幸福を売る男
芦野 宏
3、音楽学校と卒業後
楽しかった教師時代-2
国府台女子学院の高等部では、教科書を使った授業を前半にやり、残った時間には自分の弾き語りで世界各国の曲を歌って聴かせた。これは自分自身の勉強にもなるから歌っていたのだが、生徒たちは大喜びだった。
「音楽はもともと自然に発生したものです。快い音をつづり、人々の心を和ませ、励まし、高揚させ、しだいに素晴らしい芸術にまで昇華しました。だから皆さんは改まって難しい音楽に取り組むという考えを捨ててください。いきなり難しいピアノ曲を弾きなさいとは、だれも言いません。音楽っていいなあと思う心が音楽を勉強する第一歩なのです。だから皆さんも先生の歌、聴いて好きになってください」
なんだか自分でも訳のわかったような、わからないようなことを言って、自分が授業中に歌うことを正当化しょうとした。また、一人ひとり歌わせるテストの時間には、教科書の楽譜を中心として、自分のいちばん歌いやすい音域に下げて歌わせることにしていた。これが私の提案する自然の発声、無理のない声をつくる第一歩だった。生徒たちはみんな音楽の時間を楽し
みにしてくれるようになり、しかつめらしい授業からは程遠いユニークなやり方に従ってくれた。
奉職してから新しい春を迎えて、卒業生を送る食事会のとき、私の隣のテーブルについた品のよい英語講師の松原先生が、「私、松原緑の母なんです」と名乗られた。芸大ピアノ科で私より一年下の緑さんは評判の美人で、学生たちの憧れの才女だったが、私の友人である大賀典推さんと結ばれ、現在はソニーの会長夫人であり、お母様同様、主婦であってもピアノの演奏活動を続けておられる、若々しい奥様である。
学期末の試験が終わったころ、この学期をもって学校を退職することを発表した。多感な高校生たちのなかには泣きだす生徒もいて、別れがつらかった。この一年間、高校教師は初めての経験だったが、生徒たちに自分流の発声法を教えた。試験の採点は全般的に甘かったが、音楽が好きでない生徒にもやる気を起こさせる効用があったと思う。逆に音楽が得意な生徒には、慢心を抑えるため少し厳しい点をつけた。
神田神保町の一橋中の生徒たちは、それほど別れを惜しんでくれるふうでもなかったので気が楽だった。こうして学校教師の仕事をやめた私は、今や歌による収入だけで生活しなければならなくなってきた。ちょうど一年間奉職した国府台女子学院には、私のいろいろな思い出がいっぱい詰まっていて、今でも昔の生徒が訪ねてくると嬉しくて仕方がない。