幸福を売る男
芦野 宏
Ⅱ 夢のような歌ひとすじ
3、初吹き込み・初渡仏
初めてのパリ-2
十一月十五日、私が憧れのオランピアに出演した翌日、生まれて初めて聴くシャルル・トレネのリサイタルには圧倒された。長い間、憧れていた歌手のリサイタルに出合えて、期待以上のものがあったからだ。
初日の切符は、自分自身のことに紛れて買っておく余裕がなかったので、当日、早めに出かけて行列に加わった。人いきれと暖房、フランス独特の香水や体臭がむせ返るような超満員の客席であった。第一部は、例によって始めは手品や前座の漫才みたいなものであったが、トリはジェルメーヌ・モンテロの渋いシャンソンで終わった。
いよいよ第二部の開幕は夜の十一時で、トレネがブルーの背広にソフト帽をかぶり、胸に赤い花をつけて舞台に現れると、客席がいっせいに活気づいて彼の再起を祝った。ちょっとした自動車事故にあって入院しているという記事を新開で読んだことがある。客席がブラボー、ブラボーと叫ぶ。あちこちから口笛が鳴る。なにしろ久々のパリ公演であるうえに、退院以来初めてのステージなのだからファンの熱狂ぶりはたいへんなものであった。
甘く、渋い、そして低いささやきが歌になって流れると、客席は水を打ったように静まり返る。二十数曲のうち、その大半が私のレパートリーのなかにあるから、一節なりとも聴き逃すことはできない。「わが若かりし頃」「詩人の魂」「街角」「パリに帰りて」、そして新曲の「君を待ちながら」が私にとっては新鮮で、とくに胸に焼きついた。アンコール、アンコールの声に「ブン」を歌ったが、客席は立とうともしないで彼を引きとめる。何べんも何べんも幕前に出て頗を下げる彼に、客席が「ラ・メール」を要求する。そして彼はついに「ラ・メール」を歌いだすのであった。
彼が作詞作曲して創唱したこの歌は、シャンソンのなかの名曲として世界に君臨している。
もちろん、この私もこの歌に魅せられてシャンソンの世界に入ったといっても過言ではない。