幸福を売る男
芦野 宏
Ⅱ 夢のような歌ひとすじ
4、世界一周と海外録音
テレビ・ラジオの仕事ぞくぞく-1
ちょうどレコーディングが終わるころ、稲塚氏ご夫妻がスタジオに現れた。そして、日立製作所が用意した高級レストランでの慰労会のとき、今度新しくできたブエノスアイレスのテレビ局で私のワンマンショーをする打ち合わせをした。滞在日程の都合で、明後日、夜8時半からの30分、生放送で出演することになったので、ロペス氏を楽団に選定をした。テレビ局からも責任者が参加して意見を出したが、私はその場でプログラムを考えた。
スペイン語で会話することに慣れていなかったから、英語で挨拶をする。楽団で歌うには譜面の用意がなかったから、ピアノに向かって弾き語りでシャンソンを歌う。英語で解説しながら、シャルル・トレネの「ラ・メール」「リオの春」、そして日本でもそのころ流行していた「ドミノ」を歌うことにした。そのあとアルゼンチンの女性歌手に二2曲歌ってもらい、その間に日本から持ってきた紬(つむぎ)の着物に着替えて、今日吹き込んだタンゴの「カミニート」とフォルクローレの「サンフアン娘」を、吹き込んだときと同じ楽団に出演してもらって歌うことにした。
当日は午後4時ごろテレビ局に入り、たった一回のリハーサルで本番を迎えることになった。
日本ではたいてい三3回のリハーサルをすることに慣れていたからちょっと不安だったが、ロペス氏も大丈夫というので任せることにした。男性の司会者は英語もできる人だったから、打ち合わせもうまくいき、いよいよ本番を迎えることになる。
私はグランドピアノに向かって座り、日本の民謡をバラード風に流している。それをバックに司会者がスペイン語で、今夜なぜ特別番組かということを話し、私のプロフィールを紹介する。「セニョール・アシノ・ポルファボール」という声を聞いたら、私のピアノが「ラ・メール」のイントロに変わり、あとはいつものペースで歌うのだから気楽なものである。ピアノを
弾きながら歌う。これは私が芸大を卒業してから一年間奉職した学校で、授業中に必ず生徒たちにアルゼンチン ブエノスアイレスのテレビ出演(1960.4)歌ってあげていたので慣れていた。ただ解説を英語に変えるだけのことだった。「ドミノ」が終わると、司会者がとんできて、次に歌うアルゼンチンの人気女性歌手の紹介が始まる。
その間に、私はピアノを離れてスタジオの片隅で着替えるのだ。母が用意してくれた紺色の紬の着物に、白と紺の博多の角帯である。日立の稲塚氏夫人が慣れない手つきで付き人の役をやってくださり、恐縮しながら「カミニート」のイントロにのって再びスポットの中に入る。「サンフアン娘」 のほうは、レコーディングのときよりさらにリラックスして、楽団の皆さんが歌いながら踊りだしたので、大いに盛り上がり大成功だった。