幸福を売る男
芦野 宏
Ⅱ 夢のような歌ひとすじ
1、ポピュラーの世界へ
NHKラジオ・デビュー 2
音楽学校で教わったクラシックはほとんどイタリア語が多く、ドイツ語と英語も少しわかっていたので、スペイン語の歌は比較的楽に覚えられ、とても楽しかった。卒業後、高校で音楽の教師をしながら個人レッスンでも音楽の基礎やピアノを教えていたが、その合間をぬって週に一度、代々木の高橋邸でレッスンを受けることは待ち遠しかった。
昭和二十七年の秋も深まったころ、先生が推薦してくださり、今でもNHK出演の開門として厳しい審査を経たあと、レパートリーでいちばん合いそうな歌を選んでくださった。それがタンゴの名曲「ひとしずくの涙」と、本邦初演となる新曲「カント・インディオ」 であった。
このラテン・ナンバーは美しいボレロの曲で、ティノ・ロッシ(魅惑的な歌声のシャンソン歌手)が歌ったらぴったりと思われるほど甘いメロディーである。
この二曲をはじめ、ラテン、タンゴはデビュー後しばらくは歌いなれた原語だけで通していたが、あるときスペイン語だけでは外国人が歌っているのと変わらないので、一部日本語を入れてほしいという要望があった。すでに訳詞のある曲がけっこうあったので、のちにはスペイン語と半々でも歌うようになった次第。だが日本語だと、どこかしっくりこないものがある。
たとえば自分で訳を書いて歌ってみた 「ひとしずくの涙」の一節はこうである。「夢さめやらぬわが胸 今もなお燃えつつ。ゆめ忘れずひとしずくの涙 心に残して」。何度も自宅でピアノを弾きながら歌ってみたが、どうもアルゼンチン・タンゴのあの歯切れのよさが表現できず、よその国の歌になってしまう。どうしても気に入らない。のちにアルゼンチンでも活躍された藤沢嵐子さん(芸大先輩、歌謡曲、シャンソンからタンゴ歌手)とお話しする機会があったとき、彼女もほとんどスペイン語で歌っているのは、私と同じ理由からだということがわかった。しかし、あれ以来、訳詞と半々のこともあり、また原語だけで通すこともある。