石井音楽事務所時代とその前後-8

幸福を売る男

        芦野 宏

 Ⅲ 新たな旅立ち

4 石井音楽事務所時代とその前後-8

  シャンソンと絵

 ジョセフィン・ベーカーとの共演で、私は一部のステージで歌ったあと、いつも客席にまわつて彼女のステージを見て勉強していたが、そのイメージをスケッチ帳に描いた彼女の舞台を油絵にしたものが、二科展初入選を果たした「しらベB」であり、昭和四十九年度の美術界・マスコミで話題になった作品である。
 油絵は子供のころから親しんでいた。小学校の図画の先生が、当時としては珍しく上野の東京美術学校出身の山本四郎先生で、その影響を受けていたのかもしれない。後年、私は同じ野だが向かい側の芸大音楽学部を出てシャンソン歌手として世間に認められた。何度目かのフランスから帰って東北の地方公演に出たとき、とつぜん目の前に現れた恩師・山本先生が「君は絵の道に進むとばかり思っていたよ。上野の森で道に迷ったのかね」と言われたこともある。
 つねづね私は、音楽を感じさせる、動きのある絵を描きたいと考えていた。ベーカーがステージに出てくると、コンサートで一部を受け持っていたバンドの皆さんが、とたんに生き生きとしてくる。彼女の身体から発散するリズム感がそうさせるのか、われわれ日本人の伴奏をしていた時とはまるで違った動きを見せるから不思議だ。
 私の油絵は、その後毎年、夏休みを返上して二科展に出品し、テーマは音楽の世界だけを追求してきたが、昭和五十五年「ビギヤール広場の楽士達」 で 『二科展六五回記念賞』を受賞した。この賞をもらえたら、二科展に無審査で人選できるとかいわれたが、私はだんだん疲れがたまってきていた。絵を描くということは相当のエネルギlを使うし、コンサートで歌っているときでも、いつも油絵の構図のことや色のことが頭のどこかにあって、八月末の二科展締め切り日が近づくにつれて歌がおろそかになってくることがわかった。早く帰ってキャンバスのあの部分を埋めようと思い、歌より絵のほうか大切だと思うこともあった。

 翌年の二科展に出展した絵は「ピエロの唄」であったが、道化師ピエロの眼に涙があふれ、今にも泣きだしそうな作品になってしまった。自分の心情を思わず表現してしまったような気がする。批評家の先生や二科会の審査員の先生方にはほめていただいたが、私はあれ以来、二科展出品は控えている。絵は好きなので、気の張らない水彩や小品を描くことはあっても、50号や100合の大作に挑む気持ちは今はない。