歌手「岬道夫-3
芦野 宏
信州の空は美しく、山も木立も生き生きとし、川の水は清例だった。
学校では叔父の一番弟子である関助教授が特別に目をかけてくださり、ありがたかった。 しかし、私の中に住みついている一匹の虫「音楽好き」は、どうしても退治できるものではなかった。
心の中にはいつもピアノが住んでいて、想像で音を探したり弾いたりしていた。
また、このころは、ピアノをたたくと音の出ない夢をよく見た。
庭の真ん中の草むらの中にピアノがあって、雨ざらしになっている。
あわてて鍵盤をたたくとまったく音が出ない。
そんな夢を何度見たことだろう。
夏休みがきて、私は母のところへ帰ろうと思ったが、母はもう山形にはいなかった。
神戸に住んでいる長兄のもとに移っていたからである。
ひどいインフレのなかで、働かないで生きてゆくことはとても難しい時代だったから、仕方ないとは思ったが、私は母の転居はなんとなく気が進まなかった。
父が亡くなったあの部屋に、母が一人住まうわけだが、まったく馴染みのない土地に移りたくない母の気持ちがよくわかっていたからでもある。
しかし、兄の気持ちもよくわかっていた。
父がわざわざ私を連れ神戸まで釆て長男の家で他界したということが妙に因縁めいてけて、まだ未成年であった私と母のこれからを兄に頼んだぞというふうに受け取っていたからである。
兄夫婦は洋館に住んでいたが、兄は母を日本館に迎えて、生活を保障したのだ。
学校の夏休みは長かったが、私は懐かしい東京は素通りして母のいる神戸の家で過ごすことにした。
母はご隠居様扱いぎれるのをとても嫌うほど、たいへん元気であった。
神戸の家は戦火にあわなかったから外観は昔のままだったが、内情は火の車であった。
戦後の食糧難は兄の給料では賄いきれるものではなかった。
育ち盛りの二人の子供(玲子、威彦)、母の世話、それに広い屋敷も雑草が茂っていた。