石井音楽事務所時代とその前後-3

福を売る男

        芦野 宏

 Ⅲ 新たな旅立ち

4 石井音楽事務所時代とその前後-3

 新しい事務所で-3

 「歌の明治百年史」 リサイタル
 私は昭和四十三年(一九六八)、歌手生活一五周年にあたり、「歌の明治百年史」というタイトルで記念リサイタルを開いた。構成演出は永田文夫さん、私のために名訳「セ・ラ・ロマンス」 「愛は燃えている」などの歌をレコード用に書いてくださった先生でもある。叫早津子さん一躍有名になったが、もともとはシャンソンとラテン音楽の研究家で、長い間『シャンソン』という月刊誌を続けられ、貴重な資料をたくさん提供してくださった方である。その永田さんに相談しながら、気負い込んで歌った「歌の明治百年史」は、今でも私の記憶に残る快挙だったと自負している。
日本シャンソン友の会(石井音楽事務所内)の会報に載せた当時のプログラム紹介の記事が保存してあったので、改めて読み返してみることにしよう。
(皆さま、こんばんわ。芦野宏です)
 シャンソンを歌いはじめて、ちょうど十五年になりますので、今回はシャンソンの歴史のようなものでプログラムを組んでみました。今年は明治百年にも当たりますので、明治維新から現代に至るシャンソンの流れを歌で聴いていただこうというわけなのです。
 「お江戸日本橋」や「アヴィニョンの橋の1で」は、いずれも明治以前のものだそうですが、明治の初め「宮さん宮さん、お馬の前に……」という歌が束京で歌われていたころ、パリでは「さくらんぼの実る頃」がはやっていたということです。また、東京の下町情緒を歌いあげた「紅屋の娘」という流行歌が街に流れているころ、「パリの屋根の下」や「パリ祭」の歌、こういうパリの下町を歌ったシャンソンが流行しました。
 昭和十九年から二十年にかけて、悲憤な「海行かば」をわれわれが歌っていたころ、パリでは海の歌「ラ・メール」が作曲され、終戦を迎えて、パリで初めてこの歌が流行しはじめたと24(;いいますから、ちょっとおもしろいですね。日本は敗戦国として、フランスは戦勝国として、ともに困窮と耐乏の生活を迎え、やがて「銀座カンカン娘」や「セ∴ン・ボン」のような明るい歌が歌えるようになっていくわけです。