三社競作のSPレコード-2

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

3、初吹き込み・初渡仏

三社競作のSPレコード-2

それで松井先生はわかってはくれたが、レコード吹き込みのほうは頑として譲歩しなかった。
結局、菊池氏が仲に立って、いずれもSP盤でマーキュリーから「小雨降る径」「ドミノ」、ビクターから「マドロスの唄」「パリの空の下」、コロムビアから「プンプンポルカ」「ばらのエレジー」と各社それぞれ二曲を昭和二十九年に録音、翌三十年二月に同時発売し、芦野宏はいずれの会社とも専属契約を結ばないということを宣言した。こうしたかたちで発売されたレコードは、どの会社もあまり力を入れなかったので、大して売れなかった。ただし、サトウハチロー作詞・高木東六作曲の1プンプンポルカ」だけは相当売れたらしく、漫才や落語のネタにまでなり、やがてNHK『みんなのうた』にも選定されて現在も歌われている。
ほかにコロムビアからは服部良一先生の作品などが発売された。
その「プンプンポルカ」は、こんなふうにして生まれた。私が学校を出てしばらくして、シャンソンを歌うようになってからまもなく、初めて地方の演奏旅行に行ったときのことである。
新聞社主催の『フランス文化とシャンソン』と題する催し物で、仏文学者・辰野隆先生の講演のあと、私がいくつかのシャンソンを歌うことになっていた。伴奏は高木東六先生で、まだ駆け出しの私としては、辰野、高木両先生の間に交じって出演できる喜びよりも、むしろ恐ろしさと緊張でブルブル震えていたような記憶しか残っていない。
帰りの車中で、高木先生と差し向かいの席をとった私は、思いがけない発言を先生からいただいて、旅の疲れなんかいっペんに吹き飛んでしまうほど興奮した。辰野先生が昨夜初めてシャンソンを聴いて、たいへんほめてくださったこと。そして高木先生も私のシャンソンから、なにか率直な呼びかけを感じられて、急に私のために新しい曲を作曲してくださるということだったのである。高木先生の待った鉛筆の太い芯が、五線紙に楽しい模様を描いていき、やがてこれが私の初めての日本の歌「プンプンポルカ」になったのである。