幸福を売る男
芦野 宏
Ⅲ 新たな旅立ち
5、パリ・コンサートをめぐつて
エピローグ 「日本シャンソン館」 に託す夢
音楽を教わること、教えること-3
戦争が終わって巷に音楽が戻ってきても、私たちは手放しで喜ぶわけにはいかなかった。よろこぶべきことは十分にわかっているのだが、今まで両手両足を縛られていたゲートルを自分自身でほどいていかなければならない。つまり、心の切り替えがうまくいかないということである。
終戦後、初めて迎えた正月は雪深い山形市の郊外であった。東京は焼野原の状態だったから、私は生まれ変わったような気持ちで、きれいな新鮮な空気を胸いっぱい吸い込んだ。町の映画館のアトラクションに出て歌い、初めて出演料をいただいたのも、この年であった
。戦争というものによって中断されていた心の中の一匹の虫が、また頭を持ち上げ始めてきたことを実感しながら・・・。
私が本格的な音楽の指導を受けたのは、音楽学校受験のために中山悌一先生の教室に通ったころからである。
「紅いサラファン」
訳 津川 圭一
ロシヤ民謡
紅いサラファン縫うてみても
楽しいあの日は帰りやせぬ
たとえ若い娘じゃとて
なんでその日が長かろう
燃えるようなその頼も
今にごらん 色あせる
その時きっと思いあたる
笑うたりしないで母さんの
言っとく言葉をよくお聞き
とはいえ サラファン縫うていると
おまえといっしょに
若がえる 若がえる
上田市の公会堂で初めて聴いたこの歌。中山悌一先生の完璧な発声・発音・音程すべてに魅了され、心を奪われた。若き日の私の願いがかなって、中山先生の門下生となり、基礎の勉強に熱中した。歌曲を歌うことより、なにより発声であり、読譜力であり、リズム感であり、正確な音程であり、呼吸法であることを悟り、一生懸命努力した。
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日本シャンソン館・ライブスケジュール
しばらく中止させていただきます。
再開が決定しましたらご案内いたします。
日本シャンソン館 館長・羽鳥功二
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