているところへ高杉晋作はやってきたのである。
五月九日、晋作は上陸して、洋式ホテルの宏記洋行に宿をとった。佐賀藩士中牟田倉之助と同室だった。
上海に着いて半月もしたころ、晋作は悲惨な実情が見えてくる。
六月八日、午後オランダ館でピストルと地図を買った。
六月十六日 アメリカ人の店で七連発のピストルを買う
六月十七日、イギリス砲台を見学している。〓込めのアームストロング砲の精巧さに目を見張っている。
晋作はなぜこのように支那は衰微したかを考え、外夷を海外に防ぐ道を知らなかったことにつきる。万里の波濤をしのぐ軍艦、大砲などを製造しないで、海国図志なども絶版し、いたずらに古い説をとなえてむなしく歳月を送り、太平の心を改め、敵を防ぐ対策を立てなかったからだと結論を出した。
海外視察の始まりのような上海渡航で高杉晋作は清国の本質をとらえた。そして日本へ帰国し、清国のように日本をしてはならないと活躍するのである。
その思想は龍馬へも伝えられているのである。上海土産のピストルと共に。