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ジローとの再会-1

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

3、初吹き込み・初渡仏

ジローとの再会-1

昭和三十年(一九五五)、イヴェット・ジローが初来日されて、日本でお会いしたとき、パリへ来たらぜひ電話をくださいと言われていた。昭和三十一年十一月二十七日にジローが私の泊まっていたホテル・ナポレオンに現れて、「さあアシノさん、あなたの食べたいものをご馳走しましょう」と言ってくれた。ほとんど二か月近く日本料理を食べていないし、そのころは初めてのパリで日本料理屋といえば「ぼたんや」のスキヤキ以外はなかったから、ふと思いつきで魚の塩焼きなんてありますかと尋ねてみた。まだ東京で一度お会いしただけの仲なのに、そんなわがままを言ってしまったのは、きっとよほど日本風のあっさりしたものに飢えていたからだろう。
ご主人のマルク・エランの運転する最新型の車に乗せられて、私はワグラム通りにあるプルニエ(魚料理店)に案内された。昼の食事はフランス人は時間をかけてたっぶり食べる。われわれは生牡蠣(なまがき)にレモンをかけて白ワインをあけた。ジローの声は、優しくて温かい。むかし電話の交換手をしていたころ、その声が気に入られてレコード歌手になったと、なにかの本に書いてあったが、まさに美しい喋り声である。そして、それがそのまま歌につながる、理想的な自然発声でシャンソン歌手として成功した人だと思う。
彼女は優しく、しかしちょっと困った表情で私に言った。「シェフに相談したら、塩焼きの魚はしたことがない。でも、やってみましょう」ということであった。さて、大きな皿に飾られて現れた舌びらめの塩焼きは、案の定、上出来ではなかった。フラン料理独特のムニエルにすればよかったと後悔したが、あとの祭りだった。舌びらめの身にこげ目がついたまま…崩れ、パセリとレモンを添えてあったけれど、決して上等の料理とはいえなかった。それでも私は、油っこいフランス料理に飽きていたから、さも美味しそうに不出来な魚料理を平らげた。
正直いって日本で食べる魚のほうがずっと美味しかった。


初めてのパリ-5

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

3、初吹き込み・初渡仏

初めてのパリ-5

五回目の偶然は、つい先ごろ、平成十年五月十八日のことである。五月十五日に、私は滞仏中に「パリ日本文化会館」において1日本シャンソン館」主催のコンサートを終え、十七日の午後、パスカル・スヴランのコンサートに出かけた。スヴランはフランスのテレビ局フランス・ドゥ(アンテンヌ2の後身〉で「シャンス・オー・シャンソン(シャンソンにチャンスを)」
という長寿番組の司会と歌をずっと続けている歌手で、平成二年には私もその番組のなかで歌っている。われわれが思っているのと同じように、ピアフやモンタンの時代に花が咲いた良き時代のシャンソンをもっと人々に愛されるよう努力している人である。ウイークデーの午後四暗から四五分、スヴランの司会でいろいろなシャンソン歌手をゲストに迎えている。楽屋を訪
ねたとき、明日この番組でシャルル・トレネが八十五歳の誕生日を祝って出演するから、ぜひ見てほしいと言われたのだ。
私は十八日の午後四時、ホテルに帰って部屋のテレビの前でトレネと向かい合った。八十五歳とは思えぬ若さであった。相変わらずのファンテジスト(おもしろおかしいしぐさで見せる歌
手)である。お得意の「ブン」を歌って、早口言葉が疲れたといった表情をすると、ソワフ、ソワフ(のどが渇いた)と言って花瓶の水を飲みほすまねをして、司会者やスタジオにいる人たちの度肝をぬく。ちょっと太り気味で身体の動きは以前ほどすばやくはないが、声は十分に出ていた。昔懐かしい男声コーラス、コンパニョン・ドゥ・テ・シャンソンが一緒に出ていた。
当時のメンバーのまま、年齢を重ねて、みんな白髪のいいおじいちゃんになっていたが、「わが若かりし頃」をトレネと一緒に歌って、トレネの誕生日を祝っていた。
シャルル・トレネは私が最初に傾倒し、シャンソンにのめり込むきっかけをくれた人である。
奇しくも私はパリを去る前の日、テレビ番組から元気な八十五歳の彼の健在ぶりをじCくり拝見拝聴することができたのは、不思議な因縁だと思っている。    一


ヒトリデ過ゴスオ正月

 

明けましてお目でとうございます。
本年も日本シャンソン館共々宜しくお願いします。

日本シャンソン協会代表理事・羽鳥功二

ヒトリデ過ゴスオ正月

芦野 宏

ソラカラ
ナニカキコエテクルヨウナ
メデタイ オ正月

松カザリヤ オソナエモ
ミンナ ニギヤカナココロデ
黙ッテイル

オロシタル
キモノデハナイケドモ
ナルベク
シワガヨラナイヨウニ
キチント
襟元ニ気ヲツケテ
誰カヲ待ッテイルンダ
ダアレモ来ナイ オ正月

小鳥ヤ
深海魚ヤ
猫ダケガ
僕ノ応接間ノオ相手サ

ソレニ鳩時計モ
ダンロノ火モ
燃エテイルンダゼ
リリリリリントベルガナル
サット椅子カラ立上ガル
サテコソ待ッテル
オ客サマ

ネコヲ膝カラ「ニャン」ト捨テテ
玄関ノ戸ニ手ヲカケル
「ナーンダ 郵便カ」
ダアレモ来ナイ
ソレデモ僕ハ淋シクナインダ
ダレカガ キット ドコカデ
ボクヲ淋シク待ッテテクレルカモ
シレナイモノネ


初めてのパリ-4

明けましておめでとう+御座います。

本年も宜しくお願いします。

羽鳥 功二

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

3、初吹き込み・初渡仏

初めてのパリ-4

 春のうららかな日だったので、トレネの作った「リオの春」を歌うことにした。私はフランス語で歌い、歌詞に出てくる〈ブラジル〉を〈日本〉に、〈リオ〉を〈東京〉に置き換えた。これは二コーラスあったので、二番は「シャルル・トレネはこの国で恋の唄を歌う」に替えて歌つた。
歌い終わると、案の定、トレネは大満足して私に握手を求めてきた。私はすかさず一年前に
オランピアのロビーで撮(うつ)したトレネと私の二人の写真を胸ポケットから出して見せた。例の私が沈んだ表情で写っているトレネとの唯一の写真であったが、彼はやっと思い出してくれて私の名前を初めて覚えてくれた。これが二回目の出会いである。
三回目にトレネと会ったのは、昭和三十五年、パテ・マルコニ社のスタジオで私が「ラ・メール」のレコード吹き込みをしたときである。詳しくは、後述の「フランスで初レコーディング」 の項でふれる。
そして四回目は、平成二年九月、私が労音時代から親交のある丹野稔氏のご紹介で就任した「江戸職人国際交流協会」の会長として、南仏の保養都市アメリ・レ・バンに桜の苗木二〇〇〇本を贈呈するため、その町を訪れたときのことである。案内する人が美しい海岸で車を停め、ここがシャルル・トレネが作った1ラ・メール」の海岸です、と教えてくれたことであった。
歌詞のとおり、入り江に囲まれた海辺には葦が茂り、たまたま小雨が降っていたので、まさにあの歌と同じ光景に出合うことができた。
しかも、この海岸はヴエルメイユ海岸といわれ、奇しくもその前々日にパリ市長であったシラク氏から授けられた勲章の名称が「メダル・ドゥ・ヴュルメイユ」という偶然にも重なった。
入り江の向かい側の岬に赤い屋根の建物が見え、トレネがかつて別荘として使っていたものだと聞いたとき、名曲「ラ・メール」の美しいメロディーのなかにトレネの風貌が浮かんできた。


初めてのパリ-3

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

3、初吹き込み・初渡仏

初めてのパリ-3

私が咋日、この同じステージに立って歌った自分の「ラ・メール」と、ああこんなにも違うものだろうかと思うとまったく恥じ入った。そして彼がこの歌を終わって客が席を立っても、私はしばらく立ち上がることができないほどショックを受けた。
ひしひしと迫りくる劣等感、戦って完全に敗れた野良犬みたいに、私は街を歩きはじめた。
もう歌をやめたいとさえ思い、心が重かった。私はただトレネのイミテーションにすぎない、ただ彼の歌を上手にまねしている一人の東洋人にすぎないと思うと、足が重く、このままどこまでも歩いて消えてしまいたい気持ちであった。
ショックの大きさを、同行のカメラマン高田よし美さんはわかってくれた。でも、せっかく来たんだから記念に写真をと彼女に促され、またオランピアの方向に向かって歩きだした。オランピアにはもう客の姿もなく、閉館の準備をしていた。トレネの楽屋で自己紹介したあと、帰り支度を終えて入口のほうへ向かい彼が指定したロビーのポスター前で、私が彼と並んで高田さんがすばやく記念写真を撮らせてもらった。
シャルル・トレネとはそれから何度も会っているし、お話をしたこともあるが、二人でカメラに納まったのはこのときだけである。私は無理に笑っているが、その表情は明るくない。胸の奥にひどい挫折感を抱いている顔である。逆にトレネは、初日を大成功に終わって心からリラックスしているように見える。この日のショックはたいへん大きくて、鬱(うつ)の状態が二、三日續いた。しかし思い直して、トレネを聴くために、その後二回ほどオランピアに通っている。
シャルル・トレネの初来日は昭和三十四年(一九五九)の春で、フランスから大物のシャンソン歌手が来日することはダミア以来の大事件だった。まだ日本には大きなホールなどない時代で、千駄ヶ谷の体育館が初日の会場にあてられた。
その日、私はトレネのリサイタルの前座で歌うように主催者から言われて選曲に迷っていた。


初めてのパリ-2

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

3、初吹き込み・初渡仏

初めてのパリ-2

十一月十五日、私が憧れのオランピアに出演した翌日、生まれて初めて聴くシャルル・トレネのリサイタルには圧倒された。長い間、憧れていた歌手のリサイタルに出合えて、期待以上のものがあったからだ。
初日の切符は、自分自身のことに紛れて買っておく余裕がなかったので、当日、早めに出かけて行列に加わった。人いきれと暖房、フランス独特の香水や体臭がむせ返るような超満員の客席であった。第一部は、例によって始めは手品や前座の漫才みたいなものであったが、トリはジェルメーヌ・モンテロの渋いシャンソンで終わった。
いよいよ第二部の開幕は夜の十一時で、トレネがブルーの背広にソフト帽をかぶり、胸に赤い花をつけて舞台に現れると、客席がいっせいに活気づいて彼の再起を祝った。ちょっとした自動車事故にあって入院しているという記事を新開で読んだことがある。客席がブラボー、ブラボーと叫ぶ。あちこちから口笛が鳴る。なにしろ久々のパリ公演であるうえに、退院以来初めてのステージなのだからファンの熱狂ぶりはたいへんなものであった。
甘く、渋い、そして低いささやきが歌になって流れると、客席は水を打ったように静まり返る。二十数曲のうち、その大半が私のレパートリーのなかにあるから、一節なりとも聴き逃すことはできない。「わが若かりし頃」「詩人の魂」「街角」「パリに帰りて」、そして新曲の「君を待ちながら」が私にとっては新鮮で、とくに胸に焼きついた。アンコール、アンコールの声に「ブン」を歌ったが、客席は立とうともしないで彼を引きとめる。何べんも何べんも幕前に出て頗を下げる彼に、客席が「ラ・メール」を要求する。そして彼はついに「ラ・メール」を歌いだすのであった。
彼が作詞作曲して創唱したこの歌は、シャンソンのなかの名曲として世界に君臨している。
もちろん、この私もこの歌に魅せられてシャンソンの世界に入ったといっても過言ではない。


初めてのパリ-1

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

3、初吹き込み・初渡仏

初めてのパリ-1

昭和三十一年二九五六)九月には、私の夢であったパリ行きが実現した。九月七日には産経ホールで送別リサイタルが開かれ、希望と夢に胸をふくらませてパリヘ向かった。
機運が上昇しているときはすべてうまくいくもので、知人の紹介から思いもかけないスポンサーがつき、オール・ギャランティ (全面的な身元引受人)の形式をとってもらえたので堂々と外遊することができたのである。そのスボンサーとは映画監督のマルセル・カルネ氏から、パリに到着するとマスコミが私を(『天井桟敷の人々』ほか、フランス映画の巨匠)だった「日本のジルベール・ペコー」として新聞や雑誌に紹介してくれ、パリ・アンテールとユーロップ・ニュメロアンという放送局から私の歌が流れることになった。
なぜペコーなのかといえば、この年カルネ監督は彼を主役に映画『邁かなる国から来た男』を作ったばかりだったのだ。フランスはコネクションの国だとだれかが言っていたが、紹介者が大物だとこんなにうまくいくものかと、狐につままれた気分だった。
まずパリ・アンテールの 『五時のランデヴー』というラジオ番組では自分でピアノを弾きながら「枯葉」「リオの春」をフランス語で、そして 「さくらさくら」を日本語で歌った。そして、ユーロップ・ニュメロアンでは「フランスの日曜日」などを歌った。これらの出演などのあと、十一月十四日には思いもかけぬ幸運が訪れた。ユーロップ・ニ.ユメロアンのラジオ局が主催した公開録音で、あのシャンソンの殿堂オランピア劇場の舞台で歌えることになったからである。ラジオ番組のときのプロデューサーに気に入られたらしく、彼の推薦によるものらしい。そのときは、シャンソン「ビギヤール」の作者で歌手のジョルジュ・エルメールやギター弾き語りのロベール・リパ、自前の楽団でカンツォーネを歌うマリノ・マリーニも出演していた。詳細はプロローグに記したとおりである。


本邦初のポピュラーLPと東芝専属時代-4

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

3、初吹き込み・初渡仏

本邦初のポピュラーLPと東芝専属時代-4

演歌のクラウンとして 「北島三郎さん、水前寺清子さんをかかえている会社が、なぜ私に声をかけたのだろう」と思った。東芝との話し合いはクラウンからしてもらうことにし、伊藤社長の 「声野宏で新たにポピュラー路線を確立したい」とのたっての望みで、私は移籍することにした。
昭和五十三年から一〇年足らずの短い在籍であったが、多数のシングル盤やリサイタルのライヴ録音などを発売していただいた。そして昭和五十八年にはスタンダードなシャンソンをそろえ、タンゴやラテンも加えて、ファンの要望に応える、充実した二枚組LPを出していただいた。このLPは昭和六十三年にCD 『芦野宏の世界-私のシャンソン史-』 になり、今に続
く「ロングセラー」 となっている。
クラウンCD「芦野宏の世界一私のシャンソン史-」(1988)
(注)
CDが従来のアナログ・レコードにかわるべく、ソニーとフィリップスによって開発され、デジタル時代の開幕を告げたのは昭和五十七年 (一九八二)。
ペコー主演映画『遥かなる国から来た男』がパリで上映中だった。


本邦初のポピュラーLPと東芝専属時代-3

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

3、初吹き込み・初渡仏

本邦初のポピュラーLPと東芝専属時代-3

今になって、体がこんなに固くなってしまってから後悔しても仕方ないが、いくら歌の仕事が忙しくても、あのころからコーちゃんの忠告を守っていればよかったかなと思っている。コーちゃんは相手役というものに恵まれなかったが、それは彼女自身があまりにもずばぬけた個性をもちすぎていたからで、対等に相手役がつとまる日本人はついに現れなかった。

私が育った家庭は、親類縁者に一人も芸能人がいなかったせいか、私が好きな音楽の勉強をしても、それは芸大の教授になるのが目的だと思われていた。母は自らヴァイオリンやピアノを弾く女性だったから理解はあったものの、歌ったり踊ったりされるのは好まなかっただろうと思う。自分の心の中にも、そんな母の気持ちが住んでいたにちがいない。だからクラシックを捨てても、「あくまで歌ひとすじにゆかなければ」という思いがあったのは確かだ。
東芝レコードで、自分のやりたい曲を歌わせてもらえる立場にあったとき、私は昔の懐かしい歌を歌わせてもらうことにした。『懐かしの唱歌集』がそれである。第一集は長洲忠彦編曲・指揮の東芝レコーディング・オーケストラの伴奏で、第二集はA面を中村八大モダン・トリオ、B面を平岡精二クインテットの伴奏で、それぞれアレンジも彼らの若い感性に任せて私は歌った。幼いころ、母がピアノを弾きながら歌ってくれた「埴生の宿」や「庭の千草」などをレコードにしたかった気持ちがどこかにあったのだろう。これらの古い懐かしい曲の数々は、その後改めて東芝レコードでLP『ふるさとの歌』として録音され、売り出された。
菊池推城氏のマネージメントにより、私は東芝レコード時代、シャンソンだけでなく愛唱歌集など、ほんとうに良い仕事をさせていただき、今でもありがたく思っている。昭和五十二年には会社(東芝EMI、昭和四十八年改称)から長年のレコーディング活動に対してゴールデンディスク賞をいただいた。
たいへんお世話になった東芝EMIから離れて、クラウン・レコード(現・日本クラウン)に移籍するようになったのは、私の初代マネージャーとして活躍してくれた菊池維城氏と、大恩人である石坂範一郎氏が相次いで他界され、しだいにご緑が薄くなっていったからである。
ある日、伊藤さんという方から電話があった。「私は昔コロムビア・レコードにいて、芦野さんのお宅に伺ったことがあります。覚えていますか」というのである。若いころコロムビアで、私と越路吹雪さんのデュエット盤の制作などに携わっておられた方である。その方は今、クラウン・レコードの実力派社長として有名な伊藤正憲氏だったのである。


 本邦初のポピュラーLPと東芝専属時代-2

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

3、初吹き込み・初渡仏

本邦初のポピュラーLPと東芝専属時代-2

続いて出したシャンソンのLP『シャンソン・ヒット集』ぁたりからしだいに売れるようになり、やはり芦野宏にはシャンソンが似合うといわれるようになった。なかでも、すぎやまこういち氏が編曲して、担当ディレクターの渋谷森久氏が制作してくださった『パリの休日』には度肝をぬかれた。スタジオに入ると、なんと楽団が入りきれなくて廊下まであふれている。
通常のスタジオでは間に合わないくらいメンバーを集め、予算をふんだんに使って、素晴らしい音を作ってくださった。「パリ野郎」などは、パリのざわめきを取り入れたりしてじつに凝った演出である。また、『シャンソンのこころ』と題したLPも、小谷充氏の編曲がすてきで、しっとりとしたアットホームな味わいがファンからも大好評だった。
越路吹雪さんのレコードが売れはじめたのもこのころで、それまでは越路さんはステージの人で、レコード向きではないなどと東芝の内部でもささやかれていたものである。越路さんとは、私がデビューしてまもなく日劇の舞台でご一緒してから、昭和三十年か三十一年に日本コロムビアで 「モア・モア」をデュエットで吹き込みさせていただいた仲であった。彼女のように、語りの味を出せる歌手がほかにいないからということで、私が相手役に抜擢されたのであった。
越路さんも、ともに東芝レコード専属の第一号になったが、毎年レコード会社の出すカレンダーでは十二月のページで私と彼女は顔を合わせた。七夕さまみたいに、一年に一度しかお会いしませんねと、お互いに昔(~)を懐かしがったが、越路さんも私も仕事が忙しくて、前のように二人でデュエットすることがなく、東芝では一曲も吹き込まなかった。そのころ、コーち
ゃん (越路さん) は、私と会うたびに 「ねえ、ステージ・ダンスやりなさいよ」と言ってすすめてくださった。


本邦初のポピュラーLPと東芝専属時代-1

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

3、初吹き込み・初渡仏

本邦初のポピュラーLPと東芝専属時代-1

私の初めてのLPレコードは、それから二年ほどたって昭和三十二、三十三年に吹き込まれて発売された。ウエストミンスターという会社で、それまでLPはクラシックだけを扱っていたのだが、わが国としても初めてポピュラー(シャンソン)をLPとして出すことになったのである。
菊池維城氏はもともとクラシック音楽のマネージメントを専門にしていた人だったから、そのへんからこのLP吹き込みの話が持ち込まれたのではないかと思っている。編曲・指揮は片山光侵さん、ピアノは浜中外代治さんで、「メケ・メケ」「風船売り」「ラ・メール」「パリ祭」などを入れた。じつは、これが日本人のポピュラー歌手としては最初のLPレコードだったことはあとから聞いたことで、このあとも「初めて」の記録がい1っかあるが、とても光栄に思っている。

束芝のレコード事業部が束芝音楽工業〈昭和三↑五年設主として発足する前に、専属タレントを選考し、第一に候補に挙がったのが芦野宏だったと、あとで菊池推城氏から聞いた。東芝は以前からエンジェル・レコードのレーベルで、フランスのシャンソン歌手を紹介していたので、邦人では越路吹雪と芦野宏がほしかったのだということである。専属契紆は昭和三十四年に結んだ。
当時、石坂泰三氏完・東芝社長、経団連会長〉の甥にあたる石坂範一郎氏(元・東芝音工専務)が洋楽部門を担当しておられたが、石坂氏は外国語に堪能で、何度も海外旅行をされて直接欧米のレコード会社と交渉されていた方であった。私は石坂氏と会って、束芝レコードでの最初の一枚のLPをなににするかを相談した。
石坂氏は、すでにウエストミンスターからシャンソンのLPが二枚出ていることを考慮して、私の東芝での第一弾はカンツォーネのLPにしようと提案された。曲目は「ゴンドリエ」「コメ・プリマ」「ルナ・ロッサ」「ヴォラーレ」などで、タイトルはいろいろ二人で考えたすえ、『唄はゴンドラとともに』と決まり、まもなく期待をもって発売された。しかし、放送やコンサートなどで好評だったシャンソンを入れなかったので、思ったほどは売れなかった。


三社競作のSPレコード-2

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

3、初吹き込み・初渡仏

三社競作のSPレコード-2

それで松井先生はわかってはくれたが、レコード吹き込みのほうは頑として譲歩しなかった。
結局、菊池氏が仲に立って、いずれもSP盤でマーキュリーから「小雨降る径」「ドミノ」、ビクターから「マドロスの唄」「パリの空の下」、コロムビアから「プンプンポルカ」「ばらのエレジー」と各社それぞれ二曲を昭和二十九年に録音、翌三十年二月に同時発売し、芦野宏はいずれの会社とも専属契約を結ばないということを宣言した。こうしたかたちで発売されたレコードは、どの会社もあまり力を入れなかったので、大して売れなかった。ただし、サトウハチロー作詞・高木東六作曲の1プンプンポルカ」だけは相当売れたらしく、漫才や落語のネタにまでなり、やがてNHK『みんなのうた』にも選定されて現在も歌われている。
ほかにコロムビアからは服部良一先生の作品などが発売された。
その「プンプンポルカ」は、こんなふうにして生まれた。私が学校を出てしばらくして、シャンソンを歌うようになってからまもなく、初めて地方の演奏旅行に行ったときのことである。
新聞社主催の『フランス文化とシャンソン』と題する催し物で、仏文学者・辰野隆先生の講演のあと、私がいくつかのシャンソンを歌うことになっていた。伴奏は高木東六先生で、まだ駆け出しの私としては、辰野、高木両先生の間に交じって出演できる喜びよりも、むしろ恐ろしさと緊張でブルブル震えていたような記憶しか残っていない。
帰りの車中で、高木先生と差し向かいの席をとった私は、思いがけない発言を先生からいただいて、旅の疲れなんかいっペんに吹き飛んでしまうほど興奮した。辰野先生が昨夜初めてシャンソンを聴いて、たいへんほめてくださったこと。そして高木先生も私のシャンソンから、なにか率直な呼びかけを感じられて、急に私のために新しい曲を作曲してくださるということだったのである。高木先生の待った鉛筆の太い芯が、五線紙に楽しい模様を描いていき、やがてこれが私の初めての日本の歌「プンプンポルカ」になったのである。


三社競作のSPレコード-1

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

3、初吹き込み・初渡仏

三社競作のSPレコード-1

芸大在学中から始めて卒業後まで、自分の意思で自分の声を確かめるために歌った粗末なレコード吹き込みが、私の初めてのレコーディングであったとすれば、昭和二十九年(一九五四)、日劇『夏のおどり』に出演中、菊池マネージャーを通して申し込みを受けたレコード会社からの正式な要請は、商業ベースに乗せる最初のものになるはすのものであった。日劇で歌った「ラ・メール」と「フラメンコ・ド・パリ」がかなりな人気を呼んで、当時レコード各社
が「声野宏争奪戦」を繰り広げたといわれた。そのころ、仕事が急激に増えてきた私は、とても自分一人ではさばききれなかったので、すべてのことを菊池氏に一任してしまった。芸能人には必ずマネージャⅠというものが付いているが、個人ではとても難しいことを痛感させられたのもこのころである。
マーキュリー・レコードの風祭清隆氏から最初に吹き込みの申し込みを受けたが、高木東六先生も私を日本コロムビアに推薦中であった。そこへ日本ビクターでぜひというメッセージを、松井八郎先生から直接いただいたのである。私は率直に「じつはほかのレコード会社からも申し込みがあるので、だめです」と言って帰ってきた。ところが、このひと言が先生のプライドを傷つけ、逆鱗にふれてしまったのである。ジャズ・ピアニストで作曲家、越路吹雪の名伴奏としてトップにある「松井八郎」がビクターという超一流の会社を紹介したのに、あいつはこれを足蹴にした、というわけである。
学校を出てまもない、世間知らずの私であった。束宝関係の人から、先生が自分の顔をつぶ、れたといって怒っていると聞き、なぜなのかわからなかった。芸能界は正直にストレートに物を言えないところだといって慰めてくれる人もいたが、私はなにも悪いことをしていないのに……と残念だった。
そんな私を理解してくれたのが菊池維城氏だった。「とにかく謝りに行って、正直に自分の立場を芦野さんから話せばわかってくれますよ」と言ってくれた。私は松井先生の好物と聞いているブランデーを一本持って謝罪に行った。そして、ほかのレコード会社からぜひとも専属にと誘われている話もした。自分がほんとうに困った立場に置かれていることを話したのである。


三社競作のSPレコード-1

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

3、初吹き込み・初渡仏

三社競作のSPレコード-1

芸大在学中から始めて卒業後まで、自分の意思で自分の声を確かめるために歌った粗末なレコード吹き込みが、私の初めてのレコーディングであったとすれば、昭和二十九年(一九五四)、日劇『夏のおどり』に出演中、菊池マネージャーを通して申し込みを受けたレコード会社からの正式な要請は、商業ベースに乗せる最初のものになるはすのものであった。日劇で歌った「ラ・メール」と「フラメンコ・ド・パリ」がかなりな人気を呼んで、当時レコード各社
が「声野宏争奪戦」を繰り広げたといわれた。そのころ、仕事が急激に増えてきた私は、とても自分一人ではさばききれなかったので、すべてのことを菊池氏に一任してしまった。芸能人には必ずマネージャⅠというものが付いているが、個人ではとても難しいことを痛感させられたのもこのころである。
マーキュリー・レコードの風祭清隆氏から最初に吹き込みの申し込みを受けたが、高木東六先生も私を日本コロムビアに推薦中であった。そこへ日本ビクターでぜひというメッセージを、松井八郎先生から直接いただいたのである。私は率直に「じつはほかのレコード会社からも申し込みがあるので、だめです」と言って帰ってきた。ところが、このひと言が先生のプライドを傷つけ、逆鱗にふれてしまったのである。ジャズ・ピアニストで作曲家、越路吹雪の名伴奏としてトップにある「松井八郎」がビクターという超一流の会社を紹介したのに、あいつはこれを足蹴にした、というわけである。
学校を出てまもない、世間知らずの私であった。束宝関係の人から、先生が自分の顔をつぶ、れたといって怒っていると聞き、なぜなのかわからなかった。芸能界は正直にストレートに物を言えないところだといって慰めてくれる人もいたが、私はなにも悪いことをしていないのに……と残念だった。
そんな私を理解してくれたのが菊池維城氏だった。「とにかく謝りに行って、正直に自分の立場を芦野さんから話せばわかってくれますよ」と言ってくれた。私は松井先生の好物と聞いているブランデーを一本持って謝罪に行った。そして、ほかのレコード会社からぜひとも専属にと誘われている話もした。自分がほんとうに困った立場に置かれていることを話したのである。


冬の北海道-4

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

2、旅から旅へ

冬の北海道-4

これは雪の北海道を巡演しているとき、公演地を確認しながら地図を広げて見ているうちに、ふと思いつき書きとめた詩である。地図を広げると大きなハンカチのように見える図形の北海道は、私に青春のいろいろな思い出をもたらしてくれた。
たあいもない、お粗末なものだが、私はこれを舞台から客席に向かい歌詞の一部を即興で歌った。楽団が適当に伴奏を付けてくれた。地名は帯広になったり釧路になったり小樽になったり、公演する地名を入れ替えるのである。プログラムには載せないでおいたから記録にはないのだが、私の古い日記帳のメモが思い出させてくれた。
なにしろ鈍行の列車を乗り継いで巡演するのだから、たいへんというより退屈なのである。
読書にも飽きてトランプ、花札をやりだすメンバーもいたが、、そのうちマージャンを車中でやることを覚え、四人掛けの椅子の中央にだれかが作ってきた二つ折りの板を置き、ゲームをしながら旅を続けるようになった。
目的地に到着すると中断して、続きは旅館のほうでやる。夜の公演が終わると、またその続きを夜中までやる。こんなふうにして、私の地方公演はマージャンとともに移動する習慣がついてしまった。知らず知らずのうちに、この私自身も見よう見まねでルールを覚え、マージャンの腕を磨くようになった。でも、いまだに点数は数えられないという素人である。
三社競作のSPレコード 芸大在学中から始めて卒業後まで、自分の意思で自分の声を確かめるために歌った粗末なレコード吹き込みが、私の初めてのレコーディングであったとすれば、昭和二十九年(一九五四)、日劇『夏のおどり』に出演中、菊池マネージャーを通して申し込みを受けたレコード会社からの正式な要請は、商業ベースに乗せる最初のものになるはすのものであった。日劇で歌った「ラ・メール」と「フラメンコ・ド・パリ」がかなりな人気を呼んで、当時レコード各社
が「声野宏争奪戦」を繰り広げたといわれた。そのころ、仕事が急激に増えてきた私は、とても自分一人ではさばききれなかったので、すべてのことを菊池氏に一任してしまった。芸能人には必ずマネージャⅠというものが付いているが、個人ではとても難しいことを痛感させられたのもこのころである。


冬の北海道-3

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

2、旅から旅へ

冬の北海道-3

北海道をくまなく旅して感じたことは、人情が浮く、心からもてなしてくれることである。
もちろん、日本全国どこへ行っても厚い歓待の心で迎えられたが、北海道だけはひと味違っている。本州と海を隔てるだけでこんなに違うものだろうか。大都会の札幌でも、本州にいちばん近い函館でも、ひとたび海を渡ると人情が違ってくるのだ。
沖縄は那覇で数回、奄美の名瀬でも二回ほどコンサートを持ったが、南の島で受ける聴衆の反応は大きく燃え上がってあとを引かない。ところが、北国の人たちの反応は大げさでないのに、ずしんと心に響くのだ。そして、いつまでも心に残る。
北海道は初夏のラベンダー畑を見たり、夏の涼しい旅をしたこともある。春のマロニエも美しい。しかし、やっぱり北海道は冬がいちばんよい。一面の銀世界のなかで、心が洗われるような感動をおぼえ、地元の人たちとストーブを囲みながら話し合っているとき、なにか不思議と心の世界が見えてくるような気がする。

「雪の北海道」

北海道はハンカチだ
すずらん包んでひろげたら
ほのかなゆめが広がった
網走あたりは雪どけで
横丁の露地はどろだらけ
それでもすてきな北海道

北海道はハンカチだ
今年も冬がやってきて
雪がチラチラ降り出すと
十勝平野は銀世界
白一色のキャンバスに
すてきな夢を描きたい


冬の北海道-2

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

2、旅から旅へ

冬の北海道-2

冬の北海道は寒い寒いと文句を言いながら、それでも三回ほどアンコールに応えてコンサート旅行をした。寒くてもなんでも、地元の熱烈な会員から要望されると、私たち歌手は弱いのである。直接、手紙をいただくこともあるが、事務所を通して束になったファンレターを見せられ、私の心は動いた。
北海道も日本海を南に下って奥尻島あたりまで来ると、だいぶ気温も上がって冬でもストーブを置かないところがある。初めて雪の北海道を旅したとき、一〇日日あたりに江差という町でコンサートがあった。二月の中旬だからいちばん寒い季節であるのに、会場には暖房設備がなかった。ストーブがどこにも見当たらず、楽屋に大きな火鉢が一個、舞台にはピアノの足元
に小さな練炭火鉢が一個、置いてあるだけである。ちょっとびっくりしたが、このへんは北海道ではいちばん温暖なところだということであった。あれは四〇年くらい前の出来事だったか
ら、現在はまったく違ってきていることであろう。
その後も北海道へは季節を問わず、何十回となく訪れている。とある小さな町でコンサートを開催したときのこと、練習が終わって本番まで約二時間の休みがあったので街へ出てみた。
ちょっとコーヒーでもと思って探したが、この街には喫茶店というものがなく、食堂はうどん屋さんだけしかなかった。楽屋に戻ると手作りの甘酒が出されたりして、心温まる休息をとることができた。
遠くはるばる東京から訪れる私たちは、どこへ行っても歓待された。コンサートが終わって地元の有志と座談会がもたれ、それが労音の機関誌に載るのだが、出席者の熱気にあふれた表情、発言、態度、シャンソンというものを初めてじかに聴いた感動の波動みたいなものが私の胸にも伝わって、「どんなに苦労しても、また来てあげよう」という気持ちになってしまう。
労音会員の熱意が、私の心を動かし、全国津々浦々、渡し船でしか行かれない孤島までも歌いに行った経験は、私にとって忘れることのできない大きな財産なのである。


 冬の北海道-1

 

 幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

2、旅から旅へ

冬の北海道-1

夏の九州公演が終わると、数年後の二月、いちばん寒いときに北海道の仕事がきた。寒いのが苦手な私は二の足を踏んだが、菊池音楽事務所の専務であった安井直康氏のたっての要請で引き受けることにした。「北海道は完全暖房だから室内が暖かくて、うすら寒い東京よりはずっと快適ですよ」という甘言にのせられて、二月の初めから約二週間にわたる労音のコンサー
トが始まった。
最初の振り出しは岩見沢であった。函館本線で札幌から一時間足らずのところにあり、素朴な北国の街であったが、ここは雪が深くて最初の出発から驚きの連続であった。寒いことは覚悟のうえだったが、雪の深さには閉口した。雪のために車道が狭くなり、すぐ近くの会場までたどり着くのにたいへんな苦労をしなければならなかったからである。
日程が進んで旭川から宗谷本線に乗り換え、士別・名寄の方面に向かうと寒さは一段と厳しくなり、もちろん雪景色には変わりないのだが、雪の質が函館あたりとはまったく違ってくる。
積雪量は少ないのだが、気温が零下二〇度くらいまで下がるので空気が乾燥しているような感じがする。士別の会場には大きを円筒形の石炭ストーブがあり、超満員の客の人いきれでいくらか寒さは緩和されていたが、宿に帰ると、水道の蛇口が凍結して風呂にも入れない状態であった。水のほしい人は台所にある汲み置きの水を飲むより仕方なかった。
旅館ではいつも私は単独の一人部屋に決まっていたから、床の間付きの八畳間が与えられ、楽団の皆さんはだいたい二人ないし三人が一緒の部屋であった。その夜、士別の気温は零下一四度ということだったが、部屋の中央に中型の「だるまストーブ」が一つ置かれていた。一晩じゅう焚き続けているにもかかわらず、部屋は一向に暖まらず、ストーブの周囲、約一メート
ルくらいが暖かいだけである。だから、ストーブのほうを向けば顔は暖かいが、背中はスース
ーと寒い。ストーブに背を向ければ鼻の先が冷たくて、マスクをし毛布を頭からかぶって寝るよりほかなかった。
そんなわけで、北海道は東京より暖かいと言われて旅に出た私は、東京の事務所で留守番をしている安井氏をうらんで電話をかけたこともあった。そんなとき、いつも行動をともにして
苦労を分かち合ったのは、田中宏和さんであった。しかし、寒いからといって、これ以上どう
することもできず、文句を言いながら旅を続けなければならなかった。北海道も北の果てまで行ったが、稚内あたりに来ると、逆に名寄や士別より寒くないから不思議だ.


夏の九州-4

 

 幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

2、旅から旅へ

夏の九州-4

初めての九州旅行は最後が鹿児島であった。案内された旅館は「滴洲館」という名で、風通
しのよい部屋に通されたが、なぜ 「南洲館」 にしなかったのかなと、変な疑問をもちなから私
は名所旧跡を訪ねて歩いた。西郷南洲ゆかりの地である。桜島は目の前にあつて、手の届きそ
うな距離だった。島津庭園も深く印象に残り、やはりここまで来ればはるばるやってきたとい
う感慨がひとしおである。どこか異国情緒が漂っている。そうだ沖純にいちばん近い距離にあ
る、本州の南端なのだと思ったら、詩のなかにあの沖縄のメロディーが浮かんできた。

「南国薩摩の白餅」
詞 芦野 宏
曲 松井八郎


赤い爽竹桃の花影で
誰を待つやら待たすやら
南国薩摩の白餅
海の入陽が眼に恥みる

碧い海だよ 恋の海
遠く呼んでも 戻りやせぬ
南国薩摩の白餅
潮の息吹がなつかしい

可愛いエクボの 黒眼がち
恋を知るやら 知らぬやら
南国薩摩の白餅
紅いたすきが 眼にまぶし

長い旅だよ ここまでは
風の便りも 届きやせぬ
南国薩摩の白絣
遠いあの日の 夢を見て

一回目の夏の九州旅行で最終日を迎え、ホッとした気持ちがあったのだろうか、私は夜のコンサートが始まる前、海の見える丘の上で沖の夕陽を見ながら、一気にこの歌を書き上げた。
手元にあった楽譜の裏に鉛筆で走り書きしだものだが、帰京してから松井八郎先生のお宅に参上して、二人で創り上げた創作シリーズの第一作になった。


夏の九州-3

 幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

2、旅から旅へ

夏の九州-3

全国労音の例会でポピュラーのソロ歌手として年間最多出演の記録をもったこともある私は、久の九州公演、真冬の北海道の公演では何回もアンコールに応えている。なぜ夏は九州で、冬は北海道なのかよくわからなかったが、マネージャーの話によると、労音はもともとタラシソ/音楽で出発した団体なので、初めて取り上げるポピュラー例会を会場の空いている季節にもっていったらしい。
夏はだれでも涼しいところへ行きたいのが人情である。東京の日本劇場で『夏のおどり』のゲストとして一か月公演を終えて九月に入ったとき、記録的な猛暑が二、三日続いたことがある。日劇の地下の楽屋で冷房づけになり、地上に出ると、炎熱と排気ガスの洪水だった。夏の泉京はいやだ、少しでも涼しいところへ逃げたい、といつも思っていた。
だから翌年、初めて夏の九州一周の仕事を受けるときは、相当の覚悟を決めて出かけた。まず福岡から出発して久留米、熊本、八代と南下して鹿児島まで巡演するわけだが、そのとき夏の九州が快適であることを体験した。意外なことに東京よりずっと過ごしやすいことに気がついた。温度は少々高くても、湿度が低いのである。冷房や車の排気ガスで汚れた東京の空気より、どんなにおいしかったことか。しかし冷房の設備が整っている会場は数えるほどしかなく、冷房機はあっても完全冷房ではないから、むしろ扇風機のほうが活躍していた。
思い出に残る会場は、熊本市のSデパートのホールである。今でこそデパートは完全冷房であるが、そのころのホールは扇風機だけであった。陽が落ちて少し涼しくなったころから開演するのだが、照明のスポットが当たるから舞台の上は三〇度をはるかに超している。ピアノは浜中外代治さん。やせ型でひょろひょろっとした背の高い青年だったから、見た目には涼しげに映った。ベースの稲葉国光さんは体格もよく、太り気味だったから見るからに暑そうであった。
地方公演で予算がない場合はこの二人だけの伴奏で歌ったこともある。宣伝ビラには、「芦野宏来る、伴奏は浜中外代治とオーケストラ」と書かれていたことがあり、稲葉さんがでかい男だったから二人でも伴奏はオーケストラかと大笑いしたことであった。
その稲葉さんが立ってウッドベースを弾くと、床面にその体形そのままに汗の模様ができる。
暑いから水はガブガブ飲む。汗は滝のごとく流れて舞台の床に地図のようなシミができるのである。ネクタイなどはしていられないから半袖の白い開襟シャツ一枚でステージに出る。これ以上ぬぐことはできないが、一回のステージでシャツはずぶ濡れになる。楽屋に戻って扇風機で乾かし、また後半のステージに出るのだ。
私は中央に立って歌っているのだが、あまり大きな口をあけて歌うことはできない。なぜなら窓を開け放っているので、外から虫が飛んでくるのだ。蚊ぐらいなら我慢できるが、私の嫌いな蛾がスポットの当たっている私のまわりに集まってくるからだ。口をあけて大きな声で歌っているとき、蛾が口に飛び込んだ経験があって以来、用心して口は小さめにしてマイクに近づいて歌うことにしていた。
しかし、こちらでの初めてのシャンソン・リサイタルは大好評で、翌年もまた同じ会場で歌うことになった。相変わらず設備関係はまったく前年と同じで、私たちは大汗をかきながらアンコールに応えた。昭和三十四年と三十五年の夏だったと思う。その後、このデパートは火災にあったことが新聞で報じられ、あのホールも焼失したことを知った。


夏の九州-2

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

2、旅から旅へ

夏の九州-2

高知は四国のなかでもいちばん遠くて、今でこそ直行便が何本も飛んでいて不便も感じないが、そのころは東海道本線で岡山まで行き、宇野行きに乗り換えて、そこから高松まで連絡船に乗り、四国に着いてから海岸沿いに徳島まで出て、四国山脈を越えなければならなかった。八月の暑い日だったが、私たち一行は二日がかりで高知にたどり着いたことがある。まだジーゼルも走っていない時代で、トンネルをくぐるたびに煙が窓から流れ込んだが、冷房のきかない車両だったから、目的地に着いたら風呂に入って全身を洗わなければ、鼻の穴まで真っ黒にすすけている有様だった。しかし途中、トンネルを出るとき私たちはいっせいに歓声をあげた。目の前に有名な「大歩危(おおぼけ)」、「小歩危(こぼけ)」の名勝が広がって、清列な谷川が流れていたからである。なかなか見ることのできない絶景を見せてもらったわけである。
夕方になって、私たちは会場に案内されたが、それは体育館であった。ところが、どこを探してもピアノがない。私の伴奏はピアノ、ベース、ギター、アコーディオンの四人だった。仕方がないのでピアノ抜きでやろうと思ったのだが、開演三〇分前になってやっとアップライトのピアノが運ばれてきた。主催者側がピアノのことを忘れていたらしい。
こんなふうだから、体育館に集まった人たちもシャンソンを聴くのは初めての人ばかりであったが、反応と柏手は非常に大きかった。なにより終わってから素朴な旅館で供された新鮮な海の幸と、地元の人たちの温かい歓迎の気持ちが嬉しくて、それまでの苦労はいっペんに消えてしまった。         一
旅といえば、現在のようにスピードだけを追いかけて汽車弁当の楽しみも忘れてしまうのは、ほんとうに残念である。私は四〇年の間に、日本全国、津々浦々ほとんどの場所で歌っている。
~から駅弁の味も今となっては遠い思い出として残っているだけになってしまった。


夏の九州-1

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

2、旅から旅へ

夏の九州-1

あのころは名古屋まで行く仕事でさえ、ほとんど夜行列車であった。夜十一時四十八分の特急列車「いずも」が東京駅を出発するまで、時間をつぶすのに苦労した。八重洲口に近いシャンソン喫茶「ルフラン」も十一時で閉店になってしまうし、アルコールを一滴もたしなまない私は、バーやクラブに馴染みの店を持たない。
夜行寝台列車は早朝六時五十分ごろ名古屋に着いてしまうから、さっそく旅館に入り、わいていれば朝風呂を浴びて朝食をとる。マネージャーは九時ごろから楽譜を持って会場に先乗りして楽団と打ち合わせをする。少し遅れて楽屋入りする私も、音合わせがあるのでゆっくりはしていられない。開演時間より一時間前から客入れをするので、舞台稽古や衣装合わせ、照明との色合わせなどで時間はけっこう必要だ。開演午後二時として、一時までの間に昼食をとり支度を整える。
そろそろ楽屋にファンが押しかけはじめるころである。当時は、東京物理学校(現・東京理科大)を卒業したばかりの、菊池音楽事務所で私の担当である若い田中宏和さんが事務局長となって「芦の会」という後援会組織を作っていた。いわゆるファンクラブであるが、当初、全国にわずかながら支部があり、この会員にかぎり、優先的に楽屋訪問もできるというような、暗黙の特典があったので、「芦の会」の入会者もしだいに増えていった。
名古屋の公演といっても私の場合は一日だけだから、翌日はまた別の会場に移動する。主催者が同じだと、京都、大阪、神戸、姫路と順序よく移動できるのだが、とつぜん北海道や九州に飛んだりすることもある。もちろん、すでに飛行機は利用できたが、あのころはすべてプロペラ機でジェット機の倍以上時間がかかるし、なによりよく揺れるから、体調の悪いときは酔ったりするので困った。若かったし、やる気もあったから乗り越えることができたが、いま思えばよくやってきたものだと、われながら感無
量である。同時に、今では味わうことのできない経験をさせていただいたことに感謝するとともに、なかなか見ることのできない景観や、土地の名物料理、そのほか諸々の懐かしい思い出は宝物だと思い、心からありがたいと思っっている。


夏の九州-1

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

2、旅から旅へ

夏の九州-1

あのころは名古屋まで行く仕事でさえ、ほとんど夜行列車であった。夜十一時四十八分の特急列車「いずも」が東京駅を出発するまで、時間をつぶすのに苦労した。八重洲口に近いシャンソン喫茶「ルフラン」も十一時で閉店になってしまうし、アルコールを一滴もたしなまない私は、バーやクラブに馴染みの店を持たない。
夜行寝台列車は早朝六時五十分ごろ名古屋に着いてしまうから、さっそく旅館に入り、わいていれば朝風呂を浴びて朝食をとる。マネージャーは九時ごろから楽譜を持って会場に先乗りして楽団と打ち合わせをする。少し遅れて楽屋入りする私も、音合わせがあるのでゆっくりはしていられない。開演時間より一時間前から客入れをするので、舞台稽古や衣装合わせ、照明との色合わせなどで時間はけっこう必要だ。開演午後二時として、一時までの間に昼食をとり支度を整える。
そろそろ楽屋にファンが押しかけはじめるころである。当時は、東京物理学校(現・東京理科大)を卒業したばかりの、菊池音楽事務所で私の担当である若い田中宏和さんが事務局長となって「芦の会」という後援会組織を作っていた。いわゆるファンクラブであるが、当初、全国にわずかながら支部があり、この会員にかぎり、優先的に楽屋訪問もできるというような、暗黙の特典があったので、「芦の会」の入会者もしだいに増えていった。


大阪労音から全国各地の労音へ

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

2、旅から旅へ

大阪労音から全国各地の労音へ

 

ラ・メール 心をゆするしらべ
母の愛のように わが胸に歌うよ
(訳 薩摩 忠)

これは私のシャンソン・デビュー曲「ラ・メール」という歌の一節だが、菊池推城氏と約束して海の底に沈めた貴重な過去の経験から立ちのぼる、不思議な力がわき上がってくるような気がして、私は一日三回、三〇日間、初出演の日劇『夏のおどり』の舞台でこの歌を一生懸命歌い続けた。幸い、大好評であった。
その後、昭和三十年代に連続一〇回のNHK『紅白歌合戦』出場を果たしたのは、シャンソン界ではただ一人であり、この菊池維城氏と力を合わせてこそできたことであった。

2、旅から旅へ

大阪労音から全国各地の労音へ

大阪勤労者音楽協議会、略して大阪労音は昭和二十四年(一九四九)全国に先駆けて発足した音楽鑑賞団体である。例会は初期の数年クラシックのみであった。それが二十八年からポピュラー例会も組むようになり、私は初めの年の第五回『アルゼンチンの夕』 に出演した。そして三十一年三月には 『シャンソン・フェスティバル芦野宏・中原美紗緒』が四日間、三十二年には三月の 『芦野宏シャンソン・リサイタル』 が予定されると会員が急に増えて、予定の九ステージが十ニステージになり、連日、満席の盛況が続き、日曜日に昼夜二回と決まっていると「とつぜん前日になって明日三回歌ってほしいといわれ、びっくりしたことがあった。なんと会員の急増が三〇〇〇名を記録したというのだ。同年十月二十三、二十四日には『芦野宏とアンサンプル・ミュゼット』があり、会員から再演の要望が多く、しだいに公演回数が増えていった。
(注)
当時のスケジュールの一例を記述すると、大阪に次いで各地でもポピュラー例会が始まり、昭和三十一年の続きで大津、愛媛(松山)など、三十二年大阪(三月、十月)、仙台、北九州(小倉)、宇和島、愛媛(松山)など、三十三年名古屋、敦賀、東京、沼津、横浜、神戸など。三十四年の一年だけで一月に小田原で二日、二月に名古屋、三月に岐阜、岡崎、半甲五月に名古屋、六月に郡山二日、熊谷、そして大阪で六月未から七月に二二日間(昼夜二、三回もあり)、松本をはさみ、下旬に九州各地でと一か月以上連続でコンサートを続けている。同年の続きで八月に字都苧岡山各二日、十月に東京五日、京都六日、十一月に福島二日など、とある。
労音が最盛期に向かうころだったようだ。私も、ますます忙しくなっていた。それもなんとか乗り切って頑張れたのは、若さのせいと自分流の自然な発声法がようやく身についてきたからではないかと思っている。なにしろ大阪でのように二五曲ずつのワンマンショーを一日三回やったことがあり、司会者も前座の歌手もないリサイタルだから、客を入れ替える時間だけが楽屋で休める貴重な休憩であった。

 


NHK『紅白歌合戦』連続出場-5

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

1、ポピュラーの世界へ

NHK『紅白歌合戦』連続出場-5

芸能界にデビューして日劇の舞台を踏むとき、私にもマネージャーというものが必要になり、そのころぼつぼつ仕事を持ってきてくれた菊池音楽事務所に籍を置くことにした。社長の菊池維城氏は東大出身のクラシックマニアで主としてクラシックのコンサートをマネージメントしていたが、佐藤美子さん、高木東六先生(作曲家、ピアニスト)、葦原邦子さん(宝塚出身のシャンソン歌手)らのお世話をしている人で、業界では変わり種といわれていたが、温厚で誠実な人柄を信頼してお願いするこ
とにした。
その菊池氏の提案により、私は年齢を偽ることになる。
大正生まれと昭和生まれとでは、まったく世間の印象が違う。新人として出発するんだから、昭和にしましょう。昭和元年は大正十五年でややこしいから、昭和二年でいきましょう、ということになり、芸能年齢は三歳若く今日に至っている。東大出のユニークなマネージャーだった菊池氏を私は全面的に信頼していた。
「芦野さん、私も大嫌いな軍隊生活の一年間は密封しましょう。蝋で固めて海の底に沈めてしまいましょう」。それ以来、私は塀の中の生活をいっさい口にしないことにし、三歳若返った気持ちで歌い続けてきた。

ラ・メール 心をゆするしらべ
母の愛のように わが胸に歌うよ
(訳 薩摩 忠)
葦原邦子さんと私(日本女子大学、1956頃)葦原さんとの想い出は数限りなくある。ヤマハホールでのリサイタルで演出をお願いしたこと
もあるし、他のホールで共演したこともある。
これは「小さなひなげしのように」の舞台で、葦原さんの語りと私の弾き語りの場面である。
このステージのために飯田深雪先生が真紅のひなげしの花を作ってくださり、ピアノの上に置いて歌うのが習いとなった。
宝塚時代は「アニキ」というニックネームだったそうだが、私にとってもアニキのような存在だった。舞台化粧のやり方からステージでの動き方まで指導していただき、ほんとうにお世話になったものである。


Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

1、ポピュラーの世界へ

日比谷の巴里祭とデビユー秘話-1

昭和三十一年(一九五六) にさかのぼって七月十四日には、相原音楽事務所の社長さんから頼まれ、日比谷の野外音楽堂で 『巴里祭シャンソンの夕』 と銘打ってワンマンショーを開き、夜の星空の下でシャンソンを一人で歌った。ファンの要望に応えるため、翌十五日にもアンコール巴里祭として山菜ホールに会場を移して催した。聴衆は合わせて数千人ともいわれ、こん
なふうによく客が入ったので、昭和三十六年まで続けた。相原事務所では巴里祭以外のコンサートも催してくれたが、石井音楽事務所がその年に設立され、昭和三十八年から『パリ祭』としてシャンソン界あげての祭典を企画して、複数の歌手を出演させるようになったので、私もそちらに参加して、昭和三十九年から相原さんの企画は辞退することになった。
(注)
芦野天下のパリ祭(内外タイムス、昭和三十一年七月十四日)
「ことしのパリ祭は、渡仏を九月にひかえて、いまや人気上昇の一途をたどる芦野宏にすっかりさらわれてしまいそうだ。せんだって行われた五日間連続リサイタルの余勢をかって十四、十五の両日、パリ祭シャンソンの夕が開かれる。初日は『パリ祭』『パリの屋根の下』等ごくポピュラーなシャンソン、翌日は『和製シャンソン』中心で、作詞に野上彰、作曲に宅孝二、寺島尚彦等の協力を得ている。…・:
都内の主なプレイガイドを一巡して前売り景気をさぐつてみると、予想どおり芦野の野外リサイタルが一番切符の出が小いようだ。一夜シャンソンをじっくり楽しもうというようなアベック組が多いとのこと」東京の空の下シャンソンは流れる(アサヒ芸能新聞、昭和三十一年七月十四日)
「後楽園遊園地では、NDC(日本デザイナークラブ)ほかの主催で『野外大巴里祭』がはなばなし く開かれた。……祭りの委員長は早川雪洲さんで、祭主は石黒敬七さん、演出はピアニストで作曲家の高木束六さんの面々である。正面入口には巨大なエッフェル塔が建ち、会場からはふんだんにシャンソ ンが流れ、この夜のために集まった約三千人近い人々が雰囲気をもりあげた。……同じ時刻、銀座の山菜ホールでは、シャンソン評論家・産原英了氏を中心に『ベル・エポックのシャンソン』研究会が開か
れ、座席をぎっしりうめた聴衆は、最新版のLPレコードを産原さんの解説でしんみりと聞きいっていた」


NHK『紅白歌合戦』連続出場-3

 

幸福を売る男

       芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

1、ポピュラーの世界へ

 

マネージャーや付き人は用事のないかぎり廊下に出ていて、声がかからなければ部屋に入ってこない。なにしろ今をときめく日本の大スターが一堂に集まるのだから、たいへんなのである。いつもテレビでしか見たことのないスターたちを目の当たりにすると、意外なことが発見される。もっと大きな方かと思っていたのに、三橋美智也さん、橋幸夫さん、三波春夫さんた
ちは意外と小柄なのでびっくりした。和田アキ子さんや小林幸子さんはテレビで見ても背が高いことがわかるが、美空ひばりさんは小柄である。ひばりさんは黙っているときは、お高く止まっているようで取っつきにくいが、一度喋りだすと、まったく気さくな、気のおけないお人柄が見えてくる。
紅白のとき、ほかのショーと違うことは、本番を終わった歌手たちが動員されて応援団にまわされることである。これはその時によって違うが、必ずなにかさせられるから覚悟していなければならない。私がシャンソン界から一〇年連続で出演していたころを思い出しながら、今の紅白をお茶の間で見ていると、根本的にはその意図するところは変わっていないようである。
年に一度のお祭り騒ぎということであろう。紅白が終わって帰りの車の中で除夜の鐘を聴き、家に帰って温かいお風呂に入り、ホッとしたあの気持ちを今でも昨日のことのように思い出すのである。
昭和三十八年(一九六三) に出演したときの映像がNHKに保存されていて、再放映もされ
たが、当時お若かったクレージーキャッツの谷啓さんが子供役となり、私の歌う「パパと踊ろ
うよ」 のなかでおもしろおかしくお相手をしてくださっている。これは日本シャンソン館のビ
デオルームで上映されている『声野宏・シャンソンと共に歩む』のなかにも収録され、どなたにも見ていただけるようになっている。                      、


NHK『紅白歌合戦』連続出場-2

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

1、ポピュラーの世界へ

NHK『紅白歌合戦』連続出場-2

ところで、NHK『紅白歌合戦』に出場するということは、一流の歌手と認められたことを意味して、たいへん光栄に思うとともに、知名度がさらに高まることであり、翌年の正月番組からは前年以上におびただしい出演依頼が殺到して悲鳴をあげた。この年(昭和三十一年)の暮れ、続いて紅白の出演が決まったことを、私は外遊先のインドで知った。初めてのパリ訪問の帰途、カルカッタでコンサートをして、それが終わって楽屋へ戻ったとき、兄から一過の電報を受け取った。菊池維城さん(マネージャ⊥からで†紅白出演、決まりました。相手は越路吹雪さん、オメデトウ」とあった。
この二回目の紅白出演で、私は憧れの大先輩・越路吹雪さんと対抗出演することになったのだ。歌ったのは二人ともシャンソンで、越路さんは「哀れなジャン」、私は「ドミノた である。
この年のトリ(最後を飾る出演者)は笠置シズ子さんの 「ヘイ・ヘイ・ブギ」 であった。笠置さんはこのあと紅白には出ていない。
(注)
昭和三十二年(一九五七)、第八回NHK『紅白歌合戟』芦野宏は三度日の出演、再び江利チエミと対 抗、ジルベール・ペコーの「メケ・メケ」を歌った。二回目出演の美空ひばりはトリで「長崎の蝶々さん」を歌っている。男性側のトリは三橋美智也。
昭和三十三年、帰国した石井好子の対抗者として、ペコーの 「風船売り」を歌う。
昭和三十四年、出場五回目の芦野は四回目の中原美紗緒を相手に、世界のヒット・カンツォーネ「チャオ・チャオ・バンビーナ」を歌ったD美空ひばりは相変わらず紅白のトリを取っていた。司会は紅組が中村メイコにかわり、白組は続投中の高橋圭三。
紅白歌合戦の舞台裏はいつもたいへんな混雑であった。紅組の楽屋は衣装などが大きいから、もっとたいへんだろうと想像しているが、白組のほうもマネージャーと付き人が一人ずついるから部屋はごった返している。化粧前(鏡台のこと)は年功序列で奥のほうから詰めてくるわけで、入口にいちばん近いところは若手になる。先輩に対する挨拶はとくに厳しくて、お茶一杯でも、まず先輩が先に手をつけてからである。だれがこうしろと教えるわけでもないし、注意するわけでもないのに、みな心得ていてルール、マナーは暗黙のうちに守られているのだった。


NHK『紅白歌合戦』連続出場-1

1、ポピュラーの世界へ

NHK『紅白歌合戦』連続出場-1

めまぐるしく過ぎた昭和三十年(一九五五)も余すところわずかとなった十二月下旬のある日、前日に決まったらしいNHK 『紅白歌合戦』出演の話がとつぜん舞い込んできた。このころ年末に定着していた、恒例の行事も六回目を迎えており、徐々に人気が出はじめて、視聴率もウナギのぼりになっていた。
紅組・江利チエミさんの白組・対戦者として予定されていた、アメリカ人歌手が急にあちらでの仕事が延びたので日本に戻れなくなり、急きょ私に代わりに出てほしいという話だった。
そのころ人気絶頂だったチエミさんに対抗するのはちょっと気がひけたが、NHKからは丁重なご挨拶をいただいて、曲目は何でもいいからということなので出演することにした。まだシャンソンはレパートリーも少なかったし、紅白で歌うには地味だとも思ったので、進駐軍のキャンプでよく歌っていて、デビュー以前から歌いなれていたラテンの名曲「タブー」を選んだ。
しかし、この曲の強烈なラテンの色は出せず、むしろ静かな哀愁を感じさせるメキシコ民謡になってし、まった。
NHKでは年に一度のお祭り騒ぎということで、クラシックからは 「われらのテナー」藤原義江のほか、長門美保、柴田睦陸、大谷刺子(きよこ)、ジャズ畑から笈田敏夫、ぺギ一葉山、歌謡曲の東海林太郎、小唄勝太郎など、そして江利チエミに対抗して芦野宏が初めて選ばれたわけだから、デビューして日の浅い者にとってはたいへん名誉なことであった。司会は看板アナウンサー宮田輝、高橋圭三のお二人で、トリを取ったのは藤山一郎、二葉あき子であった。
クラシックからのおひと方、柴田睦陸先生は卒業以来ご無沙汰していた芸大の恩師である。
先生は「ラ・タンパルシータ」を完壁なスペイン語で、非の打ちどころのない発声で、タンゴのリズムに来って歌い上げられた。ごった返す楽屋の中で、私は先生にご無沙汰のお詫びを申し上げ、フランスのシャンソンをいま勉強していることを報告した。先生は「芦野君、よかったね。頑張りなさい」と励ましてくださった。
柴田先生は昭和六十三年(一九八八)、私が声楽のレッスンに通った成城のお宅で亡くなられた。私が学生のころ、絨毯の上に仰向けに寝かされ、重い本を腹の上にのせて腹式呼吸のやり方を教わった、そのあたりに先生の棺が置かれていた。私はだれとも話さなかった。胸がつまって声が出なかった。


シャンソン・ブーム -2

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

1、ポピュラーの世界へ

シャンソン・ブーム -2

私はデビュー当時、シャルル・トレネ(作詞作曲家、大歌手) に傾倒し、現在もなお崇拝しているが、イヴェット・ジローと出会ってから、さらにシャンソンに対する認識が深まり広がった。ダミアやエディット・ピアフ (今世紀最高、不世出の大歌手) を知って、シャンソン・レアリスト(現実的シャンソン)の偉大さは認めるが、自分の個性とは違っていることがわかっていたし、ティノ・ロッシ(1小雨降る径」ほか)や「聞かせてよ愛の言葉を」を歌うリユシュンヌ・ボワイエの甘さ、美しさにも魅了されたが、ジローが客に対して理解させようとする、努力を惜しまない、しぶとい芸能人根性は、若かった私の音楽人生に大きな影響を与えた。

私のレパートリーは、そのころから急速に増えはじめている。もともとアンドレ・クラヴォーの1パパと踊ろうよ」やトレネの「カナダ旅行」などを歌っていたが、ジローの「パパはママが好き」や「小さな靴屋さん」は子供たちに歌って聴かせるようなシャンソンだったし、彼女の大ヒット曲「あとさい娘」もおとぎ話の世界である。
シャンソン歌手は自分の個性をいちばん大切にしなければならないが、ジローの歌には温かい人柄がにじんでいて素晴らしいと思う。ジローさんとの交流は、その後もずっと続いて昭和五十七年(一九八二)、私の第一回の日仏親善パリ・コンサートにも来ていただいたが、その翌年ホテル・ムーリスで行った第二回のパリ・うンサートには、彼女が住んでいる南フランスールからピアノ伴奏のご主人マルク・エランさんと、わざわざとんで釆てゲスト出演してくださった。
彼女は親日家、そして勉強家で日本の歌をフランス語に訳して歌うことも試みているが、一緒に地方講演に出掛けたときは、私に似合うシャンソンを選んでくれたりする親切心もあり、私の音楽人生のなかでは恩人の一人だと思っている。平成八年(一九九六)十二月「日本シャンソン館」で彼女の八十歳を記念する引退公演が行われ、全国各地から集まったファンたちは別れを惜しんで感動にむせび泣いた。


シャンソン・ブーム -1

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

1、ポピュラーの世界へ

シャンソン・ブーム -1                         ー

ダミアの来日以来、日本にもシャンソン・ブームがわき起こり、日本人シャンソン歌手も脚光を浴びることになる。民放では、派谷のり子、越路吹雪、高英男、そして芦野宏も仲間入りして、ほとんど毎週シャンソンが歌われるようになった。
そして昭和三十年(一九五五)、イヴェット・ジローが来日して山菜ホールで一日だけのコンサートを開いて、さらにシャンソン・ブームをかき立てた。その少し前、石井さんもパリで活躍しているという噂が広まり、ますますシャンソン熱は高まる一方であった。
(注)
「シャンソン・ブーム到来」 の記事(森田潤)が挙げているシャンソン流行の現状
1 東芝レコードを主とした本場歌手のレコードがすごい売れ行き。
2 ニッポン放送が月・火・水に 『シャンソン・アワー』 『私の選曲』 『パリの街角㌔ ほかに『シャンソン・ド・パリ』(短波)、『パリ・東京ニーユーヨーク』 (ラジオ東京)。そして、各局ともシャンソンが音楽番組の二五~三〇%を占めている。
3 葦原英了のレコード・コンサートが毎週、山菜ホールで新曲解説、毎回満席。
4 日劇、国際劇場がシャンソンをどしどし組み込んで、大盛況。
本文の記述を引用で補うと「……ビショップ節子、中原美紗緒、深緑夏代といった歌手はショー、放送に引っ張りタコで、うれしい悲鳴をあげている。なかでも芦野は五月に五日間連続のリサイタルを開いて気炎をあげるなど……」(東京中日新聞、昭和三十一年七月十四日)。
また、アサヒ芸能新聞(右同日) も、中見出しに「シャンソン・ブーム到来か」として、各樺パリ祭(一一一ページ (注)参照)のほか、都内に「銀巴里」はじめシャンソン喫茶が出はtめたことなどを報じている。(参考・シャン、十字路、ジロー、ラ・セーヌ)


日劇出演と第一回リサイタル-5

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

1、ポピュラーの世界へ

日劇出演と第一回リサイタル-5

日劇出演の間をぬって、私は昭和三十一年四月から五月にかけて、五日間の連続リサイタルを銀座の山菜ホールで行っている。なにかパリのシャンソン小屋を思わせるような、定員五〇〇名程度の小さなホールで歌うことが気に入って、昭和三十二年、三十三年と続けて一週間ずつの連続リサイタルを行った。
(注)
連続五日間の独唱会 新記録めざす 芦野宏(産経時事、昭和三十一年三月十日)
「…‥毎年暮れに越路吹雪が三日間独唱会を催すが、芦野の五日間は新記録。しかもプログラムを三つ用意したという周到さ。『シャンソン・ルンバ・タンゴの夜』という会の名前をつけたように、曲目も「アマポ-ラ」「ジーラジーラ」「花に寄せて」「詩人の魂」「街角」「頭にいっぱい太陽を」「セ・カミニート」「星を夢みて」「ドミノ」「ボレロ」「パリの屋根の下」「ラ・ヴィ・アン・ロ-ズ」「ラ・メール」などのヒットソングに、「ボンボン・キャラメル」などの新曲を含めて約六十曲。……」。ただし、一日の曲数は三〇。
デビュー後二年間に放送などで歌った曲目をプログラムの巻末に「私のレパートリー」として載せて あり、シャンソンの一〇〇曲を筆頭にラテン・タンゴ、コンチネンタル・タンゴ、アメリカの歌、日本の歌など、全部で二〇〇曲ほど。コーラス、トリオ・ヴォラン(高毛礼誠、木村正昭、柳川語)。ピア ノは寺島尚彦、ギター国藤和枝。


日劇出演と第一回リサイタル-4

 

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

1、ポピュラーの世界へ

第一回「リサイタル」といっても、あのときはそれほど身構えたりしなかった。まわりの人からすすめられ、それまで歌ってきたものを改めて発表したというだけにすぎなかった。
構成・野上彰、演奏・ジャック滋野とシャンソン・ラ・ボエーム、酒井富士夫とアングルシア・ギター四重奏団、ほか。
第二回からはほとんどシャンソンが中心となっているが、やがて各種音楽鑑賞団体(労音、音協等)から連続リサイタルを依頼され、一年に二〇〇回以上も「リサイタル」と銘打ったコンサートが続くわけである。その間に、日劇のレヴューショーのなかでシャンソンを歌ったり、ラジオ番組のレギュラーを受け持ったりして、私も大衆という大きな味方を増やしていった。
(注)
昭和二十九年(一九五四)十二月、石井好子歓迎と「シャンソン友の会」発会記念フェスティバル(解説・葦原英了)開催。パリに腰を据えて劇場の長期契約、放送、フェスティバル、コンクール出演などで活躍の石井好子が一時帰国。淡谷のり子、葦原邦子、菅美沙緒、高英男らと共演し、声野宏はシャルル・トレネの1詩人の魂」1リオの春」、それに高木東六作曲の和製シャンソン「プンプンポルカ」を歌った。
                                           昭和三十年(一九五五)に入ると、新年早々また日劇からお声がかかり、石井好子さんの帰国ショー『街に花は咲く』に出演してほしいといわれ、舞台で初めでピアノを弾きながら「コクリコ(小さなひなげしのように)」を石井さんとデュエットで歌い、大好評を博した。大先輩・淡谷のり子さん、高英男さんともご一緒だった。
また、その年の日劇『秋のおどり』にはペギ一葉山さんと共演で一か月の出演。このときは共演者に四歳でデビューの童謡歌手もおり、のちにチャリティ・コンサートなどでも共演したが、今は大学で英語・英文学を講ずる小鳩くるみ(鷲津名都江)さんである。
さらに、その翌三十一年五月『巴里の屋根の下』(「巴里の屋根の下」「アデュー」「小雨降る径」「小さな靴屋さん」を歌い、共演は高英男さん、ビショップ節子さん、中原美紗賭さんら)、三十一年秋『巴里の何処かで』と出演している。


日劇出演と第一回リサイタル-3

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

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日劇出演と第一回リサイタル-3

大編成の日劇オーケストラを休ませて、舞台の袖に立ってスポット一本で歌った。伴奏はギター一挺(ちょう)だけなので効果は抜群だったらしい。続いて「ラ・メール」はオーケストラ伴奏で華やかに歌い、どちらも万雷の柏手を浴びた。
終戦の年に、山形の霞城館で映画のアトラクションに出たからといって親類から横槍が入ったが、それとまったく同じことを、せっかく大学まで出ながらやっている自分がおかしかった。
しかし、もうだれも止めることはできない。なぜなら幕間の休み時間を利用して、マスコミからのインタヴューの申し込みも多く、全国の新聞や芸能雑誌、ラジオなどで、シャンソン歌手「芦野宏」の誕生を大々的に報じはじめていた。
この昭和二十九年(一九五四)七月の日劇デビューが好評だったせいか、同年九月の十六日から二週間、再び日劇で越路吹雪のシャンソン・ショー『シャンソン・ダムール』に、相手役としての交渉を受け出演し、「ラ・モーナ」「カナダ旅行」「マドロスの唄」「パリは恋の花盛り」を歌った。ほかに共演者は橘かをるさん、ビショップ節子さん、芸大後輩の中原美紗緒さんであった。
その年の十一月一日、第一生命ホールにおいて、記念すべき私の第一回リサイタル(独唱会)が開かれた。プログラムには著名なイラストレーター、長沢節先生の表紙絵・デザイン、東郷青児画伯の扉絵をいただき『芦野宏シャンソン・ルンバ・タンゴの夜』と書かれている。
曲目は「詩人の魂」「マリア・ラオ」「カミニート」など、それぞれのリズム(ジャンル)の代表曲を並べて歌った。たった一日のためか聴衆は長蛇の列をつくるほどの大盛況であった。


日劇出演と第一回リサイタル-2

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

1、ポピュラーの世界へ

日劇出演と第一回リサイタル-2

先生はエコール・ド・パリの画家・藤田嗣治の甥にあたり、慶応の仏文科を卒業後にフランスに留学され、シヤンソン、バレエ、サーカスなどを鑑賞・研究された。フランスに歌手をはじめ多彩な交友をもたれ、それらを『パリの街角』や『午後のシャンソン』など数多くの放送出演、執筆ほかの解説などで紹介・普及に尽くされた。わが国におけるポピュラーな芸能評論の草分けである。直接・間接、先生の教えを受けない日本のシャンソン歌手は一人もいないといっても過言ではあるまい。昭和五十六年に七十四歳で他界された。高橋忠雄先生ご逝去(六十九歳)のひと月後のことだった。
産原先生のシャンソン、オペラ、バレエ、サーカスなどに関する膨大なコレクションは没後、遺族から国立国会図書館に寄贈されているが、私が副会長を務める日本シャンソン協会(会長・石井好子)はその活動が評価され、第一三回産原英了賞(昭和五十七年設立)を受け(平成六年)、館長職にある「日本シャンソン館」(平成七年オープン)にも先生の遺影と著書などが飾ってある。
ところで、日劇の舞台に話を戻すと、「フラメンコ・ド・パリ」のフラメンコ・ギター伴奏は当時ナンバーワンと謳われた酒井富士大先生で、私もモンタンをまねて黒いシャツ姿でステージに立った。フランス語のほうはマスターしていたが、日本語でワンコーラスといわれ、急いで自分自身の訳詞で歌うことになった。

ひとり聞く あのギターの調べ
胸によみがえる ああモナミ、レ・スパニョール
遠いマドリード われはひとりパリの裏町


日劇出演と第一回リサイタル-1

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

1、ポピュラーの世界へ

日劇出演と第一回リサイタル-1                          一

デビューした放送界で活躍し、コンサートにもいくつか出演してきたが、本格的なステージ・デビューとなったのは昭和二十八年(一九五三)八月、ダミアの来日公演で伴奏もされた原孝太郎氏の渡仏記念コンサート(ラジオ東京主催、日比谷公会堂)であり、さらに大きな舞台は、なんといっても翌年七月、日劇『夏のおどり』で一か月の長期出演をしたときである。
(注)
「夏のおどり」などのレヴューが繰り広げられた日本劇場は、有楽町マリオンの敷地にあっあった。映画とレヴューの二本立てになっており、レヴューには歌謡曲のほか、戦後解禁されて花開いたポピュラー音楽、ラテン、タンゴ、ジャズ、シャンソンが織り込まれ、時代を彩る歌と踊りがあふれていた。ジャズ・フェスティバル、ウエスタン・カーニバル、フォーク・フェスティバルなども開催。
昭和五十二年(一九七七)、レヴューが四一年の幕を閉じる。
昭和五十六年、最後のウエスタン・カーニバル開催、日劇ミュージック・ホールも閉幕。
私の出演した季節は、七月の暑い盛りだった。
そんな季節にふさわしい「フラメンコ・ド・パリ」の二曲を一日三回、映画の上映をはさんた。
「フラメンコ・ド・パリ」は、蘆原英了先生が推薦してくださり、歌うことになった曲である。先生には以前から目をかけていただき、いろいろと教えを受けていた。イヴ・モンタンがこの歌を歌っているレコードを聴かせてくださったのは、もちろん蘆原先生である。そのときはモンタンが黒っばいシャツ姿で歌っている写真も見せてくださった。
渋谷・参宮橋にお住まいの先生のお宅で、私に合う曲を何曲も見つけていただいたものだ。


ダミアの来日-2

 幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

1、ポピュラーの世界へ

ダミアの来日-2

左隣におられた杉村春子さんとは、もっとよくお喋りをした。彼女はお弟子さんらしい女性と二人で来られたが、じつは杉村先生のお弟子さんの一人が私のところへ歌の勉強に釆ていたので、親近感があったのかもしれない。ダミアの歌のなかのしぐさが非常に計算されているものであることを、杉村先生がわかりやすく私に教えてくださった。
やがてダミアの登場である。小さな会場で聴くダミアは、また違った、まるで自分のためにだけ歌ってくれるような身近な迫力である。この日はあらかじめ曲目を知って、内容を勉強しておいたので、たいへんよくわかり、新たな感動をおぼえた。シャンソンというものの本質をかいま見たような気がして、まだほんとうに駆け出しのシャンソン歌手である私自身は、語る言葉もないほどに、ただただ感動していたのである。
私がその後たびたび連続リサイタルを行った「山葉(ヤマハ)ホール」は、この銀巴里から目と鼻の先で徒歩一分くらいで行ける。ダミアから受けた感動がまだ余韻としてあとを引いていたから、この会場を選んでしまったのかもしれないと、今ごろになって思っている。


ダミアの来日-1

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

1、ポピュラーの世界へ

ダミアの来日-1

さて、昭和二十八年二九五三)五月三日、私は初めてダミアの舞台を日比谷公会堂で聴くことができた。ちょうど私がラジオでデビューした年だった。産原英了先生からぜひ来るようにとお誘いを受けて二階席の正面に陣取り、初めて聴く本場のシャンソンに出合って感動した。
ダミアは、黒い袖なしのロングドレスに、真紅のスカーフを一本だけ使い、ピアノの前奏でとつぜん下手から現れた。万雷の柏手のなかで彼女はなんの愛想もなく、その赤いスカーフをなびかせながら上手のほうまで小走りに動き、舞台を大きく使って私たちの度肝をぬいた。バックはやはり黒のビロード風のカーテンだったから、いやが上にもダミアだけが引き立ち、彼女の手の動き、哀しげな表情が際立つのである。歌いながら中央に戻ったダミアは心をさらけ出すように歌いだす。シャンソン・レアリスト(現実派歌手)としての面目躍如である。言葉の意味がわからなくても、彼女の訴えている心情が伝わってくる。ダミアは、私が生まれて初めてじかに聴いたフランスのシャンソン歌手であっただけに、その強烈な印象は忘れることができない。
東京公演の翌日、私は銀座にあるシャンソン喫茶「銀巴里」で、ダミアが少人数のために歌ってくれる会に招待された。銀巴里はパリのシャンソン小屋風で数十人しか入れないから、産原先生のおかげで入場することができたようなものである。その夜、私は水谷八重子(先代)さんと、杉村春子さんの間の席でダミアを聴くことになった。私が音楽学校出身のシャンソン歌手の卵であることを知って、八重子さんはその隣に座っていた背のひょろりとした少女を紹介された。「娘の良重恵です。歌の勉強をしていますので、どうぞよろしく」と言われた。まだ十三歳くらいの水谷良重(現・八重子)さんはお行儀よく、ぴょこりとお辞儀をしてまた席についた。


民放各社にもレギュラー番組-6

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

1、ポピュラーの世界へ

民放各社にもレギュラー番組-6

番組は昭和三十二年秋に文化放送へ移るが、引き続きレギュラーとして出演した。初めての体験を生かした「芦野宏のパリ日記」を盛り込んだり、「芦野宏のサロン」を昭和三十三年末まで絞け、その後もゲストとしてたびたび出演して、昭和三十五年秋ごろまで続いた。
(注)
昭和三十一年(一九五六)、四月二日『シャンソン・アワー』(ニッポン放送、毎週月曜日、午後十時半~同50分)始まる。
初期のレギュラーはビショップ節子。初夏と初秋に芦野宏・初連続リサイタル、初渡仏送別リサイタルを放送。
昭和三十二年一月七日から芦野宏がレギュラー、毎回違った顔ぶれのゲストを迎える。
同年十一月、文化放送(毎水曜日、昼十二時~同十五分)に移る。「芦野宏のパリ日記」ほか、「芦野宏のサロン」に多彩なゲストを迎える。
昭和三十四年一月からゲストとして月に数回、年の半ばに再びレギュラーとなる。
昭和35年、ほぼ毎週ゲスト出演。十月二十六日、番組終了。
主な出演者(順不同)深緑夏代、喜多川祐子、高毛礼誠、太田京子、丸山臣吾(美輪明宏)、福本泰子、木村正昭、橘薫(かをる)、字井あきら、高英男、淡谷のり子、河井坊茶、沢庸子、越路吹雪、石井好子、旗照夫、田中朗、士口中圭子、木下清、中島(後藤)年子、安東緑、朝丘雪路、山本四郎、小海智子、島さち子、円山洋子、久木田千鶴子、杉浩、戸川昌子、工藤勉、美和陽子、中原英氏、寄立薫、戸川聡、岸洋子、島崎雪子、伊藤鷹志、中原美紗緒、浜木浩、鈴木昌子。


 民放各社にもレギュラー番組-5

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

1、ポピュラーの世界へ

民放各社にもレギュラー番組-5

「当学院学生寮にご出演いただき感謝いたします。お陰様で、はからずも、私の故国の情緒にひたる ことができて大変感動いたしました。かくも見事に私の国のシャンソンを解釈しえたあなたの技量には、敬服のほかありません。一フランス人として、このように立派に私たちの祖国の芸術を、日本の聴衆に鑑賞させてくださることに対して私はただただ感謝の念にたえません。……」   ジャン・ルキエ(東京日仏学院長)
しかし、ときにちょっと困ったこと(?)も起きた。毎週水曜日の夜八時半から放送されているラジオ東京の『花椿アワー』と文化放送の『モナ・キューバン・タイム』が同じ時間帯で、準レギュラーの私は裏と表の番組で同時に出演する回数が増えてきたことである。新聞のラジオ欄を見ると同時刻に芦野宏の名前が出ているのである。『花椿アワー』は二年近く続いたと思う。
ラジオ東京、文化放送より少し遅れて昭和二十九年 (一九五四)、日比谷に開局したニッポン放送ではシャンソン化粧品がスポンサーの 『シャンソン・アワー』 が始まっていた。レギュラー出演の話がきて、毎週月曜夜十時半から、私のピアノの弾き語りとナレーションで構成する、二〇分の番組である。なにがなんだかわからないほど忙しくなったが、私は相変わらずフランス語の先生について新曲の練習に余念がなかった。この番組では、弾き語りで、「失われた恋」「ラ・セーヌ」「ドミノ」「ミラポー橋」など、秋満義孝さん(ピアノ)の伴奏で、「ラ・メール」「詩人の魂」「ケベックの街にて」「マ・メゾン」「カナダ旅行」「パリ察」「パリの屋根の下」などなど数えきれないが、ポピュラーな曲はほとんど歌ったと思う。

 


民放各社にもレギュラー番組-4

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

1、ポピュラーの世界へ

民放各社にもレギュラー番組-4

「当学院学生寮にご出演いただき感謝いたします。お陰様で、はからずも、私の故国の情緒にひたる ことができて大変感動いたしました。かくも見事に私の国のシャンソンを解釈しえたあなたの技量には、敬服のほかありません。一フランス人として、このように立派に私たちの祖国の芸術を、日本の聴衆に鑑賞させてくださることに対して私はただただ感謝の念にたえません。……」   ジャン・ルキエ(東京日仏学院長)
しかし、ときにちょっと困ったこと(?)も起きた。毎週水曜日の夜八時半から放送されているラジオ東京の『花椿アワー』と文化放送の『モナ・キューバン・タイム』が同じ時間帯で、準レギュラーの私は裏と表の番組で同時に出演する回数が増えてきたことである。新聞のラジオ欄を見ると同時刻に芦野宏の名前が出ているのである。『花椿アワー』は二年近く続いたと思う。
ラジオ東京、文化放送より少し遅れて昭和二十九年 (一九五四)、日比谷に開局したニッポン放送ではシャンソン化粧品がスポンサーの 『シャンソン・アワー』 が始まっていた。レギュラー出演の話がきて、毎週月曜夜十時半から、私のピアノの弾き語りとナレーションで構成する、二〇分の番組である。なにがなんだかわからないほど忙しくなったが、私は相変わらずフランス語の先生について新曲の練習に余念がなかった。この番組では、弾き語りで、「失われた恋」「ラ・セーヌ」「ドミノ」「ミラポー橋」など、秋満義孝さん(ピアノ)の伴奏で、「ラ・メール」「詩人の魂」「ケベックの街にて」「マ・メゾン」「カナダ旅行」「パリ察」「パリの屋根の下」などなど数えきれないが、ポピュラーな曲はほとんど歌ったと思う。


民放各社にもレギュラー番組-3

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

1、ポピュラーの世界へ

民放各社にもレギュラー番組-3

文化放送で毎週水曜日の夜八時半から『モナ・キューバン・タイム』という番組があり、私はラテン・バンド、東京キューバン・ボーイズのリーダー見砂直照(みさこただあき)さんに気に入られて、こちらも準レギュラーのかたちで歌うことになった。アルゼンチン・タンゴではなく、〝中南米のボレロやルンバなどの曲で、私がスペイン語で勉強していた「マリア・ラオ」「タブー」「カント・カラバリ」「アマポーラ」などの曲が次々と電波に乗った。芸大を出てから高橋忠雄先生のところでいただいた珍しい曲ばかりである。これらはすでに勉強ずみの曲だったから一度のリハーサルでほとんど本番の録音がとれた。
ところが、同じころの別な番組で歌うシャンソンのほうはフランス語の勉強を始めたばかりだし、R(エ-ル)の発音や鼻音を上手に使うことに慣れていなかったから、一回でも多く練習
するよう心がけ、苦労は並大抵のものではなかった。こんなふうにして、私はだんだんシャンソン歌手として認められていったのである。
(注)
昭和三十三年(一九五八)春のリサイタルのプログラムには、次のようなメッセージが寄せられた。
「芦野さんはフランス語の発音がなかなかうまい。大阪でフランス人と叫緒に芦野さんのシャンソンを聴いたとき、その彼が『あの人のRの発音はいいですね』といっていた。フランス語では、いろいろ 難しい発音があるなかで、Rは難物中の難物なのである。
芦野さんは、いい発音をするために、人知れぬ苦心をし勉強している。そこがえらいと私は思う。私がやっているフランス語講座の放送でも何度か歌ってもらったが、いつもとはちがい、これは語学放送だからというので、芦野さんはその準備のため、フランス人二人について発音の稽古をした。一人の先 生だと、その人の癖があっていけないから二人にしたのだという。私はその誠実さにつよく打たれた。
芦野さんのみごとなパリの歌のかげに、そんな心づかいの流れていることを書きとめておきたい」
伊吹武彦(仏文学者)


民放各社にもレギュラー番組-2

 

 幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような

1、ポピュラーの世民放各社にもレギュラー番組-2

ディレクターの稲田植樹氏はインテリであり好男子であり、いかにも育ちがよく感じのいい人だったが、新人の私には厳しい注文をされた。新曲の楽譜を渡されて、それを来週歌ってほしいと言われたこともあり、私は池袋にお住まいの橋本正窮先生を訪ねてフランス語の発音と歌詞の正しい訳をお願いした。
橋本先生は、有名な日本画家・橋本開雪のご令息で、パリで育った方である。そのころ週に二回は池袋のアトリエまでレッスンに通った。たとえば1ル・ガレリアン(漕役刑囚の唄)」の譜面をいただくと、まずイヴ・モンタン(一九九一年嘩「枯葉」で有名な大歌手)のレコードを聴きながらカタカナで歌詞にしるしをつけてまねをしてみる。それから自分でピアノをたたきながら納得がいくまで歌い、再び意味を考えながら先生のお宅に伺って歌い、発音を直していただくのだ。

新曲をいただいたら発表するまでに少なくとも一〇〇回は歌ってみる。ちょっとでも疑問があれば池袋までタクシーをとばして、夜中でも先生の前で歌って直してもらう。
このころ、NHKの石川洋之ディレクターは月に一回はデビューした番組『虹のしらべ』に引き続き出演させてくださったが、ほとんどいつも新曲を望まれた。世間に認められている、立派に歌わなければという決意と、あの嫌いな戦争中、好きでもやれなかった勉強ができるという喜びが一つとなり、私は信じられないほどの努力をした。これまでのなかで、この時期ほ ど寝る間も食事する時間も惜しんで勉強したことはない。
まるでなにかにとり憑かれたように、次々と原詩を訳して発音を直してもらいにフランス人の先生を訪ねたりした。福沢諭吉のご子息の嫁にあたる福沢アタロヴィさんには、正しいフランス語で歌うレッスンをたびたび受けに行った。それまでフランス語で歌える曲は一〇曲ほどしかなかったが、またたくうちにレパートリーは増えていった。「君いつの日か」「フランスの日曜日」「わが若かりし頃」「待ちましょう」……。数えたら数百曲に達したが、一部を日本語でという要望も多かったから、訳詞のほうも忙しかった。夜中に薩摩思さんに釆てもらい、二人で考、え、二人で苦しみながら夜を明かしたこともたびたびあった。
ラジオ東京の 『花椿アワー』 では私の熱心さが認められて、準レギュラーのような待遇を受 け、私も仕事と勉強が一段と忙しくなった。


民放各社にもレギュラー番組-1

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

1、ポピュラーの世界へ

民放各社にもレギュラー番組-1

さて昭和二十八年(一九五三) 二月、四月とNHKで歌って以来、方々から歌番組やコンサートの出演依頼がきた。二年前に民間放送が始まっており、各局のゲスト出演ののち初夏のころろから文化放送のゴールデン・タイムで『歌の散歩道』というレギュラー番組をいただいた。
芸大時代、音楽の家庭教師をしていた東郷育児画伯の一人娘、たまみさんが事実上デビューすることになった番組でもある。
これは、今も伝説に残る名ディレクター呉正恭氏 (元・日大芸術学部教授、放送学科主任)が考え出したプログラムで、私に世界各国のポピュラーを歌わせ、まだ十六歳の少女、たまみさんを相手役に起用したのである。東郷たまみさんはこの番組に出てコロムビアから認められ、やがてレコード歌手となった。ステージでも活躍されたが、その後、絵の修業に専心されて歌
はお休みしているようだ。父・画伯の跡を継がれた画業のほうでは、優しい少女像を独特の画風で描くことにより、美術界で重要な位置を占める存在である。
芸大在学中から世界のポピュラー音楽に興味をもち、一人密かに勉強していた甲斐があって、レパートリーには不自由しなかったが、アメリカ編ではフォスターの曲を次々と英語で歌い、好評を得た。「懐かしのヴァージニア」「ケンタッキーのわが家」「スワニー河」「オールド・ブラック∴ンヨー」「夢みる人」、それに早口で歌う「草競馬」や「おおスザンナ」などである。
戦前、私は十代のころから『フォスター歌曲集』を持っていて、自分でピアノを弾きながら歌うことができた。
一つには英語の発音の勉強にもなることだし、応接間にあったピアノを弾いて自分で覚えたのである。父は男の子がピアノをたたくことが嫌いだったから、学校から帰ってから昼間のうちに弾くことにしていた。『歌の散歩道』 はこのようなアメリカの曲に、「アマポーラ」などのラテン、「ラ・メール」「パリの空の下」などのシャンソン、それにタンゴ、カンツォーネとい
った組み合わせで約一年ほど続いた。
昭和二十九年(一九五四)一月からはラジオ東京(現・TBSラジオ)で水曜日、夜の八時半から九時までのゴールデン・アワーに、資生堂がスポンサーの一流番組『花椿アワー』が始まった。シャンソンを主としており歌手は淡谷のり子さんと越路吹雪さんであった。そんなベテランに交じって、私は「バラ色のサクラと白いリンゴの花」「彼は恋心」「くよくよするな」「花祭り」など、数々のシャンソンを歌うことができた。まったく夢のようであった。


NHKラジオ・デビュー・6

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ
1、ポピュラーの世界へ

NHKラジオ・デビュー・6

原孝太郎渡仏記念コンサートで歌ったのも、シャルル・トレネ作「カナダ旅行」と「ラ・メール」であり、昭和二十九年(一九五四)、初めての大舞台・日劇恒例『夏のおどり』でも「フラメンコ・ド・パリ」とともに「ラ・メール」を歌った。さらにウエストミンスター.レコードでポピュラー界では日本人として初めて1Pレコードに吹き込んだもののメインもそれであり、昭和三十一年(一九五六)、初めての渡仏で実現したパリ・オランピア劇場での特別ゲスト出演でも「ラ・メール」を歌った。
その後も何度かパリで歌っているが、平成二年〈-九九〇)の九月にパラディ・ラタンの舞台で歌う前日、パリ市庁舎でシラク市長(当時)からヴュルメイユ勲章を授与されたとき、シラク氏のメッセージのなかに1一九五六年に初めてパリを訪れた芦野宏が『ラ・メール』を歌つて以来、数々のシャンソンを歌って日仏の交流を深めた」という一節があったから、やはり四〇年前のパリのステージ・デビューはいつまでも忘れられないし、忘れてはいけない。
余談だが、私が『虻のしらべ』で歌手デビューする当日、新聞のラジオ番組欄には「歌・芦野宏」と予告されていてびっくりした。私の本名は芦野広で、宏ではない。不審に思い、高橋忠雄先生に確かめたら、なんと先生が漢字を間違えてNHKに登録したとのこと。それにしても、名前が違えば自分でないような感じがして、初めは違和感があった。マスコミでは一部、本名で記されることもあったが、見慣れてくると宏のほうが本名よりやわらかくて芸名らしくよいように思えてきたので、私も意識して「宏」が定着し、それ以来ずっと「芦野宏」を芸名として使っており、こちらのほうが好きになっている。
(注)
ここで、放送の開始、開局などを略記しておく。
《ラジオ》
大正十四年(一九二五)、NHK(愛宕山)、昭和十四年 (内幸町)、昭和四十八年 (渋谷)。
昭和二十六年(一九五一)、中部日本、毎日、朝日、ラジオ東京など。
昭和二十七年、文化放送、ラジオ神戸。八月、NHKラジオ受信契約数一〇〇〇万突破。
昭和二十九年、ニッポン放送。
昭和三十二年、NHKFM。
《テレビ》
昭和二十八年(一九五三)、二月一日、日本テレビ(午前十一時二十分)、NHK(午後二時)。
この日のNHK夜十時のラジオ番組で芦野宏がデビュー。
昭和三十年、TBS。
昭和三十四年、NET(現二丁レビ朝日)(二月)、フジテレビ(三月)。
昭和三十九年(一九六四)、東京にチャンネル(現)テレビ東京。


NHKラジオ・デビュー5

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ
1、ポピュラーの世界へ

NHKラジオ・デビュー5

(注)
薩摩次郎八をモデルにした小説は御子丈六『但馬太郎治伝』、瀬戸内晴美(寂聴)『行きてかえらぬ』など、戯曲は有吉佐和子『日本人万歳!日本シャンソン小史》
昭和二年(元一石)、岸田辰弥作・演出の宝塚レヴュー『モン・パリ』で初めてシャンソンが取り入れられた。歌・奈良美也子、花組。日本シャンソン史上、記念すべきもの。
昭和五年、白井鉄造作・演出の宝塚レヴュー『パリゼット』で1すみれの咲く頃」が歌われる(天津乙女、月組)。
昭和六年、映画『巴里の屋根の下』本邦公開。田谷力三、レコード発売。
昭和八年、映画『巴里祭』本邦封切。
レコード・西百合江。佐藤美子「パリ流行歌の夕べ」(日本初のシャンソン・コンサート)開催。
昭和十一年、「暗い日曜日L淡谷のり子、十三年「人の気も知らないで」小林千代子。
レヴュー、レコード(と〈に輸入盤「シャンソン・ド・パリ」)などに放送も加わって、シャンソンがわが国に広まる。
そのシャンソン熟も日中・太平洋戦争中は敵性音楽として冷却を強いられる。
昭和二十年、敗戦。三十一年「もはや戦後ではない」(経済白書)。
昭和三十二年(一九五七)、このころ日本のシャンソン・ブーム璽同湖。芦野宏は音楽の室仙『シャンソン読本』の企画により、薩摩次郎八、佐藤美子と「シャンソンよもやま放談」。佐藤さんはフランス人を母親にもつ声楽家、のちに横浜市教育委員もされた方。それに新進シャンソン歌手として芦野が、鼎談の一人に抜擢。
薩摩さんと意気投合したのは、山田耕作先生と同じように日本語はイントネーション、音の上がり下がりによって意味が違ってくるので、そのことをいちばん大切にしていることであった。私も若かったし、彼も若い。二人は夜遅くまで、私の市ヶ谷の応接間でともに考え、ピアノをたたきながら、より良い歌詞を探し求めて苦労した。
たとえば1ラ・メール」の場合、最初の「海」という歌い出しは「う」が低く「吾が三度高い。これだと「膿(うみ)」というふうに聞こえて、海のイメージがこわれてしまう。だから「うみ」にはしたくないので、そのまま原語を生かし、次の原詩「コン・ヴォワ・ダンセ」に続くために原語に近い音感、そして喋り言葉になる「こころをゆする調べ」としている。
言葉が泉のごとくわき出る才能、しかも彼の作品はいずれも耽美的な優雅さがどこかにあって、花のパリで銀の乗用車を調達し、美しい奥様を乗せて万雷の柏手を浴びたという伝説の人、薩摩次郎八氏に近い感性を感じさせられることがしばしばあった。ともに苦しみながら仕上げた作品は数限りないが、とくにヒットしたものは、「風船売り」「パパと踊ろうよ」「メケ・メケ」「枯葉」「小雨降る径」「ラ・メール」「花祭り」「幸福を売る男」「カナダ旅行」「私の心はヴァイオリン」などなど、数えきれない。
そのなかで「ラ・メール」は正真正銘、私のNHKシャンソン・デビュー曲であり、この訳詞で歌うことも多く、いろいろな意味での転機に重要な位置を占めることになった曲である。


NHKラジオ・デビュー4

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ
1、ポピュラーの世界へ

NHKラジオ・デビュー4

(注)
『虹のしらべ』NHKラジオ第二放送、毎週、日曜午後十時~同三十分、放送開始は昭和二十七年(一九五二)十一月十六日。欧州と中南米の軽音楽を楽団演奏と歌で紹介。アルゼンチン音楽、ラテン音楽、シャンソン、コンチネンタル・タンゴ、スペイン音楽、ロシア民謡などの特集が組まれた。主な出演歌手は、淡谷のり子、高英男、芦野宏、ビショップ節子、中原美紗緒、クラシックの柴田睦陸、礁過大勲
(牧博)、中村浩子ほか。
昭和二十八年度のNHK年鑑には「特にシャンソンの芦野宏氏、アルゼンチンタンゴの牧博氏の進出
をみたことは注目される」と記されている。
芦野宏は三年間にラテン・タンゴで四回、シャンソンで一五回出演、それぞれ七曲、三五曲歌う。二
回のシャルル・トレネ特集に出、一人で各回全曲(甲五曲)を受け持つ。「新人としては異例の扱い
だった」とは、担当ディレクター石川洋之氏の述懐である。
同番組は何度か曜日と時間帯が変わり、のちに第一放送に移り、三十一年三月、好評裏に終了。
(日本放送協会放送史編集室『NHK確定番組』およびNHK年鑑より)
あとで出演することになる日劇はもちろんのこと、放送局などからも原語だけでなく、一部は日本語でという注文が出るようになってきた。私は薩摩思さんと何度も会って、「ラ・メール」をはじめたくさんのシャンソンの訳詞に取り組むようになる。薩摩さんはのちに室生犀星賞をはじめ、数々の受賞に輝く詩人であるが、あのころはまだ慶応義塾大学仏文税を出たばかりの青年であった。
薩摩次郎八氏といえば、日至の木綿問屋といわれた豪商の三代計であるが、小説や戯曲のモデルにもなった方で、フランス留学生のためにパリ大学国際都市に日本館を寄付し、藤田嗣治画伯のパトロンでもあり、バロン・サツマとして滞欧中のけた外れな豪遊や帰国後の質素で粋な生活ぶりなど、逸話は枚挙にいとまがない方である。
薩摩思さんは次郎八氏の従弟のご子息で、ご尊父は宝塚の演出家・白井鉄道氏の親友だったという。私は昭和二十八年十二月六日、日仏文化協定記念シャンソンの夕べで共演した橘かをる(薫〉さん(宝塚『モン・パリ』再演で初舞台、シャンソン歌手〉に紹介されて彼とお付き合いするようになった。


NHKラジオ・デビュー 3

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ
1、ポピュラーの世界へ

NHKラジオ・デビュー 3

冒頭に記したように、私は当時ポピュラー・ミュージックの熱心なファンが愛聴していた、NHKラジオ夜の看板番組でデビューを果たしたのであった。
テレビはNHKが私のラジオ・デビューと同じ年月日に東京エリアで本放送を開始しているが、受像機がゆきわたるのはまだまだ先のことだった。『虻のしらべ』 は聴取率も高く、たちまち「初めて聴く声です。この人をもう一度」というリクエストの葉書が何通かNHKに舞い込んだという。多くの人の要望によりデビューから二か月後、四月五日に私は再出潰することになった。
その後、民放各社でシャンソン熱が高まり、私はたちまちシャンソン界の新人として扱われるようになった。
NHK「虹のしらべ」でも「ラ・メール」「詩人の魂」を北村維章指揮、NHKシンフォニック・タンゴオーケストラの伴奏で詠うことになり、一躍シャンソン歌手としての地位を築くことになるのである。
「ラ・メール」は作詞作曲者シャルル.トレネが歌って戦後、世界的に大ヒットした彼の代表作の一つで、同じトレネ作の1詩人の魂」とともにフランス語で歌い通した。当時は、男性でシャンソンを歌っている人は、高英男さんだけであった。すでに大スターであった高さんのあとに続く新人として、世間が私にシャンソンを歌わせたかったのかもしれない。
リクエストによって放送局から曲の相談を受けたが、このあと『虹のしらべ』で「小雨降る径」「待ちましよう」を歌ったときは、淡谷のり子さんから電話があって、1よかったわよ、フランス語がよかった」と、あまりほめてもらえない先生から励まされたのは、とても嬉しかった。


NHKラジオ・デビュー 2

幸福を売る男

芦野 宏

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ
1、ポピュラーの世界へ

NHKラジオ・デビュー 2

音楽学校で教わったクラシックはほとんどイタリア語が多く、ドイツ語と英語も少しわかっていたので、スペイン語の歌は比較的楽に覚えられ、とても楽しかった。卒業後、高校で音楽の教師をしながら個人レッスンでも音楽の基礎やピアノを教えていたが、その合間をぬって週に一度、代々木の高橋邸でレッスンを受けることは待ち遠しかった。
昭和二十七年の秋も深まったころ、先生が推薦してくださり、今でもNHK出演の開門として厳しい審査を経たあと、レパートリーでいちばん合いそうな歌を選んでくださった。それがタンゴの名曲「ひとしずくの涙」と、本邦初演となる新曲「カント・インディオ」 であった。
このラテン・ナンバーは美しいボレロの曲で、ティノ・ロッシ(魅惑的な歌声のシャンソン歌手)が歌ったらぴったりと思われるほど甘いメロディーである。
この二曲をはじめ、ラテン、タンゴはデビュー後しばらくは歌いなれた原語だけで通していたが、あるときスペイン語だけでは外国人が歌っているのと変わらないので、一部日本語を入れてほしいという要望があった。すでに訳詞のある曲がけっこうあったので、のちにはスペイン語と半々でも歌うようになった次第。だが日本語だと、どこかしっくりこないものがある。
たとえば自分で訳を書いて歌ってみた 「ひとしずくの涙」の一節はこうである。「夢さめやらぬわが胸 今もなお燃えつつ。ゆめ忘れずひとしずくの涙 心に残して」。何度も自宅でピアノを弾きながら歌ってみたが、どうもアルゼンチン・タンゴのあの歯切れのよさが表現できず、よその国の歌になってしまう。どうしても気に入らない。のちにアルゼンチンでも活躍された藤沢嵐子さん(芸大先輩、歌謡曲、シャンソンからタンゴ歌手)とお話しする機会があったとき、彼女もほとんどスペイン語で歌っているのは、私と同じ理由からだということがわかった。しかし、あれ以来、訳詞と半々のこともあり、また原語だけで通すこともある。

 


NHKラジオ・デビュー 1

Ⅱ 夢のような歌ひとすじ

芦野 宏

1、ポピュラーの世界へ

NHKラジオ・デビュー

東京芸術大学声楽科を卒業して間もなく一年目という昭和二十八年(一九五三)二月一日、NHKラジオ『虻のしらべ』への出演が実現した。私の歌声が電波に乗り全回に流れて、新しい人生の船出となったのである。
その番組では、甘いボレロの「カント・インディオ(インディオの歌)」と、アルゼンチン・タンゴの名曲「ひとしずくの涙」をともにスペイン語で歌った。この二曲はいわば全国の皆さんに聞いていただいた記念すべき最初の曲である。
私がスペイン語で歌われるカンシオン(歌)に惹かれたのは、前にもふれたように、ちょうど芸大の卒業試験が近づいたころで、進駐軍放送で歌われていた歯切れのいいアルゼンチン・タンゴに出合ったからである。卒業はしたけれど、自分の進むべき道が見えなくて試行錯誤を繰り返しているとき、高橋忠雄先生と出会った。
高橋先生は初代三越社長の御曹司で、戦前、欧州・南米を旅行し、アルゼンチンには長く滞在されて、スペイン語が堪能、タンゴに精通され、ご自分でもピアノを弾いたり、バンドネオンを演奏しておられた。代々木の庸酒なお宅で、生徒に教えておられるという噂を聞いて門をたたいた。きれいな奥様はダンスがお得意で、三歳くらいのかわ.いらしいお嬢さんがおられたが、のちにお嬢さんはモデルとして活躍され、若くして結婚された。  。
先生はラテンとタンゴとダンスを研究され、NHK『夕べの音楽』『リズム・アワー』などの放送の番組や舞台の構成・演出、解説、それに編曲・指揮など中南米音楽の紹介と普及に八面六腎の活躍をされた。「原孝太郎と東京六重奏団」と双壁をなすオルケスタ・ティピカ東京(早川真平指揮)の基礎も作っておられる方でもあった。
私は週一回、先生のお宅でたくさんの歌を教えていただいた。「カミニート」「ジーラ・ジーラ」「グラナダ」「ポジエーラ (牧人)」「うそつき女」「サンフアン娘」「神の心」「マリア・ラオ」など。先生は惜しげもなくアルゼンチンの原語を私にくださり、レパートリーはたちまち一〇〇曲を超えるほどになっていた。