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第2話 常通寺の仁王像
坂本龍馬は子供の頃、近くの寺子屋に通っていた。
龍馬の生まれた高知城下の上(かみ)町から子供の足で通える寺子屋が四カ所あった。 楠山庄助塾、島崎三蔵塾、三橋栄十郎塾、萩原健洲塾である。
龍馬は楠山庄助塾に通っていた。安政三年(一八五六)頃、生徒は男子一〇〇名、女子二〇名と記録にある。男女共学である。
上町の本丁筋一丁目にあった坂本家から、北奉公人町を通って江ノ口川に掛かる常通寺橋を渡り、楠山庄助塾まで徒歩一〇分ぐらいである。 龍馬はこの道を往復していた。
常通寺橋を渡ると目の前に常通寺の大伽藍がある。山門があり中に入ると、鐘楼があり、弘法大師堂、観音堂、本堂がある大寺院である。しかし、明治三年(一八七〇)に廃寺となり、その跡には何も残っていない。ただ常通寺橋という橋の名にその名を残すばかりである。
現在は常通寺橋のたもとに高知私立第四小学校が建っている。
龍馬の寺子屋時代の話が残っている。
<毎日、龍馬が通る常通寺の山門には仁王像が左右にあった。龍馬はこの仁王様に紙を丸めて投げつけたり、石を投げたりしていたが、ついに竹竿で仁王様の腕を突いて堕してしまったという。僧は怒り、楠山塾へ来て楠山庄助にどなり込んだ。龍馬は庄助に呼び出され、頬を叩かれたという。〉
龍馬は腕白小僧だったと寺石正路(てらいしまさみち)は「南学史」の中に書いている。寺石は慶応四年(一六八)高知城下九反田に生まれている。龍馬暗殺の翌年である。明治十八年(一八八五)、寺石は東京大学予備門に合格し、南方熊楠、正岡子規、秋山真之らと知り合っている。しかし、健康を害(そこ)ない翌年中退し高知へ戻っている。
明治二十三年(一八九〇)四月から高知県尋常中学校の補欠教員となり、その後、海南学校(現・小津高校)の教師として三十数年わたって教鞭を執っている。
龍馬が生きた時代に生まれた寺石正路は、高知の歴史を詳しく調査している。
おそらくこの常通寺の仁王様と龍馬の話は実話として、高知に残っていたものであろう。かなり信憑性の高い話と思われる。
この楠山塾で龍馬は喧嘩をして退塾している。宮地佐一郎氏は『龍馬百話』(文春文庫)の中で
〈小高坂楠山塾の頃、学友の一人と口論となった。(中略)相手の少年が坂本家と違って上士であったので、遠慮して龍馬も退塾させたともいう〉と紹介している。
泣虫龍馬とは異った印象の少年龍馬である。