Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

1、ポピュラーの世界へ

日比谷の巴里祭とデビユー秘話-1

昭和三十一年(一九五六) にさかのぼって七月十四日には、相原音楽事務所の社長さんから頼まれ、日比谷の野外音楽堂で 『巴里祭シャンソンの夕』 と銘打ってワンマンショーを開き、夜の星空の下でシャンソンを一人で歌った。ファンの要望に応えるため、翌十五日にもアンコール巴里祭として山菜ホールに会場を移して催した。聴衆は合わせて数千人ともいわれ、こん
なふうによく客が入ったので、昭和三十六年まで続けた。相原事務所では巴里祭以外のコンサートも催してくれたが、石井音楽事務所がその年に設立され、昭和三十八年から『パリ祭』としてシャンソン界あげての祭典を企画して、複数の歌手を出演させるようになったので、私もそちらに参加して、昭和三十九年から相原さんの企画は辞退することになった。
(注)
芦野天下のパリ祭(内外タイムス、昭和三十一年七月十四日)
「ことしのパリ祭は、渡仏を九月にひかえて、いまや人気上昇の一途をたどる芦野宏にすっかりさらわれてしまいそうだ。せんだって行われた五日間連続リサイタルの余勢をかって十四、十五の両日、パリ祭シャンソンの夕が開かれる。初日は『パリ祭』『パリの屋根の下』等ごくポピュラーなシャンソン、翌日は『和製シャンソン』中心で、作詞に野上彰、作曲に宅孝二、寺島尚彦等の協力を得ている。…・:
都内の主なプレイガイドを一巡して前売り景気をさぐつてみると、予想どおり芦野の野外リサイタルが一番切符の出が小いようだ。一夜シャンソンをじっくり楽しもうというようなアベック組が多いとのこと」東京の空の下シャンソンは流れる(アサヒ芸能新聞、昭和三十一年七月十四日)
「後楽園遊園地では、NDC(日本デザイナークラブ)ほかの主催で『野外大巴里祭』がはなばなし く開かれた。……祭りの委員長は早川雪洲さんで、祭主は石黒敬七さん、演出はピアニストで作曲家の高木束六さんの面々である。正面入口には巨大なエッフェル塔が建ち、会場からはふんだんにシャンソ ンが流れ、この夜のために集まった約三千人近い人々が雰囲気をもりあげた。……同じ時刻、銀座の山菜ホールでは、シャンソン評論家・産原英了氏を中心に『ベル・エポックのシャンソン』研究会が開か
れ、座席をぎっしりうめた聴衆は、最新版のLPレコードを産原さんの解説でしんみりと聞きいっていた」