幸福を売る男
芦野 宏
Ⅱ 夢のような歌ひとすじ
1、ポピュラーの世界へ
NHK『紅白歌合戦』連続出場-5
芸能界にデビューして日劇の舞台を踏むとき、私にもマネージャーというものが必要になり、そのころぼつぼつ仕事を持ってきてくれた菊池音楽事務所に籍を置くことにした。社長の菊池維城氏は東大出身のクラシックマニアで主としてクラシックのコンサートをマネージメントしていたが、佐藤美子さん、高木東六先生(作曲家、ピアニスト)、葦原邦子さん(宝塚出身のシャンソン歌手)らのお世話をしている人で、業界では変わり種といわれていたが、温厚で誠実な人柄を信頼してお願いするこ
とにした。
その菊池氏の提案により、私は年齢を偽ることになる。
大正生まれと昭和生まれとでは、まったく世間の印象が違う。新人として出発するんだから、昭和にしましょう。昭和元年は大正十五年でややこしいから、昭和二年でいきましょう、ということになり、芸能年齢は三歳若く今日に至っている。東大出のユニークなマネージャーだった菊池氏を私は全面的に信頼していた。
「芦野さん、私も大嫌いな軍隊生活の一年間は密封しましょう。蝋で固めて海の底に沈めてしまいましょう」。それ以来、私は塀の中の生活をいっさい口にしないことにし、三歳若返った気持ちで歌い続けてきた。
ラ・メール 心をゆするしらべ
母の愛のように わが胸に歌うよ
(訳 薩摩 忠)
葦原邦子さんと私(日本女子大学、1956頃)葦原さんとの想い出は数限りなくある。ヤマハホールでのリサイタルで演出をお願いしたこと
もあるし、他のホールで共演したこともある。
これは「小さなひなげしのように」の舞台で、葦原さんの語りと私の弾き語りの場面である。
このステージのために飯田深雪先生が真紅のひなげしの花を作ってくださり、ピアノの上に置いて歌うのが習いとなった。
宝塚時代は「アニキ」というニックネームだったそうだが、私にとってもアニキのような存在だった。舞台化粧のやり方からステージでの動き方まで指導していただき、ほんとうにお世話になったものである。