幸福を売る男
芦野 宏
Ⅲ 新たな旅立ち
5、パリ・コンサートをめぐつて
エピローグ 「日本シャンソン館」 に託す夢-1
音楽を教わること、教えること-1
音楽というものを初めて意識したのは、五、六歳のころだったと思う。母はむかし小学校の教員をしていたことがあり、ピアノを弾きながらよく歌ってくれたものだが、弾くほうはあまり上手ではなかった。私には姉が三人いたが、母は家庭教師という名目で、上野の音楽学校を出たばかりの牧野守次郎先生を招き、姉たちにバイエルから手ほどきをしてもらっていた。
牧野先生は外交官のご子息で、たいへんあか抜けした青年であった。私は音楽好きの少年だったから、いつも姉たちのレッスンを部屋の外で聴きながら育った。父の意向で、男の子が柔弱な音楽など習うべからずと言われていたからである。父は講談や落語を聞くことはあっても、洋楽にはまったく興味を示さず、軍歌でさえ歌えないほどの音痴であった。三人の姉たちがその遺伝を受けている。
さて、部屋の外で聞き耳を立てていた私は、先生が帰られたあとで、その曲をまねて弾いて姉たちに聴かせてやることがたびたびあった。「好きこそものの上手なれ」という諺があるが、姉たちはきっとピアノがあまり好きではなかったにちがいないと思っている。その証拠に、まもなく先生も家へ来なくなった。
牛込区立牛込小学校に入ってからの音楽の時間は、つまらなかった。ただ歌うだけの授業は退屈である。ちょうど二年生の二学期から、音楽担当の牧野守次郎先生が課外授業でピアノを教えてくださることになり、ほかのクラスの女生徒である鷲尾ゆう子さんと私は、授業が終わつてからピアノのレッスンを受けた。小学校二年生でも、美しい女性のことはよく覚えている。
ひときわ日立つ上品な少女であった。同級生でもクラスが違ったから請をすることはなく、今でも脳裏に焼きついていてときどき思い出す。しかし、それもほんの短い間のことで、三年生から私は転校することになっていた。市ヶ谷駅から近い高台に新築した家に引っ越して、そのすぐ隣にあった長延小学校で三年生を迎えたのである。
今までの家と違い二階にそれぞれの勉強部屋があって、子供本位の間取りであった。クリーム色の壁に赤い屋根という超モダンな洋館なのに、一階の広間にはピアノが運ばれてこなかった。父の考えで、末っ子が音楽に熱中しないようにしたらしい。また、ちょうどそのころから日本も戦時色が濃くなりつつあり、洋楽をする家は白い目で見られるような風潮になっていた。