平和な家庭-1
芦野 宏
転校して新しい小学校に入ってからは、先に述べたように、私は学芸会で必ず歌わせられて評判になり、NHKやレコード会社から学校の音楽担任を通して出演依頼があった。しかしいずれも、父の反対で実現しなかった。私の音楽に対する憧れはますますつのり、ピアノの音は
いつでも自分の頭の中で弾きながら歌に合わせて鳴り響いていた。
平和で楽しい日々が続き、夏休みには兄弟姉妹だけで千葉県大貫町の海の家で生活していた。
長男と長女が団長となって弟妹を引率し、子供たち七人はそれぞれ自分自身の行動に責任をもたされた。ときどき東京の菓子を持って両親が見まわりに来るときがなによりの楽しみだった。
この計らいは兄弟姉妹を団結させ、社会勉強をさせるという、目に見えないたくさんの恩恵を与えてくれた。八月の末に東京へ帰ると新学期が待っている。兄や姉が勉強するから弟妹たちもそれをまねて、よく勉強したものである。
今でもわれわれは年に二回、五月の母の命日と十一月の父の命日を中心に、必ず集まって昔話に花を咲かせる。
中学校は三人の兄と同じ新宿・成城中学校で、家からは徒歩通学で二〇分くらいであった。
私のいちばん得意な学科は英語で、ニュージーランドのクライストチャーチから来日していたエリック・S・ベル先生が英語の先生であった。これは兄たちが家に帰ってから勉強している英語を聞きながら育ったせいだろうと思うが、いつも満点であった。一度だけ英作文で九九点をとり汚点がついたと悔しがったほど、英語にだけは熱中した。当然のことながら、ベル先生は特別に目をかけて指導してくださったのだろうと思っている。
しかし、当時はしだいに戦時色が濃くなってきたころだったから、中学校は軍人養成所みたいで、軍事教練や勤労奉仕のようなことばかりさせられていた。そのうちに日中戦争が勃発。
音楽や絵の世界は無視されて、一億火の玉になって無駄な戦争に遇進する時代に入った。「警戒警報発令」。そんな叫び声のなかで室内灯には黒いカバーをかぶせ、非常用リュックを背負って、いつ来るかわからない敵機の襲来におびえていた。窓ガラスには縦横十文字に紙を貼り、今にして思えばなんの役にも立たない竹槍訓練やバケツリレーをさせられる。人間はその渦中に置かれると、目前のものしかわからなくなるものである。それにしても、あのころの食生活はひどいものであった。