本邦初のポピュラーLPと東芝専属時代-3

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

3、初吹き込み・初渡仏

本邦初のポピュラーLPと東芝専属時代-3

今になって、体がこんなに固くなってしまってから後悔しても仕方ないが、いくら歌の仕事が忙しくても、あのころからコーちゃんの忠告を守っていればよかったかなと思っている。コーちゃんは相手役というものに恵まれなかったが、それは彼女自身があまりにもずばぬけた個性をもちすぎていたからで、対等に相手役がつとまる日本人はついに現れなかった。

私が育った家庭は、親類縁者に一人も芸能人がいなかったせいか、私が好きな音楽の勉強をしても、それは芸大の教授になるのが目的だと思われていた。母は自らヴァイオリンやピアノを弾く女性だったから理解はあったものの、歌ったり踊ったりされるのは好まなかっただろうと思う。自分の心の中にも、そんな母の気持ちが住んでいたにちがいない。だからクラシックを捨てても、「あくまで歌ひとすじにゆかなければ」という思いがあったのは確かだ。
東芝レコードで、自分のやりたい曲を歌わせてもらえる立場にあったとき、私は昔の懐かしい歌を歌わせてもらうことにした。『懐かしの唱歌集』がそれである。第一集は長洲忠彦編曲・指揮の東芝レコーディング・オーケストラの伴奏で、第二集はA面を中村八大モダン・トリオ、B面を平岡精二クインテットの伴奏で、それぞれアレンジも彼らの若い感性に任せて私は歌った。幼いころ、母がピアノを弾きながら歌ってくれた「埴生の宿」や「庭の千草」などをレコードにしたかった気持ちがどこかにあったのだろう。これらの古い懐かしい曲の数々は、その後改めて東芝レコードでLP『ふるさとの歌』として録音され、売り出された。
菊池推城氏のマネージメントにより、私は東芝レコード時代、シャンソンだけでなく愛唱歌集など、ほんとうに良い仕事をさせていただき、今でもありがたく思っている。昭和五十二年には会社(東芝EMI、昭和四十八年改称)から長年のレコーディング活動に対してゴールデンディスク賞をいただいた。
たいへんお世話になった東芝EMIから離れて、クラウン・レコード(現・日本クラウン)に移籍するようになったのは、私の初代マネージャーとして活躍してくれた菊池維城氏と、大恩人である石坂範一郎氏が相次いで他界され、しだいにご緑が薄くなっていったからである。
ある日、伊藤さんという方から電話があった。「私は昔コロムビア・レコードにいて、芦野さんのお宅に伺ったことがあります。覚えていますか」というのである。若いころコロムビアで、私と越路吹雪さんのデュエット盤の制作などに携わっておられた方である。その方は今、クラウン・レコードの実力派社長として有名な伊藤正憲氏だったのである。