デビューまで-1

 
さて、これから皆様にお目にかける拙文は、記憶をたどりつつ綴った自分史である。しかし、
記憶というものは怪しいもので、私の思い違いも大分あることに気がついた。
そこで、懇意のシャンソン愛好家に当時の新聞・雑誌等の記事や年表をもとに史実との整合
をしてもらい、(注)として、説明の補充、空白の埋め合わせなどをお願いした。読み進まれ
るときのご参考にしていただければ、幸いである。

デビューまで-1

芦野 宏

1、生いたち

歌の好きな子供

親類縁者にはだれ一人音楽をやる人間がいないのに、私は小学校に入るころから歌うことが好きで、初めて大勢の人の前で歌ったのは、小学校三年生の学芸会の舞台である。「春の小川」を独唱させられたと記憶している。学芸会には、四年生、五年生のときも歌わされたが、曲
目の記憶はさだかでない。

「春の小川」
詞 高野辰之
曲 岡野貞一

春の小川は さらさら流る
岸のすみれや れんげの花に
においめでたく 色うつくしく
咲けよ咲けよと ささやく如く

たしか四年生のときだったと思うが、音楽の平松たか子先生が家の応接間に現れて、母と話しているのに聞き耳を立てていると、母が丁重に謝っているのが聞こえた。「私は理解しているのですが、主人が許しませんので……」。
それは某レコード会社からの吹き込みの申し出であったが、男子のすることではないという父の一言で中止になった。
あのとき要請を受けておけば、ボーイ・ソプラノの声が残されていたのに、と残念である。
わが家では、姉たちのために週一回、東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)出身の牧野守二郎先生が家庭教師としてピアノを教えに来ていた。私は部屋の外で立ち聞きすることしか許されなかったが、先生が帰ったあと、三人の姉たちの前で上手にその日のレッスン曲を弾いてみせるのだった。
それでも父は振り向かず、三人の兄と同じように旧帝国大学に進ませるつもりであった。

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父・芦野太蔵、母・梅(1942頃)

父・芦野太蔵は、明治十九年(一八八六) 山形児村山市でひろく呉服商を営む、芦野民之助の一人息子として生まれた。
しかし、わずか九歳で両親を失った父は、後見人によって育てられながら、相続した山林や財産の大半を失い、孤独な青春を送っていた。母・梅は岐阜県出身の裁判官であった蒲生俊孝の次女として茨城児水戸市で生まれたが、たまたま山形地方裁判所の判事として赴任した祖父 (俊孝) について山形へ来たとき父と出会った。
当時、黒田清輝の弟子の一人として東京美術学校(のちに東京音楽学校と統合して東京芸術大学)の油絵科に籍を置く母の兄・蒲生俊武は、父・芦野太蔵と友人であったことから交際が始まり、二人は恋に落ちた。東京へ出てきた二人は、お茶の水近くに居を構えて、母は千代田区の錦華小学校(平成五年、近隣二校と合併して、お茶の水小学校と改称)で児童を教え、父は明治大学に通っていた。
音楽の好きな母は、当時お茶の水にあった東京音楽学校の分教場でヴァイオリンの授業も受け、はかま姿に編み上げ靴をはき、自転車に乗って通学したほど進んだ女性であった。
それにひきかえ、父は頑固一徹の融通性のない男で、まったくの音痴であった。しかしそれだけに学業に専念したせいか、卒業のときは最優秀で金時計をもらっている。