幸福を売る男
芦野 宏
Ⅲ 新たな旅立ち
5、パリ・コンサートをめぐつて
エピローグ 「日本シャンソン館」 に託す夢
音楽を教わること、教えること-5
芸大を卒業後、短い間だったが、私は千葉県市川市の国府台女子学院の音楽教師として教鞭をとった。この学校は歴代の音楽担当が芸大から派遣されており、N響の指揮者だった森正さんや、メゾソプラノの奥田智童子さんも、かつては音楽を教えておられたと聞く。この学校で私は音楽一般の授業を受け持つことになった。期末試験の成績をつけることはいちばん苦手だつたが、思いきって私は全生徒に甘い点をつけた。なによりも音楽というものを好きになってもらいたく、この授業時間を楽しみに、心待ちにしてもらいたいと願う気持ちからである。音楽の好きでない生徒たちの心も、こちらに向けさせたかったからである。
雨上がりの日は校庭に出て、みんなでコーラスをした。あまり広い庭ではなかったが、隅のほうに木立があったので、生徒たちに思い思いの場所に立たせて教科書のなかから一曲を選び、単音で合唱をさせる。私の低音が三度高い和音をつけて一緒に歌うと、単調な歌が生まれ変わつたように生き生きとしてくる。もともと音楽は自然に発生した素晴らしいものである。みんなの力で現在のような立派なものが出来1がってきたのだ。この素晴らしい大の恵みをみんなで分かち合ってもらいたい。
音楽が芸術としてしだいに高い位置を占めるようになったのは、十八世紀ごろから、楽聖と呼ばれる天才が出現して、しだいに音を使った芸術の華が開いてきたからである。古典音楽もバッハの時代は即興が主だった。音楽の本質は即興である、と私は思っている。アメリカのジャズも、アドリブで光り輝き、そのときの即興で最高の光を放つことが多い。とても譜面や音符では表現できない、不思議な生きものが音楽だと思っている。
芸大に入学したら、楽典の時間があって、難しそうな分厚い教科書を渡された。ところが読んでみると、みんな知っていることばかりだつた。実際に経験した人が書いたことだから、経験していない人にとっては非常に難しく感じるだろうが、わかりきったことを書き直しているだけのことである。音楽を学問として、音楽教育を主体として考える場合でも、私は難しいという第一印象を生徒に与えることはマイナスだろうと思う。音楽の授業なら、楽しい授業として、楽典も楽しみながら覚えることが私の理想である。それは少し甘い考えといわれようとも。える立場 しかし、教師の立場からとつぜんポピュラー音楽の世界に飛び込んでしまった私だから、決して大き顔をしてこのようなとを言える立場でないことは十分にわかっている。
-------
日本シャンソン館・ライブスケジュール
しばらく中止させていただきます。
再開が決定しましたらご案内いたします。
日本シャンソン館 館長・羽鳥功二
--------------