しあわせ
幸福を売る男
芦野 宏
上野をめざす-2
私は再び神戸へ戻ってきた。
案の定、母宛に叔父から手紙が来ていた。絶対に戻ってくるようにと書いてあった。叔父に言えば必ずだめになることがわかっていたので、私は黙って急いで帰ってきたのだが、あの叔父の温顔を思い浮かべると、申し訳ない思いでいっぱいだった。
しかし、自分の決心はもうあとには戻れなかった。
私の決意を知った兄夫婦は、神戸を引き払って東京への移住を考えてくれた。そうすることが家族の全員に好都合だったのである。これをいちばん望んだのは義姉で、千葉の実家が近くなること、子供たちを東京の学校で教育すること、また私の母親も子供たちが全員東京周辺に集中していたから、願ってもないことだった。
私にとっては上野の受験があったから、なおさらである。ただ、神戸の造船所を離れなければならない兄だけが、家族のためにいちばん大きな犠牲を払った。
兄が探して決めた東京の家は、杉並区久我山であった。有名な画家の建てた家で、大きなアトリエがあり、部屋数も十分だった。二科会の東郷育児郎から折れて奥に入った静かな住宅地で、向かいの島崎邸は島崎藤村の令息で画家の鶏二氏がアトリエとして使っていた。三月までに引っ越す予定だったが、遅れて五月ごろになった。広いアトリエのそばに応接コーナーがあ
り、そこにドイツ製のピアノが運ばれた。義姉は女子美術大学で油絵を習っていた人だが、この大きなアトリエはダンス教室に使う目的であった。
ここで私が神戸の家で先生に習ってきたダンスの基礎を初心者のために教えた。昼間は遠慮なくピアノの練習ができ、一週に一度、歌を世田谷の中山悌一先生のお宅までレッスンに通い、ピアノは奥様である朝倉靖子先生に習った。夜はレコードをかけてダンス教室を開いたが、時代の波に乗って大繁盛し、神戸の家でやったときよりずっとうまくいった。
義姉の考えた計画が予想以上にうまく当たって、私はダンス教室のアイドル的な存在になり、休憩時にはピアノを弾いて歌った。ダンス教室は私の学資稼ぎのためという錦の御旗を立てていたが、私は毎晩の収入を全部渡して兄からその一部をもらっていた。それだけでも相当な金額になっていたし、進駐軍のエレメンタリー・スクールで子供にピアノを教えたりして、けっこう小遣い銭には因っていなかった。
久我山には文化人が多く住んでいて、歩いて五分くらいのところに上野の研究科に籍を置くソプラノの石田莱先生がおられ、ときどき基礎の勉強を見ていただいたが、彼女の紹介で同級の石津憲一先生にも見ていただいた。あのクラスは有名な先生方が多く、作曲家の圏伊玖磨さんや声楽家の伊藤京子さんもみな石田先生の同級生であった。東京に出てきて、私は昼間は
音楽の勉強、夜は自宅でダンスのアルバイトという生活が続き、やがて音楽学校受験という大きな山場を迎えるわけである。