幸福を売る男
芦野 宏
Ⅱ 夢のような歌ひとすじ
3、初吹き込み・初渡仏
初めてのパリ-1
昭和三十一年二九五六)九月には、私の夢であったパリ行きが実現した。九月七日には産経ホールで送別リサイタルが開かれ、希望と夢に胸をふくらませてパリヘ向かった。
機運が上昇しているときはすべてうまくいくもので、知人の紹介から思いもかけないスポンサーがつき、オール・ギャランティ (全面的な身元引受人)の形式をとってもらえたので堂々と外遊することができたのである。そのスボンサーとは映画監督のマルセル・カルネ氏から、パリに到着するとマスコミが私を(『天井桟敷の人々』ほか、フランス映画の巨匠)だった「日本のジルベール・ペコー」として新聞や雑誌に紹介してくれ、パリ・アンテールとユーロップ・ニュメロアンという放送局から私の歌が流れることになった。
なぜペコーなのかといえば、この年カルネ監督は彼を主役に映画『邁かなる国から来た男』を作ったばかりだったのだ。フランスはコネクションの国だとだれかが言っていたが、紹介者が大物だとこんなにうまくいくものかと、狐につままれた気分だった。
まずパリ・アンテールの 『五時のランデヴー』というラジオ番組では自分でピアノを弾きながら「枯葉」「リオの春」をフランス語で、そして 「さくらさくら」を日本語で歌った。そして、ユーロップ・ニュメロアンでは「フランスの日曜日」などを歌った。これらの出演などのあと、十一月十四日には思いもかけぬ幸運が訪れた。ユーロップ・ニ.ユメロアンのラジオ局が主催した公開録音で、あのシャンソンの殿堂オランピア劇場の舞台で歌えることになったからである。ラジオ番組のときのプロデューサーに気に入られたらしく、彼の推薦によるものらしい。そのときは、シャンソン「ビギヤール」の作者で歌手のジョルジュ・エルメールやギター弾き語りのロベール・リパ、自前の楽団でカンツォーネを歌うマリノ・マリーニも出演していた。詳細はプロローグに記したとおりである。