平和な家庭-3
芦野 宏
昭和十六年(1941) には、大東亜戦争 (アジア太平洋戦争)という名のもとに日本軍が米国ハワイの真珠湾を一方的に爆撃した。しかし、その後数か月のうちに小笠原島が米軍によって爆撃されていることを日本人はほとんど知らなかった。
父は重役をしていた村井銀行が倒産してからは、いくつかの会社で顧問をしていたが、東京湾汽船と小笠原電気では責任ある立場にあったらしい。小笠原の爆撃により工場が壊滅したことを知ったとき、大きなショックを受けていたことは記憶している。気分転換に旅に出ようと
言いだして、大学受験に失敗して浪人生活をしていた私を伴い、かつては父が貿易商として出張の多かったところで、今は長男の住む神戸へ出かけた。神戸市垂水区には、その長兄の義父・大里庄治郎の援助を受けて買った広大な屋敷があり、本館はドイツ人の建てた古い建物だったが、部内に純日本風の離れを新築して別荘のように使っていた。
十一月の初めだったが、その年は寒さが早く訪れて寒い日曜日であった。兄はわれわれ二人を船に乗せて親孝行をした。しかし、その晩から父は風邪で発熱し、私は中耳炎で高熱を出し、二人とも寝込んでしまった。私が耳の切開手術をしたとき、父はまだ元気だったのに、その後急性肺炎から尿毒症を併発して三日後に帰らぬ人となった。母が東京から駆けつけて臨終には間に合ったものの、あっけない最期であった。結局、父の死に目にあえたのは、兄弟のなかでは長兄と私だけであった。