幸福を売る男
劇場・小屋めぐりとテレビ出演-1
四月から五月にかけて、パリのいちばん良い季節に、私はほとんど毎日、劇場めぐりをした。
シャンソン小屋はコンセール・パタラなど場末の小さなところまで探しながら歩きまわり、ミュージツタ・ホールのオランピア
やポピノへは出し物が変わるたびに出かけた。ジョルジュ・ブラッサンス(歌手、作詞作曲家)とも何度か会って、依頼されて
いた日本公演を打診したが、愛想もなにもない表情で日本行きを断られた。「言葉のわからない連中に、おれの歌がわかるわけ
はないから」と同じ答えを二度聞いたので諦めた。
フランスのテレビ放送は、日本よりも少し遅れて発足したように思う。日本でもまだモノクロの時代だったが、フランスの同
営放送は昼に一時間ぐらい放送すると休みになって、夕方から夜にかけてまた始まるという状況であった。視聴率は高く、テレ
ビのあるところでは、ほとんどの人が見ていた。私はレコードの吹き込みを終えたあと、今度はフランス国営放送〈ORTF、昭和四十九年に解体、七会社に分割)のテレビ番組に出演することになった。たしか『ディスコラマ』いうタイトルで、レコードの新譜を紹介する番組だった。日本のテレビ局でもあのころよくやっていた、音に合わせて、歌っているように画面に向かって口をあけるやり方であった。
一週間も前からテレビ局の人がホテルに来て十分な打ち合わせをしたから、安心して本番に出かけることができた。スタジオに入るとき、日本人の通訳がカメラを持っていたら、入口で取り上げられてしまった。スタジオの中は撮らないでください、と言われたそうである。たしか前の年、クリスチャン・ディオールのファッションショーで日本人の一人がディオールのデザインを盗み撮りして問題になったことを知っていたので、なるほどフランスという国は、アイデアを尊重しているのだなと思った。