幸福を売る男
芦野 宏
Ⅱ 夢のような歌ひとすじ
2、旅から旅へ
大阪労音から全国各地の労音へ
ラ・メール 心をゆするしらべ
母の愛のように わが胸に歌うよ
(訳 薩摩 忠)
これは私のシャンソン・デビュー曲「ラ・メール」という歌の一節だが、菊池推城氏と約束して海の底に沈めた貴重な過去の経験から立ちのぼる、不思議な力がわき上がってくるような気がして、私は一日三回、三〇日間、初出演の日劇『夏のおどり』の舞台でこの歌を一生懸命歌い続けた。幸い、大好評であった。
その後、昭和三十年代に連続一〇回のNHK『紅白歌合戦』出場を果たしたのは、シャンソン界ではただ一人であり、この菊池維城氏と力を合わせてこそできたことであった。
2、旅から旅へ
大阪労音から全国各地の労音へ
大阪勤労者音楽協議会、略して大阪労音は昭和二十四年(一九四九)全国に先駆けて発足した音楽鑑賞団体である。例会は初期の数年クラシックのみであった。それが二十八年からポピュラー例会も組むようになり、私は初めの年の第五回『アルゼンチンの夕』 に出演した。そして三十一年三月には 『シャンソン・フェスティバル芦野宏・中原美紗緒』が四日間、三十二年には三月の 『芦野宏シャンソン・リサイタル』 が予定されると会員が急に増えて、予定の九ステージが十ニステージになり、連日、満席の盛況が続き、日曜日に昼夜二回と決まっていると「とつぜん前日になって明日三回歌ってほしいといわれ、びっくりしたことがあった。なんと会員の急増が三〇〇〇名を記録したというのだ。同年十月二十三、二十四日には『芦野宏とアンサンプル・ミュゼット』があり、会員から再演の要望が多く、しだいに公演回数が増えていった。
(注)
当時のスケジュールの一例を記述すると、大阪に次いで各地でもポピュラー例会が始まり、昭和三十一年の続きで大津、愛媛(松山)など、三十二年大阪(三月、十月)、仙台、北九州(小倉)、宇和島、愛媛(松山)など、三十三年名古屋、敦賀、東京、沼津、横浜、神戸など。三十四年の一年だけで一月に小田原で二日、二月に名古屋、三月に岐阜、岡崎、半甲五月に名古屋、六月に郡山二日、熊谷、そして大阪で六月未から七月に二二日間(昼夜二、三回もあり)、松本をはさみ、下旬に九州各地でと一か月以上連続でコンサートを続けている。同年の続きで八月に字都苧岡山各二日、十月に東京五日、京都六日、十一月に福島二日など、とある。
労音が最盛期に向かうころだったようだ。私も、ますます忙しくなっていた。それもなんとか乗り切って頑張れたのは、若さのせいと自分流の自然な発声法がようやく身についてきたからではないかと思っている。なにしろ大阪でのように二五曲ずつのワンマンショーを一日三回やったことがあり、司会者も前座の歌手もないリサイタルだから、客を入れ替える時間だけが楽屋で休める貴重な休憩であった。