しあわせ
幸福を売る男
芦野 宏
東京音楽学校受験-4
こんな夜中にどうして、と思うのは当然である。心配して奥から出てきた兄と義姉が、ずぶ濡れの先生を見てとりあえず招じ入れたが、先生は固辞して用件だけを伝えた。「明日の試験は必ず出るように。昨日の声楽の点が最高点だったから、自信をもって途中で放棄しないように」 ということであった。
じつはあとでわかったことだが、ピアノの試験の途中で「カーン」と鐘をたたかれたのは、それまででよいという合図で、ハイこれで落第という意味ではなかったそうである。
私がすっかり悲観して今年の入学を諦めている様子を、近所に住む石田先生から聞き、同級の石津先生が心配して審査に当たった田中伸枝先生に開きに行ったところ、第一日日の成績がトップであることを知り、あわててとんできたというわけである。
石津先生は石田莱先生と同じく田中伸枝先生の門下生で、バリトンのホープとして母校に残されている注目の新人であった。私も石田先生の紹介で二、三度レッスンを受けたが、当時二十三歳くらいで、私にとっては一〇年も二〇年も先輩のように感じられた。それに六尺豊かな
大男である。ずぶ濡れだったのは、自転車で鷺宮から久我山までを突っ走ったからだという。
それにしてもなぜ、あんなにまでして釆てくださったのか。電話でも十分に間に合うことなのこ‥‥‥