投稿者「花見 正樹」のアーカイブ

楽しかった教師時代-2

幸福を売る男

芦野 宏

3、音楽学校と卒業後

楽しかった教師時代-2

国府台女子学院の高等部では、教科書を使った授業を前半にやり、残った時間には自分の弾き語りで世界各国の曲を歌って聴かせた。これは自分自身の勉強にもなるから歌っていたのだが、生徒たちは大喜びだった。
「音楽はもともと自然に発生したものです。快い音をつづり、人々の心を和ませ、励まし、高揚させ、しだいに素晴らしい芸術にまで昇華しました。だから皆さんは改まって難しい音楽に取り組むという考えを捨ててください。いきなり難しいピアノ曲を弾きなさいとは、だれも言いません。音楽っていいなあと思う心が音楽を勉強する第一歩なのです。だから皆さんも先生の歌、聴いて好きになってください」
なんだか自分でも訳のわかったような、わからないようなことを言って、自分が授業中に歌うことを正当化しょうとした。また、一人ひとり歌わせるテストの時間には、教科書の楽譜を中心として、自分のいちばん歌いやすい音域に下げて歌わせることにしていた。これが私の提案する自然の発声、無理のない声をつくる第一歩だった。生徒たちはみんな音楽の時間を楽し
みにしてくれるようになり、しかつめらしい授業からは程遠いユニークなやり方に従ってくれた。
奉職してから新しい春を迎えて、卒業生を送る食事会のとき、私の隣のテーブルについた品のよい英語講師の松原先生が、「私、松原緑の母なんです」と名乗られた。芸大ピアノ科で私より一年下の緑さんは評判の美人で、学生たちの憧れの才女だったが、私の友人である大賀典推さんと結ばれ、現在はソニーの会長夫人であり、お母様同様、主婦であってもピアノの演奏活動を続けておられる、若々しい奥様である。
学期末の試験が終わったころ、この学期をもって学校を退職することを発表した。多感な高校生たちのなかには泣きだす生徒もいて、別れがつらかった。この一年間、高校教師は初めての経験だったが、生徒たちに自分流の発声法を教えた。試験の採点は全般的に甘かったが、音楽が好きでない生徒にもやる気を起こさせる効用があったと思う。逆に音楽が得意な生徒には、慢心を抑えるため少し厳しい点をつけた。
神田神保町の一橋中の生徒たちは、それほど別れを惜しんでくれるふうでもなかったので気が楽だった。こうして学校教師の仕事をやめた私は、今や歌による収入だけで生活しなければならなくなってきた。ちょうど一年間奉職した国府台女子学院には、私のいろいろな思い出がいっぱい詰まっていて、今でも昔の生徒が訪ねてくると嬉しくて仕方がない。

 


楽しかった教師時代-1

幸福を売る男

芦野 宏

3、音楽学校と卒業後

楽しかった教師時代-1

昭和二十七年、卒業して今後の方向を模索し、生活のためにあたふたと過ごしているうち声の調子も戻ってきたころ、芸大教務課の金子さんから電話がかかってきた。
「城多教授からのお願いなんですが、市川の国府台女子学院中・高等部で講師の先生を探しているので……」ということであった。吹き込み所通いばかりしていたので、経済的にも因ってきたころであった。
素直に教務課の指示に従った。ここで一年間、教師としての経験を積むが、甘い青春の思い出がいっぱい詰まっている、この教員生活は忘れ得ぬ青春の一ページである。
しかし、定職とはいっても講師なので月給は六〇〇〇円ほどであり、学生時代から教えていた個人レッスンもやめるわけにはいかない。日曜日に十数人教えて一万円になったが、自分のピアノがなかったので、借り代として三〇〇〇円を支払っていた。
そんなわけで、月曜から水曜までを国府台女子学院で、木曜から土曜までをもう一校、神田神保町の一橋中学校で教えなければならず、文字どおり一日の休みもなく働いたが、わずかな隙間をぬって自分の勉強をする時間を探すことも忘れなかった。
なにかにとり憑(つ)かれたようになっていた私は、学校への通勤の往復も自分の楽譜を離さなかったし、夜は十二時過ぎまでレコードを聴いて研究した。どんなに忙しくても、仕事と仕事の間のちょっとした短い時間でも、いつも頭の中に発声と発音のことがいっぱいに詰まっていて、食事中にも心の中で歌っていた。
卒業してからずっと、私は自分自身の声を求めて四六時中、模索し続けてきた。ところが在学中から家で敢えていた自分の弟子たちが、思いもかけず、芸大や私大の声楽科に次々とパスして、個人教授としての評価が高まり、入門志願者はあとを絶たないほどになってきたので、このままでは教師としての時間に押し流されるのではないかと危ぶまれた。


レコード会社オーディション-3

幸福を売る男

芦野 宏

3、音楽学校と卒業後

レコード会社オーディション-3

あとで開いた話だが、私の前に歌った少女は江刺チエミさんで、そのあと別のレコード会社のテストを受けたところ一度で気に入られ、初吹き込みの 「テネシー・ワルツ」と 「カモンナ・マイ・ハウス」 が大ヒットして、いちやく大スターにのし上がったそうである。チエミさんとは、第六回NHK『紅白歌合戦』に初出場したとき、彼女の相手役に私が選ばれ、その後も地方公演やNHKクイズ番組などでたびたびご一緒したが、あのときのオーディションで私が彼女の次に受けたことは知らない様子だったから、こちらも黙っていた。
淡谷さんのお骨折りにもかかわらず、レコード・オーディションは実らなかったが、放送などでのデビューのあと、北村維章と東京シンフォニック・タンゴオーケストラの伴葵により、渋谷道玄坂の映画館のアトラクションで淡谷さんのヒット曲である十小雨降る径」と「パリの
屋根の下」を歌うことになった。むかし山形の霞城館で毎日三回歌ったことをありありと思い出して多少抵抗があったものの、北村先生はNHKラジオ『虻のしらべ』で初めてのシャンソン「ラ・メール」「詩人の魂」を歌ったときに伴奏をしてくださった方であり、お断りするこ
ともできず出演することにした。
続いて大阪・産経会館に出演する話がきたので、受けることにした。慣れない映画館のほこりを吸ったせいか、風邪をひいて熱を出し、頭に水嚢(ひょうのう)をのせて寝ているところを淡谷のり子さんに見つかった。舞台では元気よく歌っていたのでだれも気がつかなかったのに、淡谷さんは楽屋を訪ねてきたのである。そして意外なことに、冷たい言葉を浴びせられ、思わず起き上がった。「芸能人は風邪なんかひいちゃだめよ。甘ったれんじゃないわよ」。このひと言はこたぇた。なんと意地の悪い女だろうと思った。しかし、この言葉の重さがしだいに、痛いほどわかってきたのは、大分たってからである。
昭和三十年(一九五五〉の年の暮れに、初めてNHK『紅白歌合戦』に抜擢されて以来、私のスケジュールは超過密になり、半年も前からの予約でいっぱいになっていた。風邪をひこうが熱があろうが、出演を断ればどれほどの人が迷惑をこうむるかよくわかってきたからである。
のちにフランスで聞いた話だが、パリのオペラ・コミック座に出ていたソプラノ歌子砂原美智子さんがオペラ『マダム・バタフライ』 の公演中に倒れたとき、予想外の違約金を請求されたとのこと、日本の興行はまだまだ人情がらみで甘いということである。
さて、大阪で淡谷のり子さんに叱られたことは、今でも身に弛みて、あれ以来、私は健康に気をつかい、少しでもおかしいと思えば、早めに処置をするようにしている。結局、病気によって人に迷惑をかける以上に、いちばん苦しんで損をするのは自分自身だということが、長い
芸能生活のなかで痛いほどわかってきたからである。シャンソンを歌える喜びとは裏腹に、歌う苦しみは常についてまわるものであるが、自分一人の仕事でないという責任感と意地が、いつの間にか自分自身をむち打って、自分が少しずつ変わっていくのがよくわかってきた。


レコード会社オーディション-2

幸福を売る男

芦野 宏

3、音楽学校と卒業後

レコード会社オーディション-2

ところが、喋りだすと淡谷さんは、とたんにお国なまりの言葉になり、気のおけない田舎の小母さんみたいな親しみをおぼえる。1あなた、シャンソンやりなさい」。これが淡谷さんの第一声だった。なぜですかと恐る恐る尋ねてみると、1あなたの喋り声聴いてわかるのよ。シャンソンやりなさい」というのである。1オーディション受けてレコード出しなさい。わたし言っておくから」。忙しい人だから決断も行動も早い。さっそく妹さんを呼んでコロムビアとビクターに電話をかけさせ、ディレクターと話をして、日取りを決めてくださった。「なんでもいいから声出して歌ってみればいいのよ。でも日本の歌、一曲入れなきやだめよ」と言われた。
そこで思いついたのが「雨に咲く花」だったのである。
帰りぎわに、私が手をつけなかった高価な栗納豆を包んでくださり、感謝と感激で胸がいっぱいになった。帰ってから、それを仏壇に供え、母と二人で一個ずつ味わいながらいただいた。
そんな贅沢な砂糖菓子は、絶えて久しく口にしたことがなかったのである。
レコード会社のオーディションは、簡単にすんだ。「ハイどうぞ」と言われてマイクの前に立ち、モニター室でディレクターが聴いてテープに収め、後日連絡します、というだけだった。
二日おいてから、もう一つのレコード会社のオーディションに行った。スタジオで小柄な少女が大声で二曲歌っていた。父親らしい人と一緒だったが、やはりテープに収められてすぐ帰っていった。ディレクターは淡谷さんのとくに親しい人だったが、私はマイクの前で一曲はフォ
スターの歌曲を、もう一曲は「雨に咲く花」を歌い、テープに収録されてすぐ帰った。
米軍キャンプのオーディションは、翌日すぐ返事があってスペシャルランクをもらっていたし、淡谷さんは「あなたの一声聴けばわかるわよ」と、いとも簡単に請け合ってくれていた。
しかし、一週間たっても一か月たってもなんの音沙汰もなく、ちょっとした慢心はあったものの、私は再び淡谷さんを訪ねる勇気もなく、いつの間にか諦めて、高橋忠雄先生のラテン、タンゴのレッスンに精を出していた。


レコード会社オーディション-1

幸福を売る男

芦野 宏

3、音楽学校と卒業後

レコード会社オーディション-1

「雨に咲く花」

詞 高橋掬太郎
曲 池田不二男

およばぬことと 諦めました
だけど恋しい あの人よ
儘になるなら いま一度
ひと目だけでも 逢いたいの

今日まで何度かリバイバルされ、歌われている古い流行歌である。声楽家の開種子さんが歌ってヒットした曲だった。
私は卒業演奏会を終わってから、いっさいクラシックから離れて世界のポピュラーをめざしていた。しかし、レコード会社のオーディションを受けるのに、一曲は日本の歌ということになると、この歌しか歌えないと思った。
じつは、私がアメリカ軍の将校クラブで歌えるようになったきっかけを作ったのは、ウエスタン・ランプラーズでの飛び入り出演からであった。ところが、そこでピアノを弾いていた女性が淡谷とし子さんといって、有名な淡谷のり子さんの実妹であった。楽屋でお話ししている
うちに、ぜひ姉のところへいらっしやい。姉もクラシック出身だし、きっとレコード会社を紹介してくれると思う、というのである。
当時、淡谷さんといえば多忙なスター歌手であったから、妹さんを通してやっとコンタクトをとっていただいた。昭和二十七年(一九五二) の春、陽気のよい日だった。洗足池の駅から歩いて程近いところに立派な門構えの邸宅があり、門標に 「淡谷」と書いてあった。玄関にお手伝いの若い女性が現れ、応接間に通されたが、なかなかお金いするこ.とができず、一時間ほど待たされたろうか。
とし子さんが現れて、姉は今お風呂に入っています。もう少し待ってね、といって当時では
珍しく贅沢な、菜の甘納豆を出してくださった。戦後、世の中の窮状がまだおさまっていない時代だったから、淡谷さんの生活ぶりはなにもかもとても贅沢に見えた。
さらに一時間ほど待たされたろうか。隣の襖(ふすま)があいて座敷に通されると、淡谷のり子さんが和服で現れたのである。白いきれいな肌がピカピカ光っていたことを覚えている。口紅は深紅でー○本の指をそろえて畳に手をつき、ひどくていねいなお辞儀をされてびっくりした。白い指の一本一本に唇と同じ深紅のマニキュアが施されていたのが目に焼きつくほど強烈だった。
私は動転して口もきけず、ただただ深く頭せ下げて自分の名前を告げるのがやっとだった。


幸福を売る男

芦野 宏

3、音楽学校と卒業後

「谷間の灯」ー米軍キャンプで歌う-2

オーディションでは、「タブー」をスペイン語で、フォスターの1夢みる人」を英語で歌ったのだが、翌日バンマスから電話があって、スペシャルクラスがとれたということであった。
ランクはA・B・Cに分かれているそうだが、スペシャルは特別ランクでギャラも高いということである。
当時、私は生活のために個人教授の生徒を二〇人もとっていたので、いくらギャラのよい仕事がきてもスケジュールの合わない場合が多かった。それでも夏休みの間に、三回
ほどキャンプで仕事をした。
今度はウエスタンの伴奏ではなく、ピアノ、ギター、ドラム、ベース、それにヴァイオリンが一本という変わった編成で、将校クラブのサロンで歌わせてもらった。
ウエスタン・ランプラーズのときとは違って、将校たちは夫人同伴で静かに聴いてくれ、終わってからの柏手も日
本人とは違って大きかった。ほとんどが夜の仕事で、高収入だったが、母と二人の生活を維持するためには、月々の定収入が必要だった。


謹賀新年 「谷間の灯」-米軍キャンプで歌うー1

  明けましておめでとうございます。
本年も宜しくお願いします。
日本シャンソン館は、1月2日(火)より営業します。
皆様のご来館を心よりお待ちします。
平成30年元旦
日本シャンソン館 館長・羽鳥功二

幸福を売る男

芦野 宏

3、音楽学校と卒業後

「谷間の灯」ー米軍キャンプで歌う

昭和二十七年(一九五二)三月、私が芸大を出て、短期間に私はいろいろなことに挑戦した。
中学時代、音楽好きの親友だった中野雅夫君(昭和五十五年投) の弟が、ウエスタン・ランプ ラーズという楽団でギターを弾いていることを知り、私は厚木のアメリカ軍キャンプに彼を訪 ねた。当時キャンプで仕事ができることは豊かな生活を保障されるようなものだから、興味が あったのである。
中野喜夫君(雅夫の弟)がバンドマスターに私を紹介してくれた。口髭をたくわえた、一見 こわそうな小父さんだったが、優しい人だった。私は英語で歌える曲はたくさん持っていたが、ウエスタン風にアレンジできそうなのは「谷間の灯」ぐらいのものであったから、一曲やらせ てくれるならこの曲にしようと思っていた。酒を飲みながらガヤガヤ騒いでいるアメリカ兵の 前で歌うのに、それでもなかなかバンマス (バンドマスター)は歌わせてくれなかった。
だが、楽屋で私のオーソドックスな歌い方をもっと崩すようにいろいろと指導してくれたあ と、三日目ぐらいにやっとバンドの前で一曲だけ歌わせてくれた。口笛が鳴ったり、柏手がき たりしたが、柄の悪い兵隊たちの反応は気にしなかった。歌い終わって楽屋でコーラを飲んで いるとき、将校が入ってきて話しかけてきた。バンマスは英語の達者な人だったから、間に立 って私に説明してくれた。「君がキャンプで歌いたいなら、審査を受けるように」とのことで、そのやり方、手続きを教わり、私は言われるとおり、二日ほどたってから再びキャンプを訪れ た。


卒業前後-4

幸福を売る男

芦野 宏

3、音楽学校と卒業後

卒業前後-4

卒業演奏会でのクラシックへの密かな決別の決心以来、1さあ、これで今までの発声法をくつがえし、もう一度ゼロからやり直すんだ」と決意していた。
卒業してからも私は前より頻繁に以前から馴染みの銀座のピアノ店にある吹き込み所に通って自分の歌を吹き込み、家に持ち
帰って聴いて、自分流の発声を研究した。それは自分の欠点を正直に教えるので、何度も絶望の淵に立たされたが、希望を捨てずに挑戦し続けた。四年間、芸大で勉強した発声法を根本からやり直し、自分の理想である喋り声を基本にした唱法に変えることは並大抵のことではなか
った。
自費録音による勉強は費用も相当かかり、新たに始めた週一度の高橋忠雄先生のレッスン代もばかにならなかったが、私は弱音を吐かなかった。その分しっかり働けばよいと思ったからだ。当時、吹き込んだSPレコードは今も手元にあり、「アヴエ・マリア」1花に寄せて」1ジ
ーラ.ジーラ」「三日月娘」など、音質はともかく機械さえあれば今でも聴くことができる。
いま思うと、あの歌えない六か月の試練の日々があったからこそ、シャンソン歌手・芦野宏が生まれたといっても間違いではなかろう。


卒業前後ー3

幸福を売る男

芦野 宏

3、音楽学校と卒業後

卒業前後-3

四年前の春とは違って、その年は桜の美しさも目に入らないくらい、自分の身辺が逼迫していた。友人たちはそれぞれの道を歩みはじめ、故郷に錦を飾って音楽教師になったり、芸大に
残って研究科に進む者もいたが、私はただ一人自分だけの道を探し求めて歩きはじめた。自ら志願して茨の道を選び、危険な戦場に向かって行くような悲壮な気持ちであった。苦労は覚悟のうえだったが、母と二人で生きていくためには収入のことも考えなければならない。これか
ら先の不安が大きく目の前に広がってきたが、やむにやまれぬ思いは制止することもできず、明日になれば必ずよくなると、明るい希望を捨てずに毎日を頑張るよりほかに道はなかった。
幼いころ、母がよく話してくれた。「みんな同じように勉強していても、毎日わずかでもより多く努力をすれば違いが出てくる。だからちょっとした時間でも利用して勉強しなさい」。
母は小学校の教師をしながら、父を大学にやり子供を育てた人である。母の言葉には真実の重みがあり、私はしっかりと胸に刻み込んでいた。それに私は上田蚕糸専門学校を勝手に退学し、好きな道を選んで音楽を志し、念願どおり卒業できた身である。ここで挫折したらどうなるか、自分でいちばんよく知っていたから、だれにもこぼさずに頑張った。
あれからあっという間に暗が過ぎて、平成二年二九九〇)秋の叙勲で紫綬褒立号をいただくことになり、宮中に参内して天皇陛下からお言葉をいただいたとき、私は芸大の奏楽堂で私の歌を聴いてくださった若き日の陛下の面影をありありと思い出し、四○年の歳月が走馬灯のよ
うに脳裏をかけめぐるのであった。


卒業前後-2

 幸福を売る男

芦野 宏

3、音楽学校と卒業後

卒業前後-2

卒業試験の曲目は、柴田睦陸先生と相談の結果、イタリアの古典歌曲「イ・バストリ(羊飼い)」を歌うことになった。静かな美しい曲で、南ヨーロッパの風景が目に浮かんでくるような名曲であったが、そのころはもう半年も歌っていない。私は毎日その曲を練習しながら良い
成績で卒業できることを願っていた。
しかし結果は、なにか十分納得できる出来栄えではなかった。案の定、首席は女性で、四家文子門下の柴玲子さんであった。彼女は翌年、音楽コンクール(毎日新聞社・NHK主催。昭和五十七年、日本音楽コンクールと改称)で優勝された。無理のないことである。在学中、アルバイトに追われて十分な勉強もできなかった身である。今は音声障害を乗り越えることができただけでもありがたいことである。ただ、あれほど親身になって指導してくださった柴田先生に申し訳ないと思っていた。入学のとき、あんなに将来を嘱望されていた私は、負け犬みたいな気持ちでうろうろしていた。
卒業演奏会は由緒ある上野の奏楽堂で行われた。音楽学校に入ってから奏楽堂の舞台に出た経験は、「第九」のコーラスで出演したくらいだから、卒業演奏会で独唱することが決まったときは、それまででいちばん緊張した。まして大勢の聴衆のほぼ中央に皇太子殿下(現・天皇
陛下)をお迎えしてのステージだったから、晴れの舞台で歌ったという充実感があった。私は卒業試験のときと同じ「イ・バストリ」を柴田先生に選んでいただき、力いっぱい歌った。涙がにじんで会場の殿下の表情もわからなかった。
これで、クラシックはもう歌わないことを心に決めていた。それには、発声のことより疑問に思っていた理由もある。クラシックは伝統的な曲想で歌わなければならない。自分が心に思いついた曲想で歌える音楽はポピュラーの世界にしかないのではないか。そう思っていたから
である。
希望と夢をもって四年開通いなれた上野の音楽学校、そしてこの古い奏楽堂ともこの曲で別れることになると思うと、胸が痛み、精いっぱい歌ったつもりでも上手に歌えなかった。発声がまだ安定していないという不安もあったからである。卒業後、研究科に残る者と教職に就く
者とに分かれたが、私はそのどちらにも属さず、納得するまで自分自身の発声を研究するつもりになった。ろくに勉強もせず、アルバイトばかりして卒業したくせに、首席でなかったことはやはり残念だった。


卒業前後-1

幸福を売る男

芦野 宏

3、音楽学校と卒業後

卒業前後-1

歌えない日が続いてスランプに落ち込んでいたころのこと、私は渋谷道玄坂上にできた「日本ジャズ学校」に通った。先生はティーブ釜苑
さん(歌手かまやつひろしの父親)、ナンシー梅木さん、そしてジャズの好きな少女であったペギ一葉山さんもよく遊びに来ていた。学校といっても、ポピュラー音楽の場合は遊びに来てその雰囲気を身につけるといったほうが妥当で、ワイワイガヤガヤ話したり歌ったりしているだけだった。こんな学校もあるものだとわかっただけで私は十分だったから、まもなくやめた。

学校生括の前半は久我山の兄の家でダンス教室をしながら学校に通ったから、物質的苦労はまったくなかったが、後半、三年生からは市ヶ谷の小さな家に移り、母と二人の生活になった。
兄嫁と母との折り合いは神戸時代からよくなかったが、久我山の生活で爆発した。兄夫婦の世話になり、十分な小遣い銭を稼いで学生生活をエンジョイしていた私も、年老いた母一人を市ヶ谷の小さな家で生活させるのを見るに忍びず、久我山の広い家を出た。
もともと覚悟のうえでとび込んだこの道だったから、貧乏もこわくなかった。小さな家は、市ヶ谷の高台にあったわが家の焼け跡に建った。見晴らしは昔よりもさらによくなり、すぐ近くに焼け残った靖国神社の大屋根が見えた。100坪あった土地の半分を二〇万円で売却し、
それで小さな家を建てた。昔わが家に住み込んでいた大工の西村正之助氏(渋谷の西村建設会長、創業者)が母のために精魂こめて造ってくれたものだが、六畳と三畳の二間だけ。玄関ホールの三畳くらいのところにレンタルのピアノを置いて生徒をとっていた。
母が久我山を出る覚悟をしたのは、市ヶ谷に土地があったからで、久我山で世話にならなくてもやっていけるという意地を見せたのだ。母はもう七十歳を過ぎていた。私も自分の意志で久我山を出たので、ダンスの収入もなくなり、音楽を教えることだけに専念したが、をかなか
たいへんであった。土曜、日曜は自宅で声楽志望の生徒をとり、また、ハイツと呼ばれるアメリカ人住宅では小学生にピアノを教え、母の知り合いのお宅では生徒を集めていただき出張教授をした。そんな忙しさのなかで、私は音声障害というものを経験したのだから、やはり体力
的な無理もたたっていたにちがいない。音声障害をかかえ、生活苦と闘いながら、私は卒業期を迎え、やがて卒業試験に臨んだ。


自分なりの発声法-1

幸福を売る男

芦野 宏

3、音楽学校と卒業後

自分なりの発声法-1

音声障害といっても、私はまだ喋ることができる。この喋り声を歌声に持っていけばよいのだ。喋る声と歌う声の区別がない自然な発声法である。そうすれば喋れるかぎりは歌えるわけである。これなら何時間歌っても疲れることもないだろう。歌うことを禁止されていた六カ月
の間に、私は柴田先生から教わったあらゆることを復習し、参考にしてクロスピーの歌を聴いた。喋る声とまったく変わらない自然な発声。改まって咽喉の奥を開き、腹の底から声を出す
ように教えられていたころは、身体全部を楽器と考えて、いかに骨格を利用して声を響かせるか、ヴォリュームをもたせて遠くまで聞こえるようにするかに専念し、ほかに耳を貸す余裕すらなかった。
私は、喋り声をもとにして歌えば、声が疲れたり音声障害を引き起こしたりすることがなくなるのではないかと思うようになり、三年かかって取り組んだ声を元に戻し、自分自身の自然の発声を考え出そうとしはじめたのであった。咽喉は自然のままで頭蓋骨の共鳴を利用し、音
を前方に持っていき、胸の共鳴も利用して呼吸法で息を整える。つまり、自分の骨格に響かせ
て頭声 (頭にひびかせる声)と胸声(胸にひびかせる声)をうまく使い分ければよい。これが私の歌声の基本となり、苦しみを乗り越えて獲得した努力の結晶だと思っている。
私は歌えない時期に、自分の勉強法が間違っていたことを覚り、新しい発声法に目覚めた。
柴田先生が教えてくださったことはもちろん正しいのだが、私は自分で声をつくっていたことに気がついたのである。先生を尊敬し、先生に傾倒すると、学生は先生の模造品になるものである。私は心から先生を尊敬していたから、知らず知らずのうちに、先生と同じ声になりたいと願っていたのだ。今にして思えば、低音に魅力のあるバリトン歌手が高音を主にしたテノールに似せようと努力することは、初歩的な誤りであることがわかるが、青春の真っ只中にいて馬車馬のように走っていた音楽学生にはわからなかったのである。
在学中、音声障害を起こして歌えなくなって以来、発声に疑問をもちはじめていたころ、私はレコード吹き込みに熱中しはじめた。その当時はテープレコーダーが開発されていたらしいが、まだ一般には普及しておらず、銀座四丁目の辻を築地方面に向かって、次の角にあった「小野ピアノ店」には、二階に吹き込み用の部屋があって、三分間のSPレコードを作ることができた。初めは同級生のピアニストに伴奏をつけてもらって、何枚もレコードを作り、すり切れるまで聴いて勉強した。薄い金属の円盤に蝋(ろう)を塗った粗末なものだったから、三〇回くらいで完全にすり切れてしまう。それでもこりずに小遣いがたまると、また吹き込み所に行くのだった。私はのちに歌手デビュー後、国内レコード数社のほかフランスやアルゼンチンでも録音したが、初めてレコード吹き込みをしたのは、芸大在学中、ここにおいてだった。自分の声を客観的に聴きたくて、小遣いを節約して自費で録音したのである。私が高い費用を支払ってまで録音して勉強したのは、小学校のときに果たせなかったレコード吹き込みの夢をもち続けていたせいがあるかもしれない。
(注)
昭和二十五年、東京通信工業(ソニー)がテープレコーダーを発売。同三十一年ごろにはオープンリール・デッキが普及。


歌えない日々-4

幸福を売る男

芦野 宏

3、音楽学校と卒業後

歌えない日々-4

もちろん英語で歌われるから発音・発声が一体となっていて、日本語で歌う場合と異なるのだが、高音の 「ビューティフル・ドゥリーマー」と、低音で歌う同じ言葉の部分の粒がそろっているのだ。私はこのクロスピーの歌に憧れた。喋る声と歌う声が同じなのである。苦労して芸大でたたき込まれた発声法は、改めて身づくろいをしてからおもむろに声を出すという歌い方であった。だからこのときは目から鱗が落ちる思いで胸がときめいた。
この時期にはまた、こんな一幕もあった。暗い雨の日だったが、私はある流行歌手の歌声をラジオで聴いて、頭を殴られたように思った。喋り声をそのまま歌にしているからである。自然の発声だから言葉もよくわかり、細かい情感が出せることに気がついて、思ったらすぐ行動に移すたちなので、流行歌手の発声は参考になると思ったからである。
雨の中を同級生の部屋を訪れて私の考えていることを率直に伝えた。
ところが彼の反応は、ひどい剣幕で思いもよらない方向にいった。
「君を見損なった。いくらなんでも流行歌手と同じ発声はひどいぜ。ぼくらは何年もかけてやっとここまで到達したんだ。人に教える立場にこれからなろうという人間が、それはないだろう」。
私は「いや、ちょっとした迷いだったのさ」と言って引き下がった。私は間違ったことをしたと後悔していた。
相談する相手を間違えたのである。まして卒業演奏会を半年後に控えて、お互いにしのぎを削り合っている仲間の勉強に水を差すようなことをしたのだ。それにひきかえ、まだ曲目も決まっていない自分の惨めさ、哀れさをいやというほど思い知らされて、すごすごと雨の中を一人歩いて家路についたのだった。


 歌えない日々-3

幸福を売る男

芦野 宏

3、音楽学校と卒業後

歌えない日々-3
そのころラジオではアメリカの音楽が毎日のように流れ、進駐軍放送にダイヤルを合わせるとオペラからポピュラーまで、いろいろな歌を聴くことができた。この米軍向けの番組には、魅力的なプログラムがいっぱい詰まっていた。私はしだいに世界のポピュラーに目を向けてい
くようになり、スペイン語で歌われるカンシオン、ポルトガルのファド、フランスのシャンソン、アルゼンチンのタンゴと耳をそばだてて聴いた。「ピョン・ザ・シバ】という英語の題名で、「ラ・メール」を聞いたことがあるのを、ずっとあとになってから思い出すことになるが、シャンソンという意識もなく、軽やかなソフトな歌として聞き流した。この「ラ・メール」が私のシャンソン・デビュー曲になろうとは、そのころは夢にも思っていなかった。
それらのなかで、とりわけ衝撃的だったのはビング・クロスピーの滑らかな歌声で、彼の歌う「夢見る人(夢路より)」や「懐かしのヴァージニア」にことさら惹かれた。クロスピーは一日に何回も出てきて、素晴らしい声を聴かせていた。私はビロードのように美しい彼の声に
魅せられ、毎日ラジオから耳を離さなかった。そのうち、クロスピーの声が喋り声そのままを歌声にしていることを発見して胸をときめかせた。

「夢路より」
訳 津川主一
曲 フォスター
夢路より帰りて 星の光仰げや
さわがしき真昼の わざも今は終わりぬ
夢見るは わが君
開かずや わが調べを

ビング・クロスピーの歌うこの歌は、涜れるような美しい自然の発声が心をとらえて離さず、四年前に初めて聴いた中山悌一先生の「紅いサラファン」以来の衝撃であったといってもよい。


歌えない日々-2

幸福を売る男

芦野 宏

3、音楽学校と卒業後

歌えない日々-2

柴田先生はテノールであるから、バリトンで声域の低い私が上手に先生のまねをして歌うことはできなかったが、なんとかして追いつきたく思って努力した。しかし、入学試験のときに歌ったのが二曲ともイタリア古典歌曲であったためか、一日も早く本格的なドイツ・リートを
勉強させてもらいたかったのに、なかなか先生からお許しが出なくていらだっていた。
そのうち、ドイツ・リートも習うようになったが、その発声とイタリア歌曲のベルカント唱法を両方ともあまり熱を入れすぎて勉強に励んだためなのか、なにが真因かは判然としないが、私の声帯に微妙な変化をきたして、ついに音声障害を引き起こしてしまった。
軽い症状は以前にも何度かあった。しかし、今度のはやや重い。ハイ・バリトンとテノールは紙一重の違いだから、高音さえ出れば貴重なテノール歌手が誕生したかもしれなかったが、私は失敗したのだ。
三年生の後半、深刻に悩んでいた冬のこと、先生は私を音声学の権威である楓田琴次先生のもとに連れていってくださったり、湯河原の別荘で静養させていただいたりした。楓田先生から当分歌うことを止められてからは、苦しい毎日であり、つらい経験であった。それでも私の
声はよくならず、無理をして歌い続けるとほんとうに声が出なくなるぞと言われもした。
こうした歌えない、苦しい六か月が続き、卒業試験もあと半年後に迫っていた。この、まさに卒業を間近に控えた大切なとき、今ごろになって悩み続けている自分はいっろうとつくづく情けなく思い、あの入学したときの輝くような喜びの日々が、なんなんだか遠いものになっていった。歌うことがあれほど好きで、明けても暮れてもピアノに向かっていた自分が、ドクターストップを受けて声のない日々を送り、悩み、苦しみ、悶えて、なにも目に入らない心境だった。
そんなとき、私の耳に入ってきて衝撃を与えたものがあった。


歌えない日々-1

幸福を売る男

芦野 宏

3、音楽学校と卒業後

楽しい生活-2 つづき
世の中が少しづつ変わってきて豊かになりはじめていたが、それでもまだまだダンス教室は珍しい時代で夜の七時から九時までは初心者が釆て賑わった。
若かりしころの小玉光雄画伯(二科会〉も私の生徒だったし、ファッション・デザインの伊東茂平教室の先生方もたくさんみえた。
私は小遣い銭にも困らず、いつも仕立ておろしの上等な服を着て学校に通った。今でも毎年六月に同窓のクラス会があり十数人は必ず集まるのだが、「あのころの芦野さんは一人だけおじさんみたいで、同級生の感じがしなかった」と言われている。
歌えない日々-1
学校は楽しかった。しかし、なにもかもうまくいっているわけではなかった。
入学してまもなく、中山悌一先生がドイツへ留学されることになったからだ。
しかも夫人同伴で何年になるかわからないという。門下生たちは額を集めて悩んだが、どうしようもなかった。
大賀典雄さん(現・ソニー会長)は中山先生から折り紙つきの有望なバリトンで、将来を嘱望されていたから、ほんとうに失望した表情で「中山先生以外にはつきたくないんだ」と私にこぼした。私だって受験勉強でお世話になり、心から尊敬していただけに思いは同じだったが、せっかく入学できた学校をやめるわけにはいかない。私は中山先生から同じ二期会創立メンバーの柴田睦陸(むつむ)先生を紹介されて、学校で個人指導を受けることになった。
今まではバリトンの中山先生の声を模倣することから始めた勉強だったから、とつぜん声域の違うテノールの柴田先生に代わったとき、初めはなかなか馴染めずに困惑し苦しんだ。
柴田先生は発声法の大家といわれている方であり、じつに懇切ていねいに指導してくださる。学校のレッスン日に先生が都合で休まれるときは、成城のご自宅まで出かけて、まず呼吸法から教わった。下腹部に手を当てて歌わせることはまだ初歩の段階で、床の上の絨毯(じゅうたん)に仰向けに寝かされ腹の上に分厚い重たい本をのせて、その動きを見ながら歌わせる。
そのような腹式呼吸法を指導してくださったり、発声についてはもっと厳しく、咽喉の奥を開くこと、そのためには割り箸で舌の根を押さえて腹の底から声を出す訓練に特別に長い時間をかけてくださる。
声を頭蓋骨に響かせて前に響かせる歌い方、いわゆる頭声の出し方、あるいは胸に響かせる胸声の出し方。先生ご自身が体験されたことを忠実に、ちょうど親鳥が雛に餌を与えるように教えてくださるのである。まったくの初心者であった私にとっては、珍しくてびっくりするこ
とばかりであった。奥様はソプラノの久保田喜代子さんで、そのころはまだ研究科に籍を置く有望な新人であった。
「おい、喜代子、芦野君の歌、一緒に聴いてくれよ」と言っていつも一緒に指導してくださるような仲の良いご夫婦だったが、先生は学生の一人ひとりに、まるでわが子のような愛情を注いでおられた。


楽しい生活-2

幸福を売る男

芦野 宏

3、音楽学校と卒業後

楽しい生活-2
入学式のあと、私はクラス総代を命じられた。
みんな私よりだいぶ年齢が下だったから、その点では適任だった。
クラスは声楽が一二名、ピアノ科が八名、作曲科が八名、弦楽器三名、管楽器三名、邦楽三名、パイプオルガン二名、といった分け方で、学生数は四〇名足らずの少数精鋭主義教育であった。
それぞれ専門の先生には一週二回個人指導を受け、一週一度は副科、つまり声楽科ならピアノの個人指導があり、専門以外の合同授業は、音楽理論、対位法、外国語、美学、西洋史などがあった。
クラスに留学生が二人いた。中国からの陳貞麗(現・徐貞麗)さんと、インドネシアからのムハマド・エスフ君である。二人とも声楽科で、エスフ君は田中伸枝門下のバリトンだった。
彼は日本語があまりうまくなかったので、私が合同授業のとき隣の席に座ることにした。
難解なことは辞書を片手に英語で説明してあげたが、休み時間も昼食も一緒だったから、私としては英会話の勉強になり、卒業してからもたいへん役に立った。
陳貞麗さんは日本語が上手で授業には支障がなかったが、やはり田中伸校門下の伊藤礼子さんと仲良しで、われわれを含めたこの四人はいつも一緒に行動することが多かった。
留学生二人はダンスが好きで、毎月一度わが家で開くダンスパーティーには必ず来てくれた。
田中先生も、当時の教授としては珍しくダンスがお好きで、門下生を五、六人引き連れてわが家のパーティーに参加してくださったものである。お弟子さんたちはみなロングドレスで参加するので、久我山のアトリエは色とりどりの花が咲いたように華やかになり、評判になった


楽しい生活-1

幸福を売る男

芦野 宏

3、音楽学校と卒業後

楽しい生活-1

重たい衣服をぬぎ捨てて軽やかな足どりで街を歩くと、みんなが自分にほほえみかけてくれる。
世の中が一変してバラ色に輝き、私の新しい人生が始まった。
昭和二十三年(一九四八)四月、憧れの音楽学校に入学できて、春欄漫の上野の杜(もり)を歩きながらの実感は、今でも鮮明によみがえってくるのだ。春の桜がこんなに美しいものと思ったことはない。上野は公園にも学校にも桜があり、そこは別天地であった。
戦前・戦中の抑圧された暗い毎日から解放されて、やっと自由を勝ち得たといっても、食糧や資源不足のため決して明るい毎日ではなかった。戟後三年たったこの年でも、一月に配給物資の横領事件が起こり、帝銀事件や美唄炭坑の爆発事件などがあった。
しかし、音楽だけはだれからも邪魔されない自由があったのである。
学校の食堂はうす汚れた古い校舎の一部だったが、キャッスルと呼ばれ、そこには学生たちに交じって有名な演奏家や教授の顔がすぐ近くにあり、長い間憧れていた音楽の世界にやっと入れたという喜びは、たとえようもないものであった。
この年私は生まれ変わった。そういっても過言ではない。
上野の学生であるということだけで、世間では信用してくれたし、なによりも今や疎開先の映画館で「波浮の港」や「谷間の灯」を歌ったとき大反対した親戚たちも、これからは文句のつけようがない。
陶を張って堂々と音楽の勉強ができると思うと、天にも昇る気分であった。だれにも気兼ねしないで、音楽の世界にどっぶり浸ることができるようになったからだ。


東京音楽学校受験-5

幸福を売る男

芦野 宏

東京音楽学校受験-5

しかし、この夜の出来事は兄と義姉にショックを与えた。
雨の中を先生が自ら知らせに釆てくれたことで、私に対する信用はいっペんに高まり、親戚中ただ一人の「ならず者」というレッテルがはがされるきっかけとなったのだ。
三日目の専門は「ヴュルジン・トウツト・アモール(聖処女)」を歌った。
その日は審査員のお顔をゆっくり見ながら歌えた。
城多又兵衛、矢田部勁吉、酒井弘、H・ウーハーペーニヒ、四家文子、田中伸枝、浅野千鶴子、ネトケ・レーベ、柴田睦陸、平原寿恵子、それに恩師である中山悌一の諸先生方であった。
そのほかに、顔を見ても知らない先生方が五人ほどおられて、全部で一五人くらいだと思った。
四日目の学科はらくらくであった。英語と国語、それに当時流行していた知能指数のペーパーテストである。
五日目の面接も、はっきり覚えていないが、簡単なものであった。
もう必ず合格すると思っていたから、気持ちにも余裕ができていた。
合格発表は見に行かなかった。
研究科を最優秀で卒業された石田栞先生が、電話で知らせてくれたからである。


東京音楽学校受験-4

しあわせ
幸福を売る男

芦野 宏

東京音楽学校受験-4
こんな夜中にどうして、と思うのは当然である。心配して奥から出てきた兄と義姉が、ずぶ濡れの先生を見てとりあえず招じ入れたが、先生は固辞して用件だけを伝えた。「明日の試験は必ず出るように。昨日の声楽の点が最高点だったから、自信をもって途中で放棄しないように」 ということであった。
じつはあとでわかったことだが、ピアノの試験の途中で「カーン」と鐘をたたかれたのは、それまででよいという合図で、ハイこれで落第という意味ではなかったそうである。
私がすっかり悲観して今年の入学を諦めている様子を、近所に住む石田先生から聞き、同級の石津先生が心配して審査に当たった田中伸枝先生に開きに行ったところ、第一日日の成績がトップであることを知り、あわててとんできたというわけである。
石津先生は石田莱先生と同じく田中伸枝先生の門下生で、バリトンのホープとして母校に残されている注目の新人であった。私も石田先生の紹介で二、三度レッスンを受けたが、当時二十三歳くらいで、私にとっては一〇年も二〇年も先輩のように感じられた。それに六尺豊かな
大男である。ずぶ濡れだったのは、自転車で鷺宮から久我山までを突っ走ったからだという。
それにしてもなぜ、あんなにまでして釆てくださったのか。電話でも十分に間に合うことなのこ‥‥‥


 東京音楽学校受験-3

しあわせ
幸福を売る男

芦野 宏

東京音楽学校受験-3
少し歩くと「星の流れに身を占って……」という歌が‥…・。
次の角を曲がると、「港が見える丘」が流れてきて、戦後の日本は流行歌にあふれていた。
一度は映画館のアトラクションで流行歌手のようなことをした自分だったが、今は違う。やはり学校で音楽を勉強したいという気持ちに変わっていた。粗末な建物が並び、アメリカのものを中心に細かい商品があふれている、活気のある路地裏を、値段を見る気もなくゆっくり通り抜けて、御徒町の駅から国電に乗り久我山へ向かった。
父が亡くなってから、めまぐるしく変化してきた自分の環境。徴用、徴兵、復員、流行歌手のまねごと、かつぎ屋、ダンス教師。戦争は終わったが、私の戦争はまだ終わっていない。受験に失敗しても、しなくても、私は負けない。負けてたまるものか。胸を張り、空を仰ぎながら堂々と歩きだした。あいにくポッポッと雨が降りだしてきたが、気にもせずわが家に帰り着いた。
今でもそうなのだが、いちいちその日の出来事を家に帰って報告しないくせがある。自分の心の中で燃えているものを吐き出すと、意欲がそがれるような気がするのだ。何かをやろうとする意欲が高まっているとき、逆に失敗のあったとき、自分の心の中で処理してしまいたいと思うのだ。だれに相談したって、解決できるのは自分自身だけだと思うからだ。母はなにも聞かなかった。
その日は雨にもかかわらず、ダンス教室のほうは十数人も来て忙しかったが、八時半ごろには終わり、明かりを消して奥へ引っ込んだ。それから雨はだんだん激しいどしや降りになってきたようである。しばらくしてから、二回ほど玄関のブザーが鳴った。だれか忘れ物でもしたのかなと思ったが、もうあれから一時間もたっている。私は不審に思って玄関の明かりをつけてみると、ずぶ濡れの大男が立っているではないか。アッ、石津先生だ。どうしたことか、そこには石津憲一先生が立っておられたのである。


東京音楽学校受験-2

しあわせ
幸福を売る男

芦野 宏

東京音楽学校受験-2

上野の試験は、なんと数日間続くのである。一日目が専門の歌、二日目がピアノ、三日目が専門の二曲目、四日目は学科、五日日が面接であるが、二日目で落ちたら、もう三日目以後は釆なくてよいことになる。
さて、二日目は私のいちばん苦手なピアノである。
子供のころあんなに好きで夢にまで見たほどなのに、10年も弾かずにいると自己流のくせが出てよくないものである。
朝倉靖子先生のところで一週に一度レッスンをしていただいていたが、指定曲・モーツァルトのソナチネを二ページ目に移るところでミスタッチしてしまった。落ち着いてすぐやり直せばなんのことはなかったのに、もう一度弾いたらまた音をはずしてしまった。
さらにもう一度少し前から弾き直したが、また同じところで引っかかり、頭に血がカーつと上ってもうなにがなんだかわからなくなり、口は渇き目はかすみ完全に舞い上がっていた。
カーンと鐘が鳴り、それまでで終わりという合図を受けた。
申し訳なくて、審査員席の朝倉先生のほうを見る余裕もなく、肩を落として退室した。
中山先生と初めて上田でお会いしたとき、一年くらいの勉強じゃ合格は難しいぞと言われた言葉を思い出しながら、無理に自分を落ち着かせて帰路についた。
しかし、まっすぐ家路につく気持ちにはなれなかった。
ブラブラと公園の坂を下りていくと、有名なアメ屋横町があった。
スピーカーから笠置シズ子の「東京ブギウギ」が流れていた。


 東京音楽学校受験-1

しあわせ
幸福を売る男

芦野 宏

東京音楽学校受験-1

昭和二十三年(一九四八)、呑まだ浅い受験当日、私はいつものように朝早く起きて仏壇に向かって父の霊に報告し、この日のために母が古い毛糸で編んでくれたベストを上着の下に着た。母が一針ずつ祈りをこめて編んでくれたベストは、あまり体裁のよいものではなかったが素直に着て出かけた。
心配をかけている母の心は、痛いほどわかっていたからである。
朝は早いので井の頭線は空いていた。久我山から吉祥寺へ出て中央線に乗り換えた。中央線はいつも進行方向の左側が見えるように乗る。市ヶ谷の堀を隔てた向こう側の高台に、私が育った懐かしい左内坂が見えるからだ。
さらにお茶の水と秋葉原で乗り換えて、上野駅公園口で下車し、公園を突っ切って学校に向かった。
1時間10分かかった。
1時間目は専門の歌唱で、『コールユブンゲン』のなかの1曲をその場で指定されて歌った。
そして、イタリア古典歌曲のなかから高1ソン・トウツタ・ドゥオーロ(嘆かわし)」を歌った。
なにしろ一人ずつ教室に入って歌わせられるのだが、審査の先生が十数人もいて、いずれも有名な声楽家の先生ばかりだから、あがらないほうがおかしいが、私はなぜかあまりあがらずに素直に歌えた。
終わってお辞儀をして出るとき、ちょつと中山先生のほうを見たら、先生が立ち上がって赤い顔をしているように見えた。きっと心配してくださっていたにちがいないと、申し訳なく思った。


しあわせ
幸福を売る男

芦野 宏

上野をめざす-2

私は再び神戸へ戻ってきた。
案の定、母宛に叔父から手紙が来ていた。絶対に戻ってくるようにと書いてあった。叔父に言えば必ずだめになることがわかっていたので、私は黙って急いで帰ってきたのだが、あの叔父の温顔を思い浮かべると、申し訳ない思いでいっぱいだった。
しかし、自分の決心はもうあとには戻れなかった。
私の決意を知った兄夫婦は、神戸を引き払って東京への移住を考えてくれた。そうすることが家族の全員に好都合だったのである。これをいちばん望んだのは義姉で、千葉の実家が近くなること、子供たちを東京の学校で教育すること、また私の母親も子供たちが全員東京周辺に集中していたから、願ってもないことだった。
私にとっては上野の受験があったから、なおさらである。ただ、神戸の造船所を離れなければならない兄だけが、家族のためにいちばん大きな犠牲を払った。
兄が探して決めた東京の家は、杉並区久我山であった。有名な画家の建てた家で、大きなアトリエがあり、部屋数も十分だった。二科会の東郷育児郎から折れて奥に入った静かな住宅地で、向かいの島崎邸は島崎藤村の令息で画家の鶏二氏がアトリエとして使っていた。三月までに引っ越す予定だったが、遅れて五月ごろになった。広いアトリエのそばに応接コーナーがあ
り、そこにドイツ製のピアノが運ばれた。義姉は女子美術大学で油絵を習っていた人だが、この大きなアトリエはダンス教室に使う目的であった。
ここで私が神戸の家で先生に習ってきたダンスの基礎を初心者のために教えた。昼間は遠慮なくピアノの練習ができ、一週に一度、歌を世田谷の中山悌一先生のお宅までレッスンに通い、ピアノは奥様である朝倉靖子先生に習った。夜はレコードをかけてダンス教室を開いたが、時代の波に乗って大繁盛し、神戸の家でやったときよりずっとうまくいった。
義姉の考えた計画が予想以上にうまく当たって、私はダンス教室のアイドル的な存在になり、休憩時にはピアノを弾いて歌った。ダンス教室は私の学資稼ぎのためという錦の御旗を立てていたが、私は毎晩の収入を全部渡して兄からその一部をもらっていた。それだけでも相当な金額になっていたし、進駐軍のエレメンタリー・スクールで子供にピアノを教えたりして、けっこう小遣い銭には因っていなかった。
久我山には文化人が多く住んでいて、歩いて五分くらいのところに上野の研究科に籍を置くソプラノの石田莱先生がおられ、ときどき基礎の勉強を見ていただいたが、彼女の紹介で同級の石津憲一先生にも見ていただいた。あのクラスは有名な先生方が多く、作曲家の圏伊玖磨さんや声楽家の伊藤京子さんもみな石田先生の同級生であった。東京に出てきて、私は昼間は
音楽の勉強、夜は自宅でダンスのアルバイトという生活が続き、やがて音楽学校受験という大きな山場を迎えるわけである。

 

 


上野をめざす

しあわせ
幸福を売る男

芦野 宏

上野をめざす

上田市公会堂で独唱会を聴いてから、胸の中でなにかが激しく変化していくような気がした。
もう私の決心はついた。
中山先生に私が声楽科を志望しでいることを桑原さんから話してもらうと、先生は意外と簡単に教えてくださることを約束してくれた。しかし、一年くらいの受験勉強では無理だから、できるだけ早く上京するようにとのご忠告もいただいた。
上田にいても、足が地につかない毎日だった。ここにいたら受験勉強ができないからである。
十一月二十三日、秋の大運動会が行われ、私は学生代表で実行委員にさせられた。一年下級生の上野君は音楽大好き人間で、彼のお姉さんは「からたち合唱団」のメンバーであり、ピアノも弾ける人だった。それで彼にお願いして、お姉さんにピアノを受け持ってもらい、私が作詞作曲した「秋空晴れて」という曲を開会式典のあとで歌うことにした。
′だれにも言わず密かに決心していたこと、それはこの歌を思いきり大声で歌い、これを最後に学校と別れることだった。
運動会は盛大だった。好天に恵まれ、学生たち有志によってこの歌が歌われた。
「常田(ときた)の丘に 秋空晴れて いま若者よ とび立て自由の大空へ」
大して良い歌ではなかったが、これでお別れだと思ったから声の限りに歌った。
翌日、ひっそりと私は上田を去った。退学届は封筒のまま教務課に出してきた。


 中山悌-との出会い

しあわせ
幸福を売る男

芦野 宏

中山悌-との出会い

昭和二十一年(1946)十一月の未、中間試験の終わったころだったが、長野県上田市の公会堂で中山悌一独唱会が開かれた。
上田城跡の隣にあるその建物は、古びた木造の二階建てでゴザを敷いた二階が会場である。
聴衆は自分の履き物をそれぞれ持って階段を上っていく。
「走らないで下さい」と大きな紙に書いて貼ってあるのは、建物が揺れると天井が抜けたりして危険だからである。実際、急いで歩くとユサユサ揺れたりする不気味な会場だった。
戦後まもないころ、音楽芸術に飢えていた人々が集まり、私はいちばん前に座って固唾(かたず)をのんで聴き入り、本物の芸術にふれた思いだった。その感動はいまだに忘れることができない。
初めて聴く本格的な声楽、全身に電流が走ったようだった。曲目はシューベルトやブラームスの歌曲で、比較的ポピュラーな曲が多かったが、朗々と歌い上げて聴衆を圧倒した。アンコールにはロシア民謡の「紅いサラファン」を日本語で歌われた。完壁な発声と発音はすべて素晴らしく、ぞくぞくするような感動をおぼえた。高音から低音まで粒がそろっている。しかも歌詞によって、すなわち口のあけ方によって音色が変わらず、淡々として無理のない、ほとばしるような声、これこそ芸術だと思った。これこそ私の探し求めていた世界だった。
中山先生の前座に、上野を卒業したばかりの新人歌手としてオペラのアリアを歌った桑原瑛子さんは、同じ小学校の一年上級で、しかもたいへんな美人。私と同じように学芸会で毎年歌わせられていたが、彼女は学芸会のスターだった。私も四年生のときレコード吹き込みの申し出にあったが、同じころ桑原さんも申し込みを受けたようで、NHKのラジオからは彼女の歌声が流れていたのを思い出す。その桑原さんが立派に上野を卒業され、注目の新人として上田に来る。私は胸をときめかせて、その日を待っていたのだった。
終演後、高嶋る胸をおさえて楽屋を訪ね、桑原さんから中山先生を紹介してもらった。そして上京したら入門させていただくことを約束され、私は小躍り七た。
(注)音楽、美術関係の話で「上野」とは東京音楽学校、東京美術学校のこと、昭和二十四年五月に東京芸術大学音楽学部、美術学部となる。通称「芸大」のこと。


インフレのなかで-4

しあわせ
幸福を売る男

芦野 宏

インフレのなかで-4

義姉が一軒ずつ電話をかけてくれた。
「モシモシ、じつは主人の弟が信州から帰ってまいりまして、ハムを持って釆ましたの。アルバイトですので助けてやってくださいませ」といった調子である。兄によく似た私が学生服を着て運ぶのだから、信用しないわけはない。おもしろいようによく売れた。こんどは単価が高いから儲けのほうも大きかった。
二か月近い夏休みも、そろそろ終わりに近づいていたが、義姉はさらにもう一つの計画を心に描いていた。それは自宅を開放して、社交ダンスの教室にすることであった。私が帰る前にということで、八月の半ばから先生を招いて私も生徒になり、兄も義姉も、そして近所の人や知り合いの人も遠方から釆た。そういうことに飢えていた人たちが大勢釆たので大繁盛だったが、まさか兄や義姉が受付に座るわけにはいかないから、客から集金するのは私の役目だった。
私は自分の夏休みを延ばす決心をして学校に届けを出し、十一月の試験までに間に合うよう帰ることにした。
神戸の家はドイツ人が建てただけあって、・フローリングがしっかりしていたが、間仕切りに段差があり、ドアを開けてもダンス教室には不都合だった。それでも週末にダンスパーティーと称して一般公開すると、五〇人以上の人が集まり、一人わずかな金をとっても一晩で相当な金額になり、ばかにできない。
汗水流してかつぎ屋をすうりずっと割がよかったのである。
なぜこんなことまでして、私は働いたのか、普通の生活をしでいれば平凡に生きていけたものを‥‥‥。
じつは白状すると、私の心の中にはいつもモヤモヤした不満が渦巻いていた。ぬるま湯につかったような生活はもうまっぴらだった。信州に帰ったらだれもが優しく迎えてくれ、黙っていても卒業でき、平凡なサラリーマン生活が待っている。
叔父は、そんなに好きなら音楽を趣味にしてやりなさいと言ってくれた。
松尾町の兎束春子先生の主宰する「からたち合唱団」にも紹介してくれた。
若い女性たちと一緒で楽しかったが、それでもまだモヤモヤした不満は解消しなかった。


 インフレのなかで-3

しあわせ
幸福を売る男

芦野 宏

インフレのなかで-3
懐中電灯の細い明かりでは、私が体いっぱいに飴を隠していることがわからず、汽車はやっと走りだした。
もう釆ないだろうという同乗のかつぎ屋の言葉を信じ、私はまた元のようにリュックに飴を納めると、ぐつすり眠ってしまった。
朝早く神戸に着いて、私はすすだらけの顔で悪臭のしみついた衣服のまま、わが家の裏口から入っていった。
高い石垣の上に立つハイカラな洋風の邸宅に入るところを人に見られたくはなかった。しかしあれ以来私は、いわゆる問屋、かつぎ屋といって非難する気取った人種よりも、恥を恐れず体当たりで生きようとする人たちのほうに共感をおぼえるようになった。ほんとうにあのころは、みんな一生懸命に生きていた。食べるために働き、傷つきながら生きてきたのだ。
ダンス教室の手伝い′銚子からすすまみれになって神戸に帰ったとき、胴巻きの中に残った大金と大量の芋飴はすべて義姉に渡した。義姉から教わったことを実行しただけで、自分一人でこんなことができるわけはない。身近な周りから、こんなにまでしなくてもという非難の声も聞こえたが、私は尊い経験をさせてくれた義姉に心から感謝している。自分だけではどうしても思いつかないこと、まして声野家のどの一人をとってみても、こんな大胆な発想はわいてこない。さすが大里庄治郎の長女だけはあると思った。
芋飴がすっかり売れたので、義姉はさらに別のことを考えた。知人からハムを仕入れて売ることである。賛沢に慣れている神戸のお金持ちの人たちが、それをほしがっているのを知ったからである。
今度はボロ服を着たかつぎ屋の役ではなく、私は学生服を着ていればよかった。


インフレのなかで-2

しあわせ
幸福を売る男

芦野 宏

インフレのなかで-2

天井はあっても窓のない貨車は、暑さと息苦しさで失神しそうになったが、夜行列車だったから比較的すいている。
さらに銚子まで乗り継ぐとちょうど昼ごろになる。
私はすすだらけの汚れた顔で大里家の裏口に立った。
顔馴染みのお手伝いさんが気をきかせて、さっそく風呂をわかして入れてくれた。
座敷に通されて刺身と味噌汁で白いごはんを腹いっぱい食べさせてもらい、とても嬉しかった。
さらに嬉しかったのは、大里庄治郎氏が長靴を全部買い取ってくれたうえ、学資の足しにしなさいと、金一封をくださったことだ。ばくは胴巻きの中に、持ったこともない大金をしまい込んで厚く礼を述べ、帰ろうとすると、「どうだ、銚子の芋飴を持って行くなら手配しょう」と言ってくれたので、私は二つ返事でお願いした。
片道だけの商売でなく、往復で商売ができるからだ。
帰りの列車は来るときより混んでいてたいへんだった。
窓から乗り込むこともできたが、私は比較的すいている貨物列車を選んだ。
帰りの貨車は動物を運んだものらしく、尿やふんの臭いが充満していた。だから空いていたのかもしれない。
電灯もなにもない真っ暗な箱の中で、それでも私は自分の座る場所ぐらいのスペースを見つけ、芋飴のいっばい入った大きなリユツクサックによりかかってウトウ卜していた。
横浜あたりで列車がばかに長く停まっていると思ったら、だれかが手入れが始まったと知らせてくれた。
大きな荷物を持っている者は、みな調べられるのだ。とくに闇米の運搬が、この夜行列車ではいちばん多いからである。
私はドキッとして自分の大きなリュックを見た。
これは調べられると思ったので、暗闇の中でリュックの中から長さが半メートルほどの大きさの飴を一本ずつ抜き取り、自分のズボンに入れた。ダブダブの兵隊ズボンはゲートルを巻かなければ足元まで使える。
両足に一〇本ぐらい入れて腰の回りにも入れた。
貨車の壁ぎわに立って二、三本しか入れていないペチャンコのリュックを出して見せた。

 


インフレのなかで-1

幸福を売る男

芦野 宏

インフレのなかで-1

戦争中に亡くなった父は、私の学費として二〇〇〇円残してくれたそうだが、封鎖預金にされていた。
そして戦後のひどいインフレで経済的には窮迫状態であり、たちまちわれわれの日常生活を脅かしはじめた。
義姉(咲子)は千葉の銚子で何代も続いた商家の長女で、兄とは見合い結婚である。
実家の父親・大里庄治郎は婿養子であったが、新たに事業をおこし、電鉄、運送、ホテルと次々に成功させて、千葉県の名士となっていた。その娘である義姉は父親似で、戦後のインフレを乗り切るすべを心得ているような、才覚のある女性であった。
当時、神戸元町のガード下は有名な闇市で、金さえ出せばなんでも手に入るところであった。
神戸にはゴム長靴を作る工場があり、商才にたけた義姉は神戸の長靴を銚子の魚市場に持っていって商売してみないかと、私にすすめた。昔の私なら、やれなかったかもしれない。しかし、10ケ月の兵役で泥まみれの生活をさせられてから、私はなんでもできる人間になっていた。
復員のとき着て帰ったダブダブの兵服に大きなリュックを背負い、貨物列車に乗って長靴を運んだ。
東海道線は京都を過ぎると長いトンネルがあり、息ができないくらい煙が入ってくる。


歌手「岬道夫-3

歌手「岬道夫-3

芦野 宏

信州の空は美しく、山も木立も生き生きとし、川の水は清例だった。
学校では叔父の一番弟子である関助教授が特別に目をかけてくださり、ありがたかった。                  しかし、私の中に住みついている一匹の虫「音楽好き」は、どうしても退治できるものではなかった。
心の中にはいつもピアノが住んでいて、想像で音を探したり弾いたりしていた。
また、このころは、ピアノをたたくと音の出ない夢をよく見た。
庭の真ん中の草むらの中にピアノがあって、雨ざらしになっている。
あわてて鍵盤をたたくとまったく音が出ない。
そんな夢を何度見たことだろう。
夏休みがきて、私は母のところへ帰ろうと思ったが、母はもう山形にはいなかった。
神戸に住んでいる長兄のもとに移っていたからである。
ひどいインフレのなかで、働かないで生きてゆくことはとても難しい時代だったから、仕方ないとは思ったが、私は母の転居はなんとなく気が進まなかった。
父が亡くなったあの部屋に、母が一人住まうわけだが、まったく馴染みのない土地に移りたくない母の気持ちがよくわかっていたからでもある。
しかし、兄の気持ちもよくわかっていた。
父がわざわざ私を連れ神戸まで釆て長男の家で他界したということが妙に因縁めいてけて、まだ未成年であった私と母のこれからを兄に頼んだぞというふうに受け取っていたからである。
兄夫婦は洋館に住んでいたが、兄は母を日本館に迎えて、生活を保障したのだ。
学校の夏休みは長かったが、私は懐かしい東京は素通りして母のいる神戸の家で過ごすことにした。
母はご隠居様扱いぎれるのをとても嫌うほど、たいへん元気であった。
神戸の家は戦火にあわなかったから外観は昔のままだったが、内情は火の車であった。
戦後の食糧難は兄の給料では賄いきれるものではなかった。
育ち盛りの二人の子供(玲子、威彦)、母の世話、それに広い屋敷も雑草が茂っていた。


歌手「岬道夫-2


歌手「岬道夫-2

・ところで、ステージに立って聴衆の前で歌ったのは、小学校の・学芸会以来の出来事だった。
人気が出てきて大衆に支持される∴とは嬉しかったが、映画館のアトラクションで歌ったことが知れると、父は亡くなっていても、親戚一同が黙っていない。なにしろ声野家も簡生家も誇上田蚕糸専門学校「学園祭」でフォスターなどを歌う(柑46.9.2)
り高き一族なのだ。娘の縁談に差し障りがあると言いだす人も出てくる始末だった。母は、私に対してただ一人の理解者で、上野の音楽学校へ入学することをすすめた。そんなに好きならぜひ勉強して学校に入りなさいと言ってくれたのだ。卒業したら外国に留学して、将来は母校の教授として残るつもりになれば、だれも非難はしないだろうからと言ってくれた。
私はちょうど潮時だと思って、一か月ほどで映画館の仕事をやめた。
四月から蚕糸専門学校で学ぶことを理由にとにかくもう一度上田に戻ることにした。
父は 「やあ、おめでとう。無事で帰ってきてよかった。君は学校のホープだから、敢張ってやってくれ」と手放しの喜びようであった。


歌手「岬道夫」-1


2 青春くもりのち晴れ

焼け跡に立って-2

世の中は一変して、東京にGHQ(連合国軍最高司令部)が置かれ、地方都市にもジープを走らせる進駐軍の姿がちらほら見えはじめ、ラジオや巷にジャズや流行歌が復興してきた。
私上田に帰るとしても四月の新学期からだと思い、約半年の聞ここで生活することにした。
初めて過ごした山形の冬は長くて、鈴川は道もわからぬほどの雪に埋もれた。
年が明けてから、新聞広告で楽団員募集、仕事は映画館のアトラクションという記事が目にとまり、どうせ暇だから応募してみようと思った。
こちらはまったくの新人、それが順番を待って、一曲歌ってみたら合格してしまった。
その場で主催者から要請され、私は無理やり審査員の席に座らされていた。
歌手「岬道夫」-1

山形でいちばんといわれる映画館・霞城館で、さっそく私は歌うことになった。伴奏はギターの工藤源一さん、ヴァイオリンの木村晃治さん、アコーディオンの結城貞一さん、それにドラムとピアノが入ってクインテットの編成だったが、名前はフリーアンサンブルと名づけられた。
私は「コロラドの月」「谷間の灯」などを英語で歌い、日本の歌は「波浮の港」などを歌った。
応募してきた若い女性歌手も歌ったが、私の歌には進駐軍の兵隊がヤンヤの喝采を送った。
英語の発音は成城中学時代エリック・ベル先生から直伝のものだし、挨拶や歌の解説も得意の英語でやったから、大受けに受けた。出演料は安かったが、私のストレスは一気に解消して人生がバラ色に輝いた。
また戦没道家族慰安会では、私の歌に山形随一の人気芸者・金太郎が賛助出演で「波浮の港」に創作舞踊をつけて踊ったこともあった。
こんなことになろうとはうすうす予感していたので、私は自分で流行歌手らしい「岬道夫」という名をつけて世間を欺いた。
ところが、わずか三か月ほどで、この仕事をやめなければならないことになった。
偽名を使っていたにもかかわらず、昔わが家で働いていた人が、声野さんのバッチ子(末っ子)が映画館で歌っていると親戚にふれ回ったからである。
ほんとうは生まれも育ちも東京の私だが、父の出生地、母の疎開先という緑で山形児出身ということになっている。
(注)芦野宏はのちに喜劇俳優・伴淳三郎の跡を継いで、芸能人山形県人会の二代目会長を務める。伴淳さんは「あゆみの箱」を創設し、のちに森繁久弥会長にバトンタッチされた。芦野は理事就任と、チャリティ活動により二十周年表彰を受けた(昭和五十七年)。


焼け跡に立って-1


2 青春くもりのち晴れ

焼け跡に立って-1

昭和二十年(1945)八月に敗戦を迎えたとき、戦時中よりさらにひどい食糧難と物価高が押し寄せてきた。
東京はとくにひどい状態であった。大きな荷物をかついで歩く人や、大八車(二、三人で引く荷物運搬用の車)にがらくた荷物を載せて運んでいる人たちが目についた。
ところどころに焼け残った家や緑が悲しそうな表情をして泣いていたが、人々はもうだれも泣いてはいなかった。
気がついたら、自分自身も重い荷物を‥背負って歩いていた。兵営から解放されて塀の外へ出るとき、自分の使っていた毛布や衣類を持って帰ったからである。そんなものが貴重品だったのだ。
焼け残った北浦和(埼玉県)に長姉がいたので、私はその荷物をかついでたどり着き、一晩泊めてもらい、翌朝母が疎開していた山形へ出かけて行った。かついできた荷物は庭の防空壕にあずけて身体一つで汽車に乗ったのだが、各駅停車のひどい車両で窓から出入りしなければならないほどの混みようだった。
それでもなんとか、山形市外で間借り生活をしていた母のとろまでたどり着き、一年ぶりでゆっくり風呂に入ることができた。
母の疎開先は山形市郊外にある鈴川村の双月というところで、夜空に映える月と、家の前を流れる馬見ケ崎川の川面に映る月影とに由来する地名だということである。朝夕には紫色の靄(もや)が出る美しい田園風景であった。
退役陸軍将校夫妻の邸宅の奥座敷を二間借りていたが、ここは北山形の駅も近く、山形市内へも徒歩で行ける便利な場所で、なによりも周囲の環境が抜群だった。


世相の変化と母の心-2

世相の変化と母の心-2

芦野 宏

幸い入試の成績が上位だったらしく、叔父は学校中にふれ回って甥の自慢をして大喜びしていた。しかし私の心は、少しも嬉しくなかった。徴用で働かされるよりはましだと思ったくらいで、自分の希望する学科もないので、ただ成り行きに任せていた。
それでも信州の風土は美しく、人情は優しくて、私もだんだんこの町が好きになっていった。
だが、平和でのどかな信州の学園生活も長くは続かなかった。恐れていた徴兵令が釆たからである。いわゆる赤紙というやつである。これ一枚で日本人はみな奴隷にされるのだ。個人の都合や家庭の事情などは無視され、定められた日に決められた場所へ行き、身体と心をすべて国に捧げるのである。
東京から母が釆て叔父の家に一泊し、翌朝十時発の上野行き急行で二人は上京した。叔父の体面を考えて青いラインの入った二等車に乗ったが、母から「海行かば」だけは歌わないでほしいと見送りの友人や先生方に申し入れてあったので、ただ万歳三嶋だけで汽車は足りだした。
母はこの歌が大嫌いであった。
「海行かば水漬く屍 山行かば革むす屍 大君の辺にこそ死なめ 顧みはせじ」
とんでもない歌である。まるで死を美化して国民の心を麻酔にかけるような歌だ。母は断固として拒否した。

九月の暑い日、神戸から出てきた長兄と母に付き添われて千葉のほうへ行き、私は高い塀の中に入れられた。三人の兄たちはいずれも軍関係の技術者であったから、だれも応召していない。なぜ、この私だけが……と思ったが、運命と思って諦めた。兵営の中の生活はちょうど一年続いたが、すべて上官の命令に盲従しなければならない世界であり、自我というものは抹殺された。子供のころから甘やかされ、わがままに育ってきた私にとって、想像を絶する苦い経
験となった。
後年、芸能界にデビューしてから、良いことばかりではなく厳しい現実にもたびたび出合ったが、自分の中にあのころのつらい体験があったからこそ乗り越えることができたと思うこともしばしばである。


世相の変化と母の心-1

幸福(しあわせ)を売る男

芦野 宏

世相の変化と母の心-1

世の中は平和を願う庶民の心を無視して、どんどん思わぬ方向へ進んでいった。
どうしようもない時の流れに身を任せるよりほかにないのである。
私がのちにシャンソン歌手となり、フランスの歴史を知るようになってから、パリ市民のレジスタンス精神にふれ考えさせられることがたくさんある。それにしても、あの昭和十八、十九年ごろのヒステリックな、今にして思えば滑稽なまでの国民全体の行動はなんだったのだろう。
そのころ、受験に失敗して浪人生活を送っていた私は予備校に通っていたが、見たちと違って理科系の不得手な私は、受験が苦手でとうとう二年目の浪人生括に入っていた。そんな時とつぜん徴用令が舞い込んだのである。
浪人は働けという国の命令である。私は国民服を着せられて工場に泊まり込みを命じられ、勉強などする余裕は奪い取られた。
そのころはすでに三人の姉も嫁ぎ、三人の兄もそれぞれ結婚していたから、母の心は私だけに集中していた。学業半ばにして不本意に働かなければならぬわが子のため、つてを頼りの嘆願書が効を奏し、私は三日間の徴用で釈放された。
母の弟つまり私の叔父・蒲生俊興が、長野県上田市にある上田蚕糸専門学校(現・信州大学繊維学部)の教授をしていたことから、「物騒な東京を離れ、疎開の意味も含めてあずかってほしい」と手紙を書いた母の希望どおり、昭和十九年(一九四四)四月から私は上田で勉強することになった。

 


平和な家庭-3

平和な家庭-3

芦野 宏

昭和十六年(1941) には、大東亜戦争 (アジア太平洋戦争)という名のもとに日本軍が米国ハワイの真珠湾を一方的に爆撃した。しかし、その後数か月のうちに小笠原島が米軍によって爆撃されていることを日本人はほとんど知らなかった。
父は重役をしていた村井銀行が倒産してからは、いくつかの会社で顧問をしていたが、東京湾汽船と小笠原電気では責任ある立場にあったらしい。小笠原の爆撃により工場が壊滅したことを知ったとき、大きなショックを受けていたことは記憶している。気分転換に旅に出ようと
言いだして、大学受験に失敗して浪人生活をしていた私を伴い、かつては父が貿易商として出張の多かったところで、今は長男の住む神戸へ出かけた。神戸市垂水区には、その長兄の義父・大里庄治郎の援助を受けて買った広大な屋敷があり、本館はドイツ人の建てた古い建物だったが、部内に純日本風の離れを新築して別荘のように使っていた。
十一月の初めだったが、その年は寒さが早く訪れて寒い日曜日であった。兄はわれわれ二人を船に乗せて親孝行をした。しかし、その晩から父は風邪で発熱し、私は中耳炎で高熱を出し、二人とも寝込んでしまった。私が耳の切開手術をしたとき、父はまだ元気だったのに、その後急性肺炎から尿毒症を併発して三日後に帰らぬ人となった。母が東京から駆けつけて臨終には間に合ったものの、あっけない最期であった。結局、父の死に目にあえたのは、兄弟のなかでは長兄と私だけであった。


平和な家庭-2


平和な家庭-2

芦野 宏

米不足から考え出された大根めしやすいとん。お腹をすかせながらも勤労奉仕の毎日を、天皇陛下の命令として、だれ一人疑う者もないかのごとく黙々と働いていた。
ところで、ベル先生は私が上級になるころから敵性人物として監視されるようになり、沼津市の精華学園長・秋鹿敏雄氏の庇護を受けていた。今は先生の大好きだった富士山のよく見える沼津の丘に眠っておられる。後年、偶
然かもしれないが、日本・ニュージーランド・フレンドシップ協会からオークランドでの親善コンサート出演の招待を受けたとき、私は沼津のベル先生の墓にお参りしてから旅立った。
そのコンサートは平成元年(一九八九)六月五日の夜、オークランドで最高級のリージエント・ホテル大宴会場で行われた。プログラムの世界歌めぐりは、斎藤英美氏がエレクトーン一つで琴の音による六段の調べ、南米パラグアイのインディアンハープ風、フランスのシャンソ
ンをアコルデオンの音色で、そしてスコットランド民謡を混声合唱のように、それぞれを多彩に華麗に奏でて聴衆を圧倒した。それにヴォーカルはソプラノの木村仁さんがカンツォーネと日本の歌を、私がスペインの歌とフランスの歌を歌った。最後はマオリの歌「ポカレカレア
ナ」を会場全体が一つになって大合唱となり、いやが上にも盛り上がり、翌日の新聞にはその盛況ぶりが報じられた。私はこんなかたちで日本・ニュージーランド親善に尽くすことができ、しきりにベル先生のことを思い出していた。


 平和な家庭-1


平和な家庭-1

芦野 宏

転校して新しい小学校に入ってからは、先に述べたように、私は学芸会で必ず歌わせられて評判になり、NHKやレコード会社から学校の音楽担任を通して出演依頼があった。しかしいずれも、父の反対で実現しなかった。私の音楽に対する憧れはますますつのり、ピアノの音は
いつでも自分の頭の中で弾きながら歌に合わせて鳴り響いていた。
平和で楽しい日々が続き、夏休みには兄弟姉妹だけで千葉県大貫町の海の家で生活していた。
長男と長女が団長となって弟妹を引率し、子供たち七人はそれぞれ自分自身の行動に責任をもたされた。ときどき東京の菓子を持って両親が見まわりに来るときがなによりの楽しみだった。
この計らいは兄弟姉妹を団結させ、社会勉強をさせるという、目に見えないたくさんの恩恵を与えてくれた。八月の末に東京へ帰ると新学期が待っている。兄や姉が勉強するから弟妹たちもそれをまねて、よく勉強したものである。
今でもわれわれは年に二回、五月の母の命日と十一月の父の命日を中心に、必ず集まって昔話に花を咲かせる。
中学校は三人の兄と同じ新宿・成城中学校で、家からは徒歩通学で二〇分くらいであった。
私のいちばん得意な学科は英語で、ニュージーランドのクライストチャーチから来日していたエリック・S・ベル先生が英語の先生であった。これは兄たちが家に帰ってから勉強している英語を聞きながら育ったせいだろうと思うが、いつも満点であった。一度だけ英作文で九九点をとり汚点がついたと悔しがったほど、英語にだけは熱中した。当然のことながら、ベル先生は特別に目をかけて指導してくださったのだろうと思っている。
しかし、当時はしだいに戦時色が濃くなってきたころだったから、中学校は軍人養成所みたいで、軍事教練や勤労奉仕のようなことばかりさせられていた。そのうちに日中戦争が勃発。
音楽や絵の世界は無視されて、一億火の玉になって無駄な戦争に遇進する時代に入った。「警戒警報発令」。そんな叫び声のなかで室内灯には黒いカバーをかぶせ、非常用リュックを背負って、いつ来るかわからない敵機の襲来におびえていた。窓ガラスには縦横十文字に紙を貼り、今にして思えばなんの役にも立たない竹槍訓練やバケツリレーをさせられる。人間はその渦中に置かれると、目前のものしかわからなくなるものである。それにしても、あのころの食生活はひどいものであった。


デビューまでー3

デビューまでー3

芦野 宏

小学校二年生まで、桜の木のある懐かしい薬王寺町の家にいたが、三年生からは市ヶ谷駅に近い左内坂上に引っ越した。ここで子供たちは
一人ずつの個室を与えられ、独立心をもつように教育された。
高台にあったから空気もよく、夏の夜は両国の花火が部屋の中からよく見えた。
ただ広いだけでとりとめのない前の家と違って、今度の家は二階に子供たちの個室がずらりと並んでおり、二階にも洗面所があって、なかなか便利な間取りだった。一階は両親の部屋と 一家団欒(だんらん)の間で、当時はテレビもない時代だったのに、退屈をしない楽しい思い出ばかりである。
玄関と内玄関の間にこぢんまりした応接間があったが、そこには必ずあるべきものがなかった。
いずれ運んでくるだろうと思っていたのに、ついにピアノは来なかったのである。姉たち三人はピアノに未練はなかったが、母と私だけは反対した。しかし結局、父の命令に従うことになった。
父は私がピアノに熱中して勉強しなくなることを恐れていたのだという。
「埴生の宿」
埴生の宿も わが宿
玉の装い うらやまじ
のどかなりや 春の空
花はあるじ 鳥は友
おお わがやどよ
たのしとも たのもしや
詞 里見 義
曲 R・ビショップ

ピアノのない家に住んでみると、母がよく歌ってくれた歌を思い出して、一人で歌ってみる
ことが多かった。「埴生の宿」という意味がよくわからないまま、私はこの歌ばかりが心のど
のど
こかに生き続けている。母はちょっと咽喉を締めた昔風の発声で、ピアノをたたきながら、よ
くこの歌を歌ってくれた。ヴァイオリンを習っていたから、歌のほうは専門に勉強したわけで
はないと思うが、このほかに母の歌で覚えているのは「庭の千草」と怪しげな発音で歌う英国
の歌であった。音楽が好きな人であったと同時に、ハイカラな人であったにちがいない。
むなだか
セピア色になった古い娘時代の写真を見ると、はかまを胸高にはいてヴァイオリン片手に振
られているものがあり、当時流行の編み上げ靴をはいている。結婚してからしばらくは、先に
もふれたように、東京音楽学校のお茶の水分教場に通っていたが、子供ができてからはやめた
と開いている。

 


デビューまでー2

デビューまでー2

芦野 宏

父・芦野太蔵は、明治十九年(一八八六) 山形児村山市でひろく呉服商を営む、芦野民之助の一人息子として生まれた。
しかし、わずか九歳で両親を失った父は、後見人によって育てられながら、相続した山林や財産の大半を失い、孤独な青春を送っていた。母・梅は岐阜県出身の裁判官であった蒲生俊孝の次女として茨城児水戸市で生まれたが、たまたま山形地方裁判所の判事として赴任した祖父 (俊孝) について山形へ来たとき父と出会った。
当時、黒田清輝の弟子の一人として東京美術学校(のちに東京音楽学校と統合して東京芸術大学)の油絵科に籍を置く母の兄・蒲生俊武は、父・芦野太蔵と友人であったことから交際が始まり、二人は恋に落ちた。東京へ出てきた二人は、お茶の水近くに居を構えて、母は千代田区の錦華小学校(平成五年、近隣二校と合併して、お茶の水小学校と改称)で児童を教え、父は明治大学に通っていた。
音楽の好きな母は、当時お茶の水にあった東京音楽学校の分教場でヴァイオリンの授業も受け、はかま姿に編み上げ靴をはき、自転車に乗って通学したほど進んだ女性であった。
それにひきかえ、父は頑固一徹の融通性のない男で、まったくの音痴であった。しかしそれだけに学業に専念したせいか、卒業のときは最優秀で金時計をもらっている。


デビューまで-1

 
さて、これから皆様にお目にかける拙文は、記憶をたどりつつ綴った自分史である。しかし、
記憶というものは怪しいもので、私の思い違いも大分あることに気がついた。
そこで、懇意のシャンソン愛好家に当時の新聞・雑誌等の記事や年表をもとに史実との整合
をしてもらい、(注)として、説明の補充、空白の埋め合わせなどをお願いした。読み進まれ
るときのご参考にしていただければ、幸いである。

デビューまで-1

芦野 宏

1、生いたち

歌の好きな子供

親類縁者にはだれ一人音楽をやる人間がいないのに、私は小学校に入るころから歌うことが好きで、初めて大勢の人の前で歌ったのは、小学校三年生の学芸会の舞台である。「春の小川」を独唱させられたと記憶している。学芸会には、四年生、五年生のときも歌わされたが、曲
目の記憶はさだかでない。

「春の小川」
詞 高野辰之
曲 岡野貞一

春の小川は さらさら流る
岸のすみれや れんげの花に
においめでたく 色うつくしく
咲けよ咲けよと ささやく如く

たしか四年生のときだったと思うが、音楽の平松たか子先生が家の応接間に現れて、母と話しているのに聞き耳を立てていると、母が丁重に謝っているのが聞こえた。「私は理解しているのですが、主人が許しませんので……」。
それは某レコード会社からの吹き込みの申し出であったが、男子のすることではないという父の一言で中止になった。
あのとき要請を受けておけば、ボーイ・ソプラノの声が残されていたのに、と残念である。
わが家では、姉たちのために週一回、東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)出身の牧野守二郎先生が家庭教師としてピアノを教えに来ていた。私は部屋の外で立ち聞きすることしか許されなかったが、先生が帰ったあと、三人の姉たちの前で上手にその日のレッスン曲を弾いてみせるのだった。
それでも父は振り向かず、三人の兄と同じように旧帝国大学に進ませるつもりであった。

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父・芦野太蔵、母・梅(1942頃)

父・芦野太蔵は、明治十九年(一八八六) 山形児村山市でひろく呉服商を営む、芦野民之助の一人息子として生まれた。
しかし、わずか九歳で両親を失った父は、後見人によって育てられながら、相続した山林や財産の大半を失い、孤独な青春を送っていた。母・梅は岐阜県出身の裁判官であった蒲生俊孝の次女として茨城児水戸市で生まれたが、たまたま山形地方裁判所の判事として赴任した祖父 (俊孝) について山形へ来たとき父と出会った。
当時、黒田清輝の弟子の一人として東京美術学校(のちに東京音楽学校と統合して東京芸術大学)の油絵科に籍を置く母の兄・蒲生俊武は、父・芦野太蔵と友人であったことから交際が始まり、二人は恋に落ちた。東京へ出てきた二人は、お茶の水近くに居を構えて、母は千代田区の錦華小学校(平成五年、近隣二校と合併して、お茶の水小学校と改称)で児童を教え、父は明治大学に通っていた。
音楽の好きな母は、当時お茶の水にあった東京音楽学校の分教場でヴァイオリンの授業も受け、はかま姿に編み上げ靴をはき、自転車に乗って通学したほど進んだ女性であった。
それにひきかえ、父は頑固一徹の融通性のない男で、まったくの音痴であった。しかしそれだけに学業に専念したせいか、卒業のときは最優秀で金時計をもらっている。


夢の劇場出演ー6

夢に見た劇場出演ー6

芦野 宏

「幸福を売る男」が大流行したのもこの年で、私は毎日ステージでこの曲を歌い続けた。
この歌は、自分の心にも明るい希望をもたらしてくれるからだ。
薩摩さんが書き下ろしてくれたわかりやすい訳詞のせいか、皆に愛されて大ヒットし、私の結婚式でもお礼の歌として歌った。
当時人気絶境の林家三平師匠が、この歌詞を使ってお笑いのなかに組み込んでくれたりして、ますます人気は高まっていった。

「幸福を売る男」
かるい恋の 風に乗って
私は行く 青い空を
いかがですか 甘いシャンソン
いかがですか 夢と幸は
私どもの商売は 幸せ売る商売
夏も秋もいつの日も 歩きまわる仕事

あなた方が 笑うことを
この私を 涙などは
夢や愛や 忘れたとき
呼びとめれば 消えて笑顔
フフーフ‥‥‥‥フ一フフ‥‥‥‥・

訳 薩摩 忠                14
曲 J-P・カルヴェ

私はこの歌が大好きである。歌いながら皆さんに明るい幸せのメッセージを送る気分がたまらなく好きなのだ。
歌っているうちに自分の心とお客様の心が一つにつながってゆき、勇気が限りなくわいてくる。
歌はほんとうに不思議な生きものだ。私はこれからも歌とともに生きていきたい。


夢の劇場出演ー5

夢の劇場出演ー5

芦野 宏
ほんとうに歌は現実には見えない不思議な世界へ私を連れていってくれる。
アルゼンチン・タンゴ、カンツォーネ、シャンソン、ロシア民謡、ドイツの歌、英国の歌、スペインの歌、アメリカの歌。私は知らないうちに世界各国の歌を、思いもかけぬほどたくさん歌うようになっていた。私のレパートリーとして保存してある楽譜だけでも、1〇〇〇曲を
超えているから自分でも驚いている。
このたび、自分史のようなものを書いてみようと思い立って書きはじめてみると、思い出のなかに必ず歌が出てくる。口ずさみながら書いていると、次々にあの時代のことがよみがえってくるのだ。歌というものは、ほんとうに不思議な生きものである。書きつづりながら、改め
て歌の偉大さを思い、私の人生が歌に支えられてきたことを実感し、歌に感謝する気持ちでいっぱいである。

昭和三十五年(一九六〇) のNHK『紅白歌合戦』で歌った「幸福を売る男」は、あれ以来、私の大切なレパートリーとなり、私を勇気づけてくれる。
昭和二十八年(一九五三)、シャンソン歌手としてデビューし、「ラ・メール」「詩人の魂」をはじめスタンダード・ナンバーのあらゆる曲と取り組んできた私だったが、薩摩思さんとの出会いにより、明るく家庭的なシャンソンが自分の個性によく似合うと思うようになっていた。
だから昭和三十五年に世界一周の音楽旅行をした際に、進んで「フルーツ・サラダのうた」や「パパはママが好き」などの新曲を携えて帰国したのである。子供にも歌えるわかりやすいシャンソン「トム・ビリビ」「蜜蜂と蝶々」「夢の国はどこに」「青空にスケッチ」など、いずれも前向きの明るいものばかりを集めて帰ってきた。
一方、日本の情勢は、逆に安保改定問題で騒然としていた。六月十日、私が世界旅行から帰国する寸前から始まっていた学生デモは項点に達し、十五日ついに国会に突入した際、その騒動のなかで女子東大生が犠牲になるという痛ましい事態も起きた。揺れ動く世相、ましてその
ころ、労音の主催するリサイタルに連続出演するかたわら、大都市の華やかな大劇場で、帰国コンサートを続けなければならない私の心は動揺した。


夢の劇場出演ー4

夢の劇場出演ー4

芦野 宏

私がシャンソンを歌いはじめて以来、長いお付き合いを続けてきた薩摩忠さんから「歌から歌へ」の詩をいただいたのは、昭和五十一年(一九七六)のことであった。地方で芦の会(芦野宏後援会)を主催する方から、ぜひこの歌をという推薦をいただき、マシアスの原曲を聴いているうちに歌いたくなり、薩摩さんに訳詞をお願いしたら、こんな素晴らしい詩を書いてくださったのである。
「歌から歌へ」
訳 薩摩 忠
曲エンりコ・マシアス

明るい歌がまねく世界の国へと

歌の翼に乗ればどこへも行けるよ

あのゴンドラ漕ぎの歌は恋のヴェニスよ

ボサノバのリズムにのせて

リオの町カーニバル

(ルフラン)

歌は太陽だ 声のアーチ

歌は生きている 空を翔(かけ)る

みんなの住んでいる緑の地球

歌のリボンをかけて さあ飾ろう

楽しく歌いながら 世界をまわろう

カスタネットの音と ギターのセビリヤ

あのバラライカのひびきは 春のモスコー

この粋なシャンソンきけば 目に浮かぶシャンゼリゼ

 


夢の劇場出演ー3


柏手はなかなか鳴りやまず、自分もどうしてよいか戸惑っているとき、司会者が現れて次の曲を紹介してくれた。
今度は「ラ・メール」である。
日本では自分として最も自信のある歌だったから、落ち着いて歌えたつもりである。
しかし、間奏のときには、一曲目のときのような柏手は起こらなかった。
ちょっと物足りない思いだったが、後半を大きく盛り上げて歌い終わると、また激しいアプローズの嵐がわき起こり、アンコールの声がやまず、二度も三度もお辞儀をして舞台の中央に呼び戻された。
やっと舞台の袖に入ると、付き添ってくれて待ちかまえていた俳優のローラン・ルザッフルに抱き.かかえられるように促されてやっと楽屋に戻った。
「グラン・スエクセ、大成功でした。あれほど受けるとは思わなかった。あなたは東洋人として初めての成功者です」
と、ローラン・ルザッフル、谷洋子夫妻が祝福し暫くれた。
今までの迷いや不安が嘘のように消えて、ホッとしたとたんにどっと疲れ外出てきた。
それでも、終演後ジョルジュ・エルメール氏と一緒に写真を撮ったり談笑したりする余裕はまだ残っていた。
楽屋を出て小さな鍵を係の女性に返したとき、ほんとうに今日、自分はオランピアで歌うことができたんだと実感する余裕が出てきた。
昭和三十一年(一九五六) 十一月十四日、私にとって記念すべき日がやっと終わったのである。


夢の劇場出演-2


夢の劇場出演-2

芦野 宏

オランピアの舞台は、意外と間口が狭いのである。
五、六歩で中央まで行けるくらいで、これは練習のときによく計算しておいた。
一曲目が明るいテンポアップの曲だったので助かった。私はにっこり笑いながらこの曲を歌うことが出来たからである。
ワンコーラスを終わると間奏がある。私は思わず身構えてしまった。これまで経験したこともない柏手の嵐がきたからである。
「マ・プティト・フォリー」という曲だが、早口のフランス語で歯切れよく歌えたので聴衆が納得してくれたのだと思う。
全部で四コーラス、そのうち三コーラス目は主催者側の要望で日本語にした。
フランス人は意味がわからなかったはずなのに、このときも温かい柏手を送ってくれた。
四コーラス目のころは、自分でも納得するくらい落ち着きを取り戻して早口のフランス語をできるだけはっきりと発音して終わった。
どっとくる柏手と、「ブラヴォー」 の声援。初めての経験である。空気が動いて舞台に立つ私が、風圧を感じてたじろぐほどであった。 こんなアプローズ(喝采)は、その後インドや南米、もちろん日本でも経験したことはなく、一生に一度の思い出である。
のどの渇きをいやす暇もなく、何度も頭を下げて会場を見渡すと、オランピアの客席は奥行きが深くてずっと先のほうまで超満員であることがわかった。


幸福を売る男-1

しあわせ
幸福を売る男

芦野 宏
プロローグ

昭和三十一年パリ、夢の劇場出演

初めて訪れた晩秋のパリは、灰色の曇り日が続いていた。
その日も鉛色の重たい空気がよどんでいた。
朝からソワソワしてちっとも食欲がない。
なにもしないで寝ていようと思って目を閉じるけれど、少しも眠くない。
劇場は夜九暗からなのに、午後三時からオーケストラの音合わせがある。とにかく横になっ㌔いようと思って寝ている。
ギャルソンにポタージュと肉を運ばせて寝
ながら食べる。やはり食べなければならないから……。
昼ごろから一時間ばかりうつらうつら眠り、少し早めに支度して出かける。
オランピアの前に釆たら、私の名前が大きく出ていた。
横文字なのでピンとこないけれど、たしかにジョルジュ・ユルメールの上にでかでかと出ていた。
ロベール・リバの名前はその上に書かれていた。
昼間見る劇場はうす汚くて目立たなかったが、もう日暮れも近いせいか大看板の電飾はキラキラ輝いていた。
マドレーヌ広場に近いこの「オランピア劇場」は、シャンソン歌手の憧れの舞台であり、エディット・ピアフもイヴ・モンタンも、そしてジルベール・ペコーもこの舞台から全世界にメッセージを送ったのである。
日本でいえば歌舞伎座のような格をもつ劇場である。
初めて訪れたパリで、なぜ私がここで歌うことになるのだろう。
信じられないことだが、事実なのである。
だから恐ろしかった。
楽屋はこぢんまりした個室で、小さな鍵を渡されて待っていたが、不安な気持ちはつのるばかりである。
いつもの白い上着は持ってきていないので、黒いタキシードに西陣織の光るネクタイとカマーバンドを着けて舞台に出ることにした。
だれかが 「ムッシュー」と言って迎えにきたので、おもむろに出ていった。
少しもあがっていないふりをしてゆっくり歩いていったが、のどがカラカラに渇き、息苦しくて歌えないような気分になった。
こんなとき日本でなら必ずマネージャーか付き人がいて、「水」を一口用意してくれるのだ。
まだ間に合う。私は迎えの男性に「水、水がほしい」とフランス語で頼んだ。
びっくりしたような表情で、彼は私をトイレに案内したのである。
私はあわてて彼に言った。
「ソワフ」、のどが渇いているのだ、と。
にっこり笑った彼は、ブランデーの瓶を一本持ってすぐに現れた。
アルコールは一滴も駄目で、とくに歌う前はもってのほかである私は、諦めることにした。
もう舞台の袖では私の出番がきていたからである。
司会者が東洋の果てから釆たシャントウール・ド・シャルム (魅惑の歌手)、「イロシ・アシノ」と紹介している。
もうなにがなんでも歌わなければならない。
ああイントロが始まっている。

つづく・・・


ありがとういつまでも巴里

ありがとういつまでも巴里

あの日歩いた道を 今も忘れはしない

夢を見ているような あの眼差しさえも

コンコルドの広場で 歩き疲れた二人

それでも抱き合って 踊ったワルツ

セーヌの川岸で 走りゆく小舟に

ふざけて手を振った 若かったあの日

あれから世界中の旅を続けたけれど

どこの街にきても 思い出すパリ

ミモザの花咲くパリ マロ土エの散るパリ
l
冬の厳しささえも 懐かしいパリ
いつも私達を優しく包んだパリ

初めて私達が 出会った街だから

恋が芽生えたのも 愛を育てたのも

二人寄り添いながら 歩き続けた街
あの日であった道を 今も歩いてゆく

ありがとう いつまでも あたたかいパリ

ありがとう いつまでも 思い出すパリ