第11話 ニョイスニョイス

 

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第254回 幕末史研究会
日時2017年7月29日(土)午後2:00から4:00
会場 武蔵野商工会館 4階 吉祥寺駅中央口徒歩5分
講師 鷹見本雄氏 たかみもとお 鷹見家11代当主
テーマ 編集者国木田独歩の後継者鷹見久太郎が果たした役割は
会費 一般 1500円 大学生 500円 高校生以下無料
講義内容 蘭学者鷹見泉石の曾孫鷹見久太郎はジャーナリストとなり、女性と子供のため月刊グラフィック誌を発刊した。日本社会に与えた影響は・・・

申し込みは実施前日までに事務所まで
幕末史研究会
事務所:〒180-0006 武蔵野市中町2-21-16
FAX・O422-51-4727/電話・090-6115-8068(小美濃)
Eメール:spgh4349@adagio.ocn.ne.jp
プログアドレス:http://blogs.yahoo.co.jp/bakumatsushiken


第11話 ニョイスニョイス

ニョイスニョイス

『維新土佐勤王史』の冒頭に土佐勤王党血盟者姓名簿が載っており、百九十二人の名がある。一番目が武市半平太、二番目が大石弥太郎、三番目が島村衛吉、七番目が河野萬壽彌、九番目が坂本龍馬、十一番目が川原塚茂太郎である。
最後の所に吉田東洋を暗殺した大石団蔵、安岡嘉助、那須信吾と累を避けんが為に除いたと書かれている。
そして、その後に滅銘簿以外の勤王党同志人名録という名簿がある。
〈故に其の血盟書の名簿に列すると否とは固(もと)より敢て其の間に軽重する所なきなり〉
と書かれている。
その名簿を見て、龍馬に関係した人物をあげてみる。
清岡道之助  望月亀弥太
樋口真吉   沢村惣之丞
岡田以蔵   岡本謙三郎
中島作太郎  新宮馬之助
岡内俊太郎  小南五郎右衛門
近藤長次郎  本山只一郎
那須俊平   佐々木三四郎
掛橋和泉
と並んでいる。
この名簿に「如意助」と姓がない名が書かれている。そして欄外に(刀鍛冶氏詮★うじのり★)と説明がある。
如意助は小松如意介といい、安芸郡井ノ口村の刀鍛冶で刀工銘は(正宣★まさのぶ★)である。『維新土佐勤王史』の編集者が土佐の刀工・中島氏詮と間違えているのである。如意介は明治二十一年九月十三日に死去して墓は大阪市生玉町齢延寺にあったが、今は無縁佛となり廃されてない。
この如意介は坂本権平の刀を造った左行秀の弟子である。
中島氏詮は文政二年(一八一九)六月七日、土佐国安芸郡田野浦町に生まれた。阿波国海部の刀匠海部氏善が祖で慶安の頃、土佐国田野に移住して中島氏を称し、代々刀鍛冶を業としたその八代目が氏詮である。
氏詮は清岡道之助と交流し、野根山二十三士屯集の際は井ノ口村の刀匠小松如意助と共に田野新町の濱口文兵衛から船を求めて、清岡たちを脱藩させる準備をしていたと記録されている。
如意介は左行秀の作風を受け継いで、美しい無地肌風の鉄に濡れた刀文を焼いている。如意介の作品は少なくないが、筆者の蔵刀として一振如意介があるので中心を載せることとする。
如意介は人柄が良く可愛がられて、
「ニョイスニョイス」と呼ばれていたと記されている。
しかも水通町に住む左行秀の弟子である。坂本龍馬と面識もあったと思われる人物である。龍馬も「ニョイスニョイス」と呼びかけていたかもしれない。


第10話 高村退五事件

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第254回 幕末史研究会のご案内です。

日時 2017年7月29日(土)午後2:00から4:00
会場 武蔵野商工会館 4階 吉祥寺駅中央口徒歩5分
講師 鷹見本雄 氏 鷹見家11代当主
テーマ 編集者国木田独歩の後継者鷹見久太郎が果たした役割は
会費 一般 1500円 大学生500円 高校生以下 無料
講義内容  蘭学者鷹見泉石の曾孫鷹見久太郎はジャーナリストとなり
女性と子供のための月刊グラフイック誌を発刊した。日本
社会に与えた影響は、
申し込み 実施日前日までに事務所へ
事務所:〒180-0006 武蔵野市中町2-21-16
FAX・O422-51-4727/電話・090-6115-8068(小美濃)
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第10話 高村退五事件

高村退五事件

坂本龍馬の差料は「吉行(よしゆき)」である。「陸奥守(むつのかみ)吉行」とも銘を切る。この吉行には兄がいた。兄も刀鍛冶だった。「吉國(よしくに)」と銘を切る。「上野守(こうずけのかみ)吉国」とも銘を切る。
高知市在住の土佐史談会会員の某氏から、「吉国」と銘がある長脇差を見せていただいた。ご自慢の愛刀とのことだった。身中の広い立派な脇差だった。
そして、この脇差は高村退五(たかむらたいご)の差料だったと説明を受けた。柄(つか)には高村家の家紋の桜の目貫がついていた。
高村退五というと有名な事件があった。寛政九年(一七九七)二月六日の夜、高知城大川淵に住む上士・馬廻二百石の井上左馬之進の屋敷で同輩・森久米之進、大塚庄兵衛、長尾貞之進、長尾貞五郎が集まり宴席を開いた。偶然、来訪した長岡郡廿枝(はたえだ)の郷士・高村退五も同席することになった。
その宴席で井上が刀剣の善し悪し(よしあし)を話して、自分の佩刀を誇った。そして、最近手に入れた名刀を見せた。
高村は郷士とはいえ耕田数十町を持ち、文武に優れた人物で、刀剣の目利きに長じていた。井上は高村に鑑定を求めた。
井上は気に入った刀だったが、高村はこの刀を酷評した。
激怒した井上は高村を斬り、同席した四人も井上と共に抜刀して高村を斬殺した。
土佐藩庁は四月四日、井上左馬之進に対し、「沙汰に及ばず、以後きっと相嗜(あいたし)なむべき」旨を伝え、同席した四人には「向後厚く相心得よ」と戒告しただけで終わった。
一方、高村家に対しては不届きとして家督断絶とした。
この処分に対して郷士の間に不満の声が広がり始め、高知城下へ郷士が集まりだした。
土佐藩庁はその事態に気付き、五月二十六日、井上左馬之進に対して「屹度遠慮(きっとえんりょ)」を宣告し、二十八日、馬廻の家格を小姓組に格下げし、知行二百石を没収して、新規に五人扶持切符五十石とした。
そして、郷士に対しては五月二十九日、「風聞演説(ふうぶんえんぜつ)を相控(あいひか)え穏成取りはからう可べき事に候。心得違い之無(これな)き様」と諭告した。
つまり、「静かにせよ」と脅したのである。
郷士の不満はおさまらない。
六月七日、再度、諭告が発せられた。
「郷士に対して差別はなく、打捨てという作法もない。藩庁の判断もいろいろあるので、郷士が差別だと思い込んではならない」
藩庁は郷士に冷静になるよう伝えている。
しかし、郷士の不満は治まらなかった。
ついに、六月二十二日、十代藩主・山内豊策★とよかず★が高知城内に主な家臣を集めて直書を布告した。
「今回の件について書付などを差出す郷士がいることを聞いている。この度のことについては我は考慮しているので、今まで通り、忠勤に励むように」
結局、土佐藩は上層部を更迭せざるを得なかった。六月二十八日
〈奉行職〉福岡外記 柴田織部
〈仕置役〉松下長兵衛 尾池弾蔵 中山団七
〈大目付〉高屋九兵衛 原彦左衛門 仙石弥大夫
など藩重役が職を退いて収拾をはかった。
四年後、享和九年(一八○一)九月二十一日、井上左馬之進は仁淀川以西へ追放となって事件は終結した。
高村は今、高知県南国市祈年山に眠っている。墓には
〈高村退五墓〉と前面に刻まれ、側面に〈寛政九 丁巳二月六日 二十八歳〉とある。


第9話上土と下士-2

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第9話上土と下士-2
安政元年(一八五四)六月に帰国し、しばらくして徳弘孝蔵の西洋式砲術塾に入門している。
そして、桂浜に近い仁井田浜で大砲の実射訓練を受けた記録がある。
安政二年(一八五五)十一月六、七日に実施された訓練には二十九名が参加している。
佐野郷右衛門、橋本三千弥(藩士橋本和太郎世倖)、栗尾源八、猪野儀太郎、奥宮貞之助、猪野半平(郷士)、深尾包五郎(家老山内昇之助嫡男)、桐間廉衛(家老桐間蔵人次男)、酒井
永馬(藩士酒井利右衛門世停)、桐間安之助(家老桐間蔵人四男)、深尾八弥(家老深尾家一族
カ)、新谷孫蔵(郷士)、本山左近右衛門、林馬寿之助(藩士)、学石主税(藩中老)、横山恭助、
和田弾蔵(郷士)、探尾丹波(雲)、山内下総(雲)、山内左織(家老)、山内昇之助(家老)、
桐間蔵人(室)、桐間将監(薯桐間蔵人嫡男)、誓良馬(郷士御用人望権平実弟)、坂
ママ
本権平(郷士御周人)、伊与木辰五郎(郷士)、佐々木竹之進(家老柴田備後家来)、川村参平(家
老桐間蔵人家来)
上土と下士が同じグループで大砲を撃っているのである。しかも家老が五人、その中に下士
が加わったという編成である。
幕末期に誉と、圭と下士の間に階級差別が減少したのだろうか。臨戦態勢に彗た軍事
訓練は上土・下士の階級を無視する形で行われたのだろうか。
私の高知の友人に長宗我部遺臣の子孫がいる。しかし、この人のご先祖は馬廻役であったと
いう。何度も確かめたが馬廻役であり上土であったという。
長宗我部遺臣は下士という制度の中にも例外はあったということになる。


第9話上土と下士-1

第9話上土と下士-1

関ケ原合戦は慶長五年(一六〇〇)、徳川家康が率いる東軍が西軍の島津義弘、毛利輝元ら
に勝利した。
西軍であった土佐国の長宗我部氏は滅びた。そして掛川六万石から山内一豊が土佐国の領主
となって進駐した。
山内家臣団は土佐藩の上土となり、長宗我部遺臣であった半農の一領具足たちは、そのまま土佐国内に残り、土佐藩の下士となった。そのため、二百六十年間、上土と下士という二重構造がつづき、常に乳轢を生じさせる原因となっていると土佐史の解説書には書かれている。
そして、上土の下士に対する差別は、服装、儀礼、習慣にいたるまで徹底しており、それにより多くの事件が発生したとされている。
坂本龍馬に関連してよく知られるのは井口村永福寺門前事件である。
ますなが
文久元年(一八六一)三月四日の夜、上土の小姓組山田広衛は同伴の茶道方益永繁斎と、友人宅の節句酒に酔って通行中、暗夜のために山田に触れた下士の郷士中平忠次郎を無礼討ちにした。
忠次郎と同行していた少年宇賀(うが)喜久馬は、小高坂に住む忠次郎の実兄池田寅之進に急報した。
寅之進は現場に急行して、江ノロ川のどんどんと呼ばれていた堰のあたりで、水を飲んでいた山田広衛を討ち、益永繁斎をも斬り伏せた。
この刃傷事件はすぐ高知城下に広がり、下士は池田家に集まり、上土は山田家へ集合した。
上土側は池田寅之進の身柄引き渡しを要求したが、下士側は拒絶した。双方がにらみ合う状態がつづいたが、結局、下士側の池田寅之進と宇賀喜久馬の二人が切腹してこの事件は落着した。
事件の発端は宇賀喜久馬が美少年であり、それを連れ歩いていたのが山田広衛の感にざわったためと言われている。
この喜久馬の切腹の折、首を斬り落としたのは兄の宇賀利正である。利正の息子が有名な物理学者となる寺田寅彦である。
利正はこの事件についてひとことも語らず、寺田寅彦も随筆には書いていない。
利正は二十五歳であり、喜久馬は十九歳であったと作家・安岡章太郎氏は『流離讃』の中で書いている。宇知見利正、喜久馬、寺田寅彦は安岡家系譜に名が記述されている一族の人々である。
しかし、土佐郷土史でこの事件を扱ったものは利正を十六歳とし、喜久馬を十三歳としている。               安岡氏は(この事件を世間に流布させた人たちが、その悲劇性を強調しようとするあまりに、主人公たちの年齢を実際よりもずっと若く引き下げてしまったものであろうが、その理由を追
求する気持も、私にはない。)と書いている。
歴史の記述には往々にして、そのような傾向がみられ、坂本龍馬を調べて、資料を読んでいると時折、ハテと首をかしげる事がある。
この上士と下士の差別という問題も、どう考えればよいのかという資料がある。
坂本龍馬は嘉永六年(一八五三)剣術修行で江戸へ行き、ペリー来航に遭遇している。その折、藩の臨時御用で警備陣に加えられ、その後、佐久間象山塾へ入門し、大砲操練を習っている。

 


第8話 お琴の手習本

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第8話 お琴の手習本

小美濃 清明

坂本龍馬の親友だった濱田栄馬は、小栗流の剣術を教える日根野道場へ一緒に通う仲であった。
父親同士が親しかったので、子供同士も仲が良かったのである。
栄馬の曾祖父と祖父が上土と下士の乱轢(あつれき)から発生した事件で斬殺されたあと、濱田姓を藤田姓に変えていた。
藤田姓は龍馬が脱藩したあと、濱田姓に戻している。
龍馬と栄馬が親しくしていた頃は藤田姓なので、この章は藤田姓でこの一家のことを書く。
藤田栄馬には二人の妹がいた。長女の琴(こと)、次女の好(よし)である。この好は後に安田家へ嫁いで名前をたまきと改めている。
琴が書道を学ぶ時に使用した「手習本」がご子孫に伝えられて、現存している。
「源氏物語」と草書で表紙に善かれており、裏表紙に「婦知多琴女蔵(ふじたことじよぞう)」と楷書(かいしょ)で書かれている。その横に後
代に書き加えられたと思われる「昔、藤田で後に溝田となりました」という小さな文字がある。
そして朱筆で「嘉永うしのとしの九月」と草書体で善かれている。

嘉永丑年(うしのとし)は六年(一八五三) である。
この手習本は琴の伯父・森本藤蔵が書いたものであり、「源氏物語五十四帖」 の「桐壷」から「夢浮橋(ゆめのうきはし)」まで各一首ずつの和歌が抜き書きされている。
すま  あかし
「須磨(すま)」「明石(あかし)」が見開き二頁となっているので見てみよう。

うきめかる伊勢をの海士(あま)を思ひやれ
もしほたるてふ須磨の浦にて

秋の夜の月げの駒よ我が恋ふる
雲井にかけれ時のまも見む
とある。
「明石」の歌には「月毛」と書かれている「毛」の横に平仮名で「げ」と読みが振られている。
「我」の横には「わが」とあり、「時」の横には「と記」と読みが書かれている。
森本藤蔵が十六歳の琴の読みやすいようにルビを振ってくれているのである。
流麗な書体で書く書かれたこの手習本は藤蔵の国学の素養の高さを感じさせるものである。土佐藩の下士(郷士)階級の中に、これだけの人物がいたという事実は注目に値する。
坂本龍馬も和歌を詠んでおり、国学の素養を身につけている。郷士というと上土の下にあり、上土に較べて教育も劣ると考えられがちだが、決してそのようなことはないのである。郷士階級の教育は上土と全く変わらないのである。
この琴は、この手習本が書かれた嘉永六年の翌年の、五月十三日夜、自害している。
琴は美しく、嫁に欲しいという話が多かったそうである。自害の理由は分からないという。
高知の豪商から琴の遺体でも嫁にもらいたいという話があったそうである。
琴の自害を龍馬は知らない。江戸修行から龍馬が高知へ戻ったのは六月二十三日であり、一カ月と十日後である。
作家・津本陽氏は『龍馬』(角川書店)の中で琴を龍馬の恋人としたが、手紙や伝承が残っているわけではない。


第7話 龍馬と栄馬

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第252回 幕末史研究会
日時 2017年5月28日(日)午後2時から4時 会場 武蔵野商工会館4階 講師 合田一道 氏 (作家) テーマ 北から見た幕末維新 会費 一般1500円大学生500円高校生以下無料 講義内容 明治維新は北辺の北海道をも揺るがした。最後の戦いとなった      箱館戦争の意味とは、朝廷がまっ先に北海道開拓に着手した理由とは。
幕末史研究会
事務所:〒180-0006 武蔵野市中町2-21-16
FAX・O422-51-4727/電話・090-6115-8068(小美濃)
Eメール:spgh4349@adagio.ocn.ne.jp
プログアドレス:http://blogs.yahoo.co.jp/bakumatsushiken

第7話 龍馬と栄馬

坂本龍馬は脱藩をする前、安田たまきの兄・藤田栄馬に共に脱藩しようと誘ったという。しかし、栄馬は脱藩しなかった。その理由は栄馬は長男だったからである。家の跡目を継ぐという役目があったのである。そして、もう一つ、龍馬のように国家とか政治といったものに興味が薄かったこともある。
栄馬のご子孫にうかがった話だが、栄馬は父から、「お前には美しい嫁をもらってやるから脱藩するな」とも言われて、説得されたと言う。
父は約束を破らず本当に美しい嫁をもらってやった。嫁は岡本槇★まき★という女性である。(写真A)
この槇の写真が高知市の栄馬のご子孫のお宅に保存されていた。額に入っていたので、複写させてもらうことにして、額の裏側を開くと、槇の写真の下にもう一枚の写真が入っていた。白地の着物に紋付の羽織を着た男性だった。栄馬のご子孫にこれは誰ですかと尋ねるたが、初めて見る写真なので、誰か判らないとの話であった。
後に、栄馬の孫(亀井とよさん)がこれが藤田栄馬であると証言してくれた。
写真Bが栄馬である。
明治になって撮影されたもので、茶人として趣味の世界で生きていた龍馬の親友の姿である。
幕末の土佐史を研究していると、土佐の若者が次々と脱藩し、動乱の時代を生きていく。土佐の若者全てが、龍馬に続くように活躍するように錯覚するが、それは正確ではない。栄馬のように平凡な生活を望む若者もいたのである。
学生運動の中心でヘルメットをかぶり、角材を振った学生もいれば、ノンポリもいたのである。
栄馬はさしづめ、ノンポリの典型であり、龍馬はヘルメット派の代表であり、暗殺されている。
栄馬は明治になって、高知の新興財閥・川崎幾三郎のもとで経済人として働き、趣味で陶器を焼き、茶道の宗匠として無味庵夏一と名のり、狂言などを演じる優雅な生活を楽しんでいる。
この栄馬と槇の間に生まれたのが楠猪である。(写真C)
楠猪も母親ゆずりで美しかった。この女性に一目惚れしたのが横山又吉であった。黄木★おうぼく★という号を持つこの男は高知で有名な暴れん坊であり、自由民権運動の中心にいた。
又吉は安政二年(一八五五)十一月十五日、高知城下旭村下島の医師。横山常吉の四男に生まれた。十一月十五日は龍馬を同じ誕生日である。
藩校致道館に学んだのち、陸軍士官学校へ入学。しかし、フランス語の学習が嫌いで中退し高知へ戻った。そして、板垣退助の立志社へ入り、たちまち政治青年の頭目となって活躍した。
明治十三年(一八八○)、又吉は高知新聞に入社し、坂崎紫瀾、植木枝盛らと共に痛烈な政府攻撃の論陣を張った。
こんな男が楠猪をくれと栄馬に迫った。当然栄馬は断った。
すると又吉は「娘をくれなければ、家に火をつけるぞ」と栄馬を脅かしたという。ご子孫に伝わる本当の話である。
この又吉は、後に高知商業学校の創立者となる男である。

 


第5話 背中にふさふさ-1

第5話 背中にふさふさ-1

小美濃 清明

西内清蔵(にしうちせいぞう)の的場(射撃場)で坂本龍馬が鉄砲の練習をしていたことがある。
一回目の江戸修行が終わって高知へ戻ってきた頃の話である。
坂本家がある本丁筋から少し歩いたところに西内清蔵の的場があった。
清蔵は文化十四年(一八一七)高知の小高坂村に生まれている。十八歳龍馬より年上である。
龍馬の兄・坂本権平が文化十一年生まれなので、同世代という年である。

土佐藩の砲術家で、龍馬が入門した徳弘孝蔵と並び称せられた田所左右次(たどころそうじ)に清蔵は早くから入門していた。
嘉永六年(一八五三) ペリー来航の年である。臨時御用で岩国、長崎と西国を視察している。
ロシアのプチャーチンが来航したという情報で長崎へ行くが、ロシア船は退去して見ることはできなかったが、鋳造所などを見学して帰国している。
この旅行記を『砲術修行西国日記』としてまとめている。
清蔵は自邸の中の「山ノ端」に的場を作り、青少年に砲術を教えていた。その中に谷干城、坂本龍馬がいたという。
坂本龍馬が的場で射撃する時、着物を脱ぎ上半身裸で的をねらっていたという。その時龍馬の背中は体毛で覆われて、まるで馬のたて髪のようだったという。


 第6話 安田たまきの回想

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第6話 安田たまきの回想

小美濃 清明

高知市の桂浜を見下ろすように立っている坂本龍馬の銅像は、昭和三年(一九二八)五月二十七日に序幕されている。
この日は明治三十八年五月二十七日、東郷平八郎が率いる連合艦隊が日本海戦でロシアのバルチック艦隊を撃滅した、海軍記念日であった。
この日、坂本龍馬の銅像を見た老婦人が朝日新聞記者・藤本尚則(ふじもとなおのり)のインタビューを受けていた。
老婦人の名は安田たまきという。たまきは脱藩するまでの坂本龍馬をよく知っていた。たまきは弘化二年(一八四五)十二月二十九日生まれだったので、昭和三年は八十三歳であった。昭和初期まで龍馬をよく知っている女性が高知に健在だったということになる。
たまきの兄・濱田栄馬は天保六年(一八三五)七月二日生まれで龍馬と同い年である。
兄・栄馬と龍馬は築屋敷の日根野道場へ剣術の稽古に通う仲間だったので、たまきは子供の頃から、坂本家に遊びに行っていたという。
龍馬の姉・乙女から長刀(なぎなた)の稽古をしないかと誘われたが、断ったという。乙女は「三十過ぎてから、男を持っていては自由に身が振れんと云って、嫁入り先から帰って来た程の変った人」とたまきは語っている。
龍馬は「当時の若侍の気風とは、何処か違う所があって、エラたがらず、威張らず、温和しい人で、それでいて見識の高い人でした」とたまきは印象を述べている。

たまきの回想で注目すべきところは、竜馬脱藩のあと、兄・坂本権平が栄馬を訪ねて来たところである。
権平は大切にしていた刀の詮議のため、栄馬に向って、
「栄馬、オンシの家へ刀を持って来ちょりやせんかネヤ」
と尋ねている。
「来ちゃアおらん」
と栄馬は答えると、
「それぢゃア、どうも龍馬がおととい家(うち)を出たきり帰って来んが、脱藩したらしい。人を雇うて詮議すると、須崎で、油紙に刀らしい物を包んで背中に負うた龍馬の姿を見た人があるそうじゃが、それから先のことは判らんキニのう」
と権平さんは語っていました。
とたまきは回想している。
この安田たまき証言が重要な意味を持ち、筆者の栄馬一族追跡調査が始まるのである。
栄馬の子、孫、曾孫、玄孫と調査は広がって、次々と新発見がつづいていく。
(1) 福岡宮内の写真で書いた写真も、曾孫の所持されるアルバムに貼られていた。

安田たまきは写真のように美しい老婦人であった。
若い時は姉・琴と共に美人姉妹といって高知で話題の女性だったようである。
山内容堂の側室にという声が掛ったそうである。たまきは当時・好(よし)という名前だったが、側室を断るために、急遽、安田家へ嫁いだそうである。そして、名前も好からたまきと改めたそうである。
安田たまきは昭和四年五月二十五日、死去しているので、死去する一年前の貴重な証言である。

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第252回 幕末史研究会のご案内
日時 2017年5月28日(日)午後2時から4時
会場 武蔵野商工会館4階 講師・合田一道氏(作家)
テーマ 北から見た幕末維新
会費 一般1500円大学生500円高校生以下無料
講義内容
明治維新は北辺の北海道をも揺るがした。
最後の戦いとなった箱館戦争の意味とは。
朝廷がまっ先に北海道開拓に着手した理由とは。

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第4話 欄干に腰かける龍馬

現在の天神橋

第4話 欄干に腰かける龍馬

         小美濃 清明

 高知の夏は暑い。しかも湿気が高い。幕末期にこの季節を土佐の人々はどのようにして過ごしていたのだろうか。
テレビの旅番組で四万十川の沈下橋が紹介されることがある。欄干のない橋は洪水の時、流木が欄干に引っかからずに流れていくので、橋が破損することはなく、今は高知県の名所となつている.。
この沈下橋から夏休みの子供たちが川に飛び込む場面を、四万十川の清流とともに高知県の観光案内として放送している。
幕末期に沈下橋はなかったが、川は涼を求める若者たちが集う場所だったと思われる。
高知城下には鏡川と江ノロ川という川が流れている。鏡川は高知城の南側の外堀として、江ノロ川は北側の外堀としての役割を果たしていた。
この鏡川に大橋という木橋が架かっていた。この橋は現在、天神橋というコンクリートの橋に架けかえられている。しかし、大橋は繁華街の「大橋通り」という道路の名前に残っている。
この大橋の欄干に腰かけている龍馬を見たという話がある。
土佐史談会副会長・谷是(ただし)氏のご母堂・谷豊(とよ)さんからお聞きした話である。
高知市潮江天神町の谷家は長宗我部元親に仕えていた谷市左衛門が長岡郡介良(けら)村に居住していたと伝えられる。山内氏入国後、川島鵜右衛門と改名し、百姓となり帰農していた。
六代下って川島市兵衛の子が谷姓を復活させて、谷中庵三的(さんてき・一六三六~一七二四)となり、潮江・谷家の初代となった。
きよし
そこから八代目となる谷巌(いわお)の弟谷潔(きよし)の妻となるのが谷豊さんである。
この谷家には『家伝の灸』という背骨の両側に『はしご』をかけるように据える『はしご灸』が伝えられていた。
七代目谷民衛のもとに『はしご灸』の治療に通っていたのが第6話に登場する安田たまきである。
治療中に安田たまきは坂本龍馬の思い出を語っており、民衝から豊さんにその話が伝えられていた。
「夏のある日、安田たまき(当時は藤田好)が使いで大橋を渡っていると、龍馬から声をかけられた。ふり仰ぐと、龍馬が大橋の欄干に腰かけていた。」
という話である。夏の日、涼を求めて大橋にくる若者たちが多い。大橋の中央部分あたりは川風が吹き涼しいのである。若者たちが集まって通る女の子に声を掛けているというシーンである。龍馬が何歳ぐらいの時であろうか。欄干に腰かけるということから考えると若い時、今の高校生ぐらいの年齢であろうか。十六、七歳と考えると、江戸へ修行に行く前あたりになる。
安田たまきは龍馬より十歳年下であるから、六、七歳となる。その時、安田たまきが一人だったのか、友達と一緒だったのかは分からない。
夏の暑い日、高校生の龍馬が小学生の安田たまきに「どこへ行くんだい」と声を掛け、振り仰ぐと兄・栄馬の友達が笑いながら欄干の上から見下ろしている。
川風が吹く鏡川の上で二人が視線を交わす場面である。
土佐電鉄の「大橋通り」で下車して、高知城を背にして歩いて行くと、鏡川にぶつかる。白いコンクリートの橋が、現在の大橋(天神橋) である。正面に筆山(ひっさん)の緑濃い姿が見えて、麓に潮江(うしおえ)天満宮の森がある。
若き日の龍馬を想像しながら、大橋を渡るのも一興である。


第3話 相良屋の証言

 

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第3話 相良屋の証言

坂本家は高知城下の上町(かみまち)にあった。上町は北から、北奉公人町(きたほうこうにんまち)、本町(ほんちょう)、水道町(すいどうちょう、通町(とおりちょう)、南奉公人町(みなみほうこうにんまち)、の五つの道路が東西に貫いている。
この町は下級武士、商人、職人、医者などが一緒に住む庶民の町だった。この町の様子が一目瞭然と分る資料が残っている。安芸市立歴史民俗資料館が所蔵する「上町分町家名附牒(かみまちぶんまちやなつけちょう)」である。
上町の町家、つまり上町の町人の名前が地図帳のように並んでいる資料である。下級武士(郷士)の名前は記入されていない。
坂本家のあった本町一丁目南側には
久村屋半兵衛
(  空白    )
相良屋八郎右衛門
(  空白    )
掛川屋権右衛門扣
(  空白    )
壷屋佐五兵衛
と町家が並んでいて、三つの空白がある。この空白のどれかが、郷士坂本家の屋敷である。
土佐史談会の広田博氏と内川清輔の調査により、坂本家は二百十一坪で、久村屋と相良屋の間と分った。

高知の郷士史家・松村厳は文久二年(一八六二)生まれで昭和十六年(一九四一)に死去している。文久二年と言えば坂本龍馬脱藩の年である。龍馬と同年代に生まれて、昭和まで生きた松村が貴重な証言を記録していた。
「坂本龍馬」(『土佐史談』第六十八号、昭和十四年九月刊)に次のように書いている。
〈題して「坂本龍馬」といえども坂本一代の事を叙するに非(あら)ずして、特に自分の聞知せる所を叙するに過ぎず。聞知といえど、皆、縁故者の言である。〉
縁故者から直接聞いた実話をまとめた文章と書いている。
〈坂本龍馬は本丁一丁目南側に生れて、相良(さがら)屋と相隣して居た。異相ありて、満身に黒子(ほくろ)九十二ありと称し、其乳母これを隠くし兼★かね★て居た。相良屋は耳垂(たぶ)の大なるを以て、坂本の黒子とならび称せられ、町中の一話柄となれり。
坂本は郷士にて、御用人格なり。長男を権平と云い、初の名は佐吉、坂本は次男にて、その弟なり。少時常に唐へ行きたいと申居(もうしお)れり、言う意は洋行したきなり。
相良屋は村越元三郎といふて、明治中、菜園場に陶器店を営で居り、余のために語る所なり。〉
相良屋は村越元三郎で坂本家は隣りであったと証言していた。そして龍馬はほくろが九十二個あり、町中の話のたねになっていたと語っている。
そして、ここが重要である。龍馬は子供の頃から洋行したいと言っていたと証言している。
龍馬は黒船来航前から、勝海舟に会う前から、海外に興味を持っていたのである。
龍馬の異国への視線は、十九歳の時、ペリー来航に遭遇したことにより具体的な形となる。勝海舟の門下生となり、咸臨丸アメリカ渡航について話を海舟から聞くことになる。