幸福を売る男
芦野 宏
3、音楽学校と卒業後
歌えない日々-2
柴田先生はテノールであるから、バリトンで声域の低い私が上手に先生のまねをして歌うことはできなかったが、なんとかして追いつきたく思って努力した。しかし、入学試験のときに歌ったのが二曲ともイタリア古典歌曲であったためか、一日も早く本格的なドイツ・リートを
勉強させてもらいたかったのに、なかなか先生からお許しが出なくていらだっていた。
そのうち、ドイツ・リートも習うようになったが、その発声とイタリア歌曲のベルカント唱法を両方ともあまり熱を入れすぎて勉強に励んだためなのか、なにが真因かは判然としないが、私の声帯に微妙な変化をきたして、ついに音声障害を引き起こしてしまった。
軽い症状は以前にも何度かあった。しかし、今度のはやや重い。ハイ・バリトンとテノールは紙一重の違いだから、高音さえ出れば貴重なテノール歌手が誕生したかもしれなかったが、私は失敗したのだ。
三年生の後半、深刻に悩んでいた冬のこと、先生は私を音声学の権威である楓田琴次先生のもとに連れていってくださったり、湯河原の別荘で静養させていただいたりした。楓田先生から当分歌うことを止められてからは、苦しい毎日であり、つらい経験であった。それでも私の
声はよくならず、無理をして歌い続けるとほんとうに声が出なくなるぞと言われもした。
こうした歌えない、苦しい六か月が続き、卒業試験もあと半年後に迫っていた。この、まさに卒業を間近に控えた大切なとき、今ごろになって悩み続けている自分はいっろうとつくづく情けなく思い、あの入学したときの輝くような喜びの日々が、なんなんだか遠いものになっていった。歌うことがあれほど好きで、明けても暮れてもピアノに向かっていた自分が、ドクターストップを受けて声のない日々を送り、悩み、苦しみ、悶えて、なにも目に入らない心境だった。
そんなとき、私の耳に入ってきて衝撃を与えたものがあった。