デビューまでー2
芦野 宏
父・芦野太蔵は、明治十九年(一八八六) 山形児村山市でひろく呉服商を営む、芦野民之助の一人息子として生まれた。
しかし、わずか九歳で両親を失った父は、後見人によって育てられながら、相続した山林や財産の大半を失い、孤独な青春を送っていた。母・梅は岐阜県出身の裁判官であった蒲生俊孝の次女として茨城児水戸市で生まれたが、たまたま山形地方裁判所の判事として赴任した祖父 (俊孝) について山形へ来たとき父と出会った。
当時、黒田清輝の弟子の一人として東京美術学校(のちに東京音楽学校と統合して東京芸術大学)の油絵科に籍を置く母の兄・蒲生俊武は、父・芦野太蔵と友人であったことから交際が始まり、二人は恋に落ちた。東京へ出てきた二人は、お茶の水近くに居を構えて、母は千代田区の錦華小学校(平成五年、近隣二校と合併して、お茶の水小学校と改称)で児童を教え、父は明治大学に通っていた。
音楽の好きな母は、当時お茶の水にあった東京音楽学校の分教場でヴァイオリンの授業も受け、はかま姿に編み上げ靴をはき、自転車に乗って通学したほど進んだ女性であった。
それにひきかえ、父は頑固一徹の融通性のない男で、まったくの音痴であった。しかしそれだけに学業に専念したせいか、卒業のときは最優秀で金時計をもらっている。