デビューまでー3
芦野 宏
小学校二年生まで、桜の木のある懐かしい薬王寺町の家にいたが、三年生からは市ヶ谷駅に近い左内坂上に引っ越した。ここで子供たちは
一人ずつの個室を与えられ、独立心をもつように教育された。
高台にあったから空気もよく、夏の夜は両国の花火が部屋の中からよく見えた。
ただ広いだけでとりとめのない前の家と違って、今度の家は二階に子供たちの個室がずらりと並んでおり、二階にも洗面所があって、なかなか便利な間取りだった。一階は両親の部屋と 一家団欒(だんらん)の間で、当時はテレビもない時代だったのに、退屈をしない楽しい思い出ばかりである。
玄関と内玄関の間にこぢんまりした応接間があったが、そこには必ずあるべきものがなかった。
いずれ運んでくるだろうと思っていたのに、ついにピアノは来なかったのである。姉たち三人はピアノに未練はなかったが、母と私だけは反対した。しかし結局、父の命令に従うことになった。
父は私がピアノに熱中して勉強しなくなることを恐れていたのだという。
「埴生の宿」
埴生の宿も わが宿
玉の装い うらやまじ
のどかなりや 春の空
花はあるじ 鳥は友
おお わがやどよ
たのしとも たのもしや
詞 里見 義
曲 R・ビショップ
ピアノのない家に住んでみると、母がよく歌ってくれた歌を思い出して、一人で歌ってみる
ことが多かった。「埴生の宿」という意味がよくわからないまま、私はこの歌ばかりが心のど
のど
こかに生き続けている。母はちょっと咽喉を締めた昔風の発声で、ピアノをたたきながら、よ
くこの歌を歌ってくれた。ヴァイオリンを習っていたから、歌のほうは専門に勉強したわけで
はないと思うが、このほかに母の歌で覚えているのは「庭の千草」と怪しげな発音で歌う英国
の歌であった。音楽が好きな人であったと同時に、ハイカラな人であったにちがいない。
むなだか
セピア色になった古い娘時代の写真を見ると、はかまを胸高にはいてヴァイオリン片手に振
られているものがあり、当時流行の編み上げ靴をはいている。結婚してからしばらくは、先に
もふれたように、東京音楽学校のお茶の水分教場に通っていたが、子供ができてからはやめた
と開いている。