1、インタポ-ル
オペラ帰りの興奮が冷めない夜、葵と恵子はノボテル・ホテルの一室で日本から持参したパジャマに着替えてテレビを見ていた。葵は明るい白地に赤の縞入り、恵子は大柄な花柄イラストのパジャマで、二人とも寝るときまでも派手なのは性格上、仕方がない。
金髪の女性キャスタ-の語りが、音声多重の英語版ニュ-スで流れている。
「ニッポンのオギ財務大臣と秘書ら3名がパリで何者かに拉致されて行方不明になっています。うち1名の随員Mr・サコマルは死体で発見されました。犯人グル-プの身代金の要求額は米ドルで1千万ドルです。なお、このニュ-スは、合同通信社パリ支局を通じて世界各地に向かって打電されたもようです」
フランス政府が極秘にして解決への道を模索していた日本の小城財相誘拐事件は、こうして世界中の知るところとなり、パリの治安の悪さがアピ-ルされる形になった。フランス側ではすでに救出作戦を開始していると思われるが機密保持のためか、その経過は公表されていない。
「死んだ迫丸って人は、やっぱり小城財相の秘書だったのね?」
「でも、この小城大臣まで殺されたら国際的な大事件に発展すると思うけど」
葵が思い出したように恵子に聞く。
「同級生の美代とは、今でもメルトモだけど、フランスにいるの知ってる?」
「美代って、神奈川県警に入って麻薬捜査官になった浜美代のこと?」
「その美代が、リオンにあるインタポ-ル(国際刑事警察機構)の本部に1年研修とかで来てるのよ。メ-ルでそう書いてたけど。まだいるのかな?」
「知らなかった……明日でも電話してみようよ」
「フロントで電話だけでも調べてもらおうか?」
「私が聞いてみる」
行動的な恵子がすぐに動いて、部屋の電話からフロントとなにか話し合っていたが、番号が分かったらしくお礼を言って受話器を置いた。
「インタポ-ル本部の代表番号は分かったけど、研修生の寮までは知らないってさ」
「だったら、インタポ-ルは24時間体制だと思うから本部の当直に聞いてみようか? 今度は私が掛けてみるからね」
葵が、恵子がフロントで聞いたインタポ-ル本部の代表番号に電話すると、フランス語での窓口の男性の応答があった。葵が単純に「プリ-ズ、イニングリッシュ」と言うと、その男性が流暢な英語に切り換えて応じた。葵が自分の氏名を名乗り、日本の警察庁の派遣で浜美代という研修生の友人だが宿舎の電話を知らせて欲しい、と告げると「少し待つて」と受話器が置かれ、しばらく間が空いた。
深夜にも係わらず、葵の耳にインタポ-ル本部の慌ただしい雰囲気が伝わってくる。葵にしてみると、浜美代の宿舎の電話番号を聞き出すだけでいいのに、と、思っていると先程の男が出て、「もう暫くお待ちを」と言い、そこからまたかなりの時間待たされた。
「何をしてるんだろうね。電話番号だけでいいのに」
「逆探知で、こっちの身元調べしてるのかな?」
「切っちゃおうか? どうも、雰囲気がおかしいのよ」
そのとき、慌ただしい雰囲気の中で先方の電話口に女性が出た。
「お待たせ……浜美代です。葵! 久しぶりね。東京から掛けてるの?」
「いまパリよ。エッフェル塔近くのノボテルにいるの……以前の日航ホテル」
「びっくりした。ハネム-ンで?」
「なら、いいけど、残念ながら男っ気はなし。佐川恵子と一緒よ」
「えっ、恵子もいるの?」
葵が、すぐ近くで耳を傾けていた恵子に受話器を手渡した。
「美代、ごめん。こんな深夜に電話に出るとは思わなかったんだ」
「恵子ともずいぶん会ってないね、同窓会以来かな?」
「そうだね……それより美代は、こんな時間に何してるのさ?」
「緊急動員でね。いま、忙しいのよ」
「事件なの?」
「パリ警視庁で合同会議、今からヘリでパリに行くところ……」
「ヘリを使って、拉致された大臣の救出作戦?」
「救出? 一応、それもあるけど……」
「なによそれ。じゃあ、なんのための招集なのさ?」
「恵子、わたしは神奈川県警の麻薬取締官だよ。だから、今回も麻薬……あ、これは極秘事項だったんだ」
「麻薬って……じゃ、大臣の救出はメインじゃないのね?」
「そんなの会議に出るまで分からないわよ」
「そうか、麻薬マフィアが拉致犯ってケ-スもありかな?」
「本当になにも知らないのよ。じゃ、これで!」
「ちょっと待って、また葵と代わるから」
代わった葵が単刀直入に切り込む。久しぶりだが世間話をする暇はない。
「美代は、小城大臣の秘書が殺されたのも知ってる?」
「迫丸って人でしょ? 上司から聞いたし、ニュ-スでも報道してたからね」
「偶然に、その迫丸って人を見ちゃったのよ」
「見たって、なにを?」
「わたし達が入ったレストランで外人と一緒だったとこも、殺された現場もよ」
「まさか?」
「だから、偶然って言ったでしょ」
「そうか? その人はマ-クしてたんだけどな」
「え、その秘書は麻薬絡み?」
「そんなの言えっこないでしょ! わたしが知ってるのはそこまでだからね」
「ところで、美代。あんたの行き先を教えて?」
「シ-クレット! でも、スイスの山岳地帯らしいとだけ教えておくね」
「あら、あたしたち二人も山登りを考えてたところなのよ!」
「どこかで会えるといいわね。で、どこへ?」
「マッタ-ホルンなんて考えてるんだけど、そっちは?」
「ノ-コメントよ。パリ警視庁でも詳しくは分かってないらしいから」
「でも、インタポ-ルの本部はリオンでしょ?」
「だから?」
「だったら、スイスの山岳地帯なんて目と鼻の先じゃない?」
「そうだけど、会議はパリだから仕方ないのよ」
「どこかで偶然会えるといいわね」
2、インタポール(2)
偶然なんて滅多にあるものじゃない。お互いに期待しないで電話を切った。葵と恵子は眠りに付くどころではなくなっていた。
冷蔵庫から出した洋酒の小瓶をグラスに分け合って、興奮気味に自分たちの推理に酔っていた。美代との短い会話で分かったのは、この事件が単なる拉致事件ではなく、麻薬密売組織との関連があるらしいことだった。
これで、事件はすでにフランス国内だけではなく、国際的な事件に飛び火していることが分かっただけに、葵が珍しく真剣な表情になっている。
「美代の雰囲気からみて、麻薬密売組織壊滅作戦と小城財相救出が同時進行かもね……もしかすると、これは大変な特ダネ記事になるかな。
いま、日本でもマスコミや芸能界をはじめ若者の間では麻薬の汚染が急速に進んでるからね」
「たしかに、麻薬とエイズと自殺の増加は日本の三大汚点だし、高齢化、少子化、犯罪の凶悪化は日本の三大お化けだから」
「茶化さないでよ。わたしは真剣なんだから」
「分かってるよ。葵、この特ダネは絶対に逃がしちゃだめよ」
恵子にあおられて思わず葵が頷いた。今度は恵子が真顔になる。
「葵がマッタ-ホルンってカマを掛けたら、美代がノ-コメントって言ったでしょ?」
「それが?」
「あの電話での様子だと、美代がスイスの山岳地方に出動するのは間違いなさそうね」
「美代は、それで、偶然に会えるといいね、って言ったのか?」
「とにかく、マッタ-ホルンの見えるところまで行ってみよう」
「雄大なアルプスを眺めた上に……」
「運がよければ大捕り物が見られるかもよ」
「とにかく、行ってみるか」
二人はすぐにスイス・アルプス展望に都合のいい山岳地帯の駅、および、その周辺までの最短距離、最短時間でのスイス行きのル-トを調べ始めた。
はじめは、時速270キロの超特急列車のTGVも考えたが、葵が持参した小型ノ-トパソコンと部屋に備え付けのブロ-ドバンドを活用して、スイス・アルプスへの交通路と時間を調べた結果、早朝一番のオルリ空港からの便でチュ-リッヒのクロ-テン空港に飛び、そこから列車を利用してインタラ-ケンまで行き、そこから登山鉄道に乗り換えるのがベストと答えが出た。
JALの宇野が言った通り、TGVでは乗り換えが不便なのと時間が掛かりすぎる難があり、空を行く方が時間が稼げることが分かったのだ。ただ、その先ははっきりしない。
葵はふと、偶然とはいえあの宇野がメルトモだった奇遇に何かの縁を感じ、端正で理知的な宇野の表情を思い出していた。何よりも気になるのはジロ-というメルトモではあるのだが……。
3、浜美代(1)
浜美代は勇んでいた。
麻薬担当の警察官として麻薬組織の撲滅作戦に参加するのは望むところだし、小城財相救出のための要員として選ばれた名誉にも応えるつもりになっていた。
身の危険は覚悟の上だった。どうせ美代は一度は死んだ身だったからだ。
フランス警察庁が小城財相拉致事件を追っているうちに、その足取りや聞き込みからユ-ロ・マフィアを標榜する麻薬密売組織の男達が捜査線上に浮かんできた。彼らは財相を人質にスイス・アルプスの山岳地帯に身を隠しながら10数億円という多額の身代金の振込を待っているまでは電話での盗聴や追跡捜査などで判明しつつあった。この身代金がそのまま麻薬密造資金に流れたら、このユ-ロ・マフィアから国際的な密輸組織を通じて世界中に悪魔の白い粉を振り撒くことになる。
こうなると単に財相を救うだけでは事件の解決にはならない。
フランス側としては、身代金の全額払い込みの停止を日本側に通告した上で財相を救出し、同時にこの事件に関与した麻薬関係者を一人残らず逮捕して、そこから芋づる式に関連組織を暴くと いう方針を打ち出していた。さらに、国際的なネットワ-クで各国警察庁と連携し、世界の闇市場に君臨する麻薬組織を壊滅させてゆく……この大きな作戦はユ-ロ圏だけでは成果が期待できな い。全世界の警察の協力が必要なのだ。
美代が、自分から望んで麻薬担当の警察官になったのには理由がある。
神奈川県厚木市在住の高校時代に、美代には岸川雄太という同級生の恋人がいた。
雄太は選抜で甲子園まで行った野球少年で人望もあって頭もよく、いずれは、国政にでも出るかと思われていた逸材だった。
美代にとって雄太は初めての男で、それは高校1年の学園祭で一緒に社会奉仕に生きる貧乏町医者のドラマ「赤ひげ・現代版」の医者とその妻を演じて以来の付き合いで、周囲の誰からも羨ましがられていた仲だった。
大学受験を目前にした高3の冬に、雄太は市会議員だった父親を交通事故で失い、病弱な母親と弟や妹のために大学を断念して、4月からは自動車部品製造工場に就職した。
当時は、大学に入った美代は厚木市内の自宅を出て、学校近くのマンションに一人住まいしていたが、雄太とはすでに小さな亀裂が入っているのを感じていた。
それでも、美代は必死で彼との縁をつなぐべく携帯メ-ルや電話などで励ましたりして交流を続け、「いつか結婚しようね」と何度も約束をしたのだが、その雄太からの連絡が突如途絶えた。
彼が携帯を変えたことによって、赤い糸が音もなく切れたのだ。
雄太に関する悪い噂が美代の耳に入るようになったのは、それからだった。
噂では、交遊関係が悪かったのか工場に勤めて半年ほどのその秋、バイクでの信号無視をパトカ-に追跡された末に歩道に乗り
入れて転倒し左膝の半月板を損傷しながら逮捕されていた。しかも、コカイン0・8グラムを所持していたことで少年鑑別所送りにな
るところだったが、未成年、初犯、全治3ケ月の重傷であること、麻薬の入手先を素直に自白したことや地元の県会議員が動いた
こともあって、一週間の留置の後に保護観察付きで保釈されたという。しかし、そこから雄太の転落が始まっていた。
同窓生からの話では、工場をクビになった雄太は片足を不自由にしたまま日雇い仕事やパチプロなどで家計を支えていたが、そ
れでも弟や妹の学費や母の医療費に追われて食事もままならず夏の暑い日の道路工事で倒れて救急病院に入院し、三日ほど寝込んでからはヤツれた顔で厚木駅前でビラ配りなどをしていたが、いつか地元の暴力団の下部組織に入ったらしく、深夜までうろつく若者や酔ったサラリ-マンなどに「元気が出るクスリ」などと称して白いコナの仲介をする姿が見られるようになっていた。
それからまた1年、雄太はいつか自分自身も白い粉の魔力に取り憑かれて、頑健だった身体も見る影もなくやつれて、優しかった眼差しも狂気じみた目付きで人を睨むと凄味ばかりが増して、かなり親しかった友人でも一目見て雄太であることを見抜くことが出来ない……そこまでの変貌を白い粉はもたらしていた。
例え、それが、一家の生活を支える唯一の方法だった、といくら雄太が喚いてもそんなのは誰も認めないし社会が許さない。
友人たちがそんな雄太を見ているぐらいだから警察も見逃さなかった。何度かの補導はあったが、現物を所持せずに仲介をして口銭を稼ぐという巧みな組織のシノギで、雄太は逮捕を逃れてはいたが、ある夜、酔ったサラリ-マン数人と口論の末に殴り合いになり、相手を傷つけたという傷害容疑で逮捕され、その暴力行為を理由にガサ入れ(家宅捜査)をされ、天井裏から注射器とコカイン5グラムが出たことで即刻逮捕となった。
大学2年の秋だった、美代はそのことを下宿先の新聞の地方版で知って涙が枯れるほど泣き、その夜、カミソリの刃でリストカットを試みたが死の恐怖が先立って手首の血管を充分に切り裂くことが出来ずに悲鳴を上げ、駆けつけた隣人やマンションの住民に助けられ、救急車で緊急病院に運ばれて一命は取り留めたが、手首の傷はまだ残っている。
美代が麻薬を憎むようになったのは、その時からだった。
麻薬の悪を根絶するためには……と、友人の葵にも相談して熟慮した結果、ひたすら恋人を奪われた麻薬への恨みを晴らすべく神奈川県警への就職をめざしたのだ。
その後、雄太の姿を見かけたという者は誰もいない。
美代に入った風の噂では、年の瀬を間近に控えた師走のある木枯らしの吹きすさぶ寒い夕、近所にも友人知人や親戚にも行く先をも告げずに、荷物共々家族全員でトラックに乗って、夜逃げ同様に住み慣れた厚木を捨て西の方に旅立ったらしいとだけ聞いている。
あれから、すでに5年の歳月が過ぎている。
それにしても、警察官になった美代が学べば学ほど麻薬の害は恐ろしいものだった。
4、浜美代(2)
麻薬と一口に言っても、その内容は多岐に渡っていてそう単純ではない。
アヘン、モルヒネ、ヘロイン、コカイン、覚醒剤、大麻、LSD,MDMA……まだまだ、これはほんの一部なのだ。
まず、麻薬の中でも膨大な量を占めるのがその即効性から、「スピ-ド」と呼ばれる覚醒剤だ。これには医療向けの正規の合成薬物であるアンフェタミン系薬剤などがあり、化学構造の違いによって、アンフェタミン系、
デキストロ・アンフェタミン系、メタンフェタミン系の3種に分けられる。
これらの使用が長時間におよぶとコカイン同様に中枢神経を侵すのだが、麻薬密造グル-プはこれを単独では売らない。純度が高いままでは末端価格が高くなって売れないからだ。彼らはこれに乳糖や嘔吐剤、殺虫剤や写
真の現像液などを増量剤として混ぜて単価を下げ、売りやすくして市場に流す……これがショック死や中毒患者、廃人を生む。
しかし、覚醒剤常習者から言わせれば、これらのリスクなどはその服用によって得た快感から考えれば、混ぜ物でも何でも手に入れば何でもよくなってくるのだ。
服用には、カプセル状にしたものの服用、粉末状の鼻からの吸引、粉末を水に溶かしての注射とあるが、もっとも即効性があるのがスピ-ディングと言われる注射で、これは瞬間的に循環器系に作用してラッシュ状とい
う高揚した快感を生み、遊園地の高速ジェットで浮遊するかのようなハイな気分の中で妄想を現実化したような性的快感をも味わうことが出来るのだ。ただし、それは長くは続かない。やがて、薬効が切れれば現実に戻り、
エネルギ-の切れた肉体にはただ疲労感が残るだけで、結局は、惨めな自分の姿を見なければならないのだが、その悲惨さはそこに辿り着いた者以外には分からない。
大麻は中央アジアで多産される桑科の一年草で、その乾燥した葉を刻んだものをあぶって、その煙を吸引しただけで陶酔状態になり、その幻覚作用によって超人的な行動が可能になるという恐ろしいもので、これを多用
すると、脳傷害、気管支炎、咽喉ガン、大麻精神病と呼ばれる妄想病や思考力低下、抑制力の欠如などから異常行動となり、傷害や殺人などの異常犯罪に駆り立てられてゆくことになる。その害は社会悪として世界中に認
められ、今ではこの大麻を所持するだけでも死刑にされる場合もあるほどなのだ。
コカインは南米各地を原産地とし、コカという灌木の葉から抽出された白いふわふわした細かい結晶状物質で、医学的には麻酔薬として重要な役割を担っているが、このコカの乱用はごく少量でも人の命を奪うか人間廃
業につながる恐ろしい麻薬で、鼻から吸引すると鼻炎や肺炎につながり、この中毒症状は、皮膚の中に寄生虫がはい回るように感じる妄想と、脳が侵されて痴呆症状態となるのも大きな薬害だった。コカインは、鼻腔内吸
入、注射、喫煙によって使用されるが常用される呼び名も多く、その白い結晶状コカインと混ぜ物は、色や形状、注入法などから、スノウ、ホワイト、スノウバ-ズ、コ-ク、ノ-ズ・キャンディ、ブロウ、レディ、ハッピ
-・ダストなどと呼ばれていた。さらに、本来は純白であるコカインも、精製の過程でベ-ジュ色か薄い茶系の製品をベレット状や透明カプセルに入れたものを、クラック、ロック、フリ-ベ-ス・ロックなどと呼ばれて、
これも大きな悪魔のマ-ケットを広げていた。
ヘロインは、ケシから採取された生アヘンによって得られるモルヒネから合成された医薬品で、かつては日本でも咳止めとして薬局で売られていた。
それが、意識障害や呼吸困難、流産・死産、不整脈、肝臓疾患など人体に著しい害を与えることが判明し、昭和20年以降はアヘン系麻薬として取り締まりの対象になった。
ヘロインは、モルヒネの誘導体ながらモルヒネの数倍もの強力な陶酔感や浮遊感があるがその害もまた大きい。その急性中毒症状では、瞳孔が縮小し悪寒状態が続き、ショック状態から昏睡状態に陥り死に至流こともある。
通称は、スマック、スキャック、ブラック・タ-ル、ボ-イ、ホワイト・スタッフ、ハード・スタッフなどで知られている。
美代は、恋人を奪った麻薬に対しては異常なほどの憎しみを抱えていた。
フランス警察庁では、この事件に麻薬マフィアの介入が疑われるようになった時点で国際法上の形式を踏んで広域捜査に切り替え、インタ-ポ-ル(ICPO)を通じて隣接する各国に、財相の救出への協力を要請すること に踏み切り、日本の警察庁にも財相救出への参加要請を行った。
すでに、日本の警察庁国際共助課には日本大使館を通じて、迫丸第二秘書の死と、人質の財相と私設秘書の元警部が拉致犯に連れられて、スイス・アルプス方面の山岳地帯に潜伏中であるとの情報が流されていた。
ただし、この時点では麻薬密売組織との関連については極秘だったから、日本大使館には拉致された小城財相の救出作戦とだけしか知らされていない。
したがって、日本の警察庁もこの時点では財相救出以外には目が向いていなかった。
それでも日本側の応対は早く、大使館から非公式ではあったが拉致事件の第一報が入った時点から動き出していて、警察が動けない初動作戦時に民間の警備会社から警護員を出向させていた。
そのことは早くも大使館からパリ警視庁には伝わっていた。
しかも、その警護員はすでにパリ経由でスイス入りして警察の救出隊との合流を待っているという。したがって、この民間の警備員は麻薬マフィアが絡んででの拉致事件であることは全く知らずに行動していることになる。
しかし、インタポ-ルから日本に正式要請が出た以上は、財相救出に日本からも警察官を派遣しなければならない。だが、パリ警視庁での深夜の合同会議に続く早朝の救出隊派遣へのタイムリミットには、日本からではもう間に合わない。かといって民間の警備員だけの参加では救出隊参加にも武装や
行動にも限度がある。
日本の警察庁では緊急事項として各都道府県警本部に問い合わせて、EU圏などパリにすぐ直行できる範囲内に派遣している警察官の有無を調べさせた。
その結果、神奈川県警本部の防犯部保安課から研修生としてパリ郊外のインタポ-ル(ICPO)本部に派遣されている麻薬捜査官・浜美代巡査部長の存在を知ったのだ。ただちに警護課とも連絡をとり、神奈川県警本部長に警察庁からの協力要請を伝えた。
そこで、神奈川県警本部長から、在パリの浜美代巡査部長に、財相救出および麻薬組織壊滅作戦参加への要請が出たのだ。
警察庁では大使館経由で、パリ警視庁総監あてに「適任者一名あり」を打電した。
パリはすでに夕暮れている時刻だった。
その連絡が遅れて、浜美代の元にパリでの上司にあたる香港警察の揚警部から緊急出動の電話が入ったのは、パリ郊外のインタポ-ル(ICPO)寮内で、美代がすでに夕食を終えてテレビの娯楽番組を楽しんでいる時だった。
5、出動(1)
揚警部は日本語のスペシャリストで、日本人と見分けのつく人はまずいない。巧みな日本語で状況を説明し美代の任務を電話で伝えた。
「すでに、日本の財相が拉致されたのは承知と思うが、日本の警察を代表してハマ・ミヨが夜明けの財相救出作戦に出動だ。これには麻薬シンジケ-トが絡んでいるらしい。捜査会議はシテ島の本庁で1時間後に始まる。今回は訓練じゃなく実戦だぞ」
「日本の警察官は、わたしだけですか?」
「日本からは民間の警護員が派遣されているそうだ。名前は知らんが、その男と合流して職務を全うして財相救出後を無事に見届けてくれ。パリからはその民間の警護員が護衛して帰国することになるだろう。現場のトップの指示に従って行動してくれれば危険はないからな。どうやら、麻薬組織の連中が山岳地帯に移動してるらしく、財相の拉致犯も人質共々移動している様子だが集結地はまだ特定していないらしい。ま、軽い気持ちで山登りでも楽しんで来るんだな。じや、本部で待ってるぞ」
電話を終えた美代はすぐ身支度を整えて、宿舎から車で15分ほどの距離にあるインタポ-ル本部に向かった。
揚警部が美代を待っていて言葉を添えた。
「日本の警察庁には、国際共助課から大使館経由でハマ・ミヨが財相救助作戦に参加を了承した旨を連絡済みだ。パリ警視庁ではシャ-ロット刑事が待ってるから、ミヨはその指示に従ってくれ」
「小城財務大臣と一緒に拉致された秘書はどうなってますか? 一人は殺害されたと聞いていますが」
「命に別状はなくても抵抗して怪我でもしていたら、職務の遂行は無理だな」
こうして浜美代は、パリ警視庁からの捜査会議出席への要請を受け、担当教官である揚警部に細かい指示をあおいでいるところに、葵からの電話が入ったのだ。
ICPOの短期研修生として神奈川県警から出向している浜美代の学習課目には、国際手配の凶悪犯、窃盗グル-プ、麻薬所持犯の逮捕などが組み込まれていて、すでに、街頭での麻薬密売の実態と逮捕や補導なども学んでいる。
さらには、日本人観光客を麻薬取引の勧誘現場から救って麻薬取引き実行犯と格闘して逮捕したという実績も残している。従って、多少の危険には驚かない。
さらに揚警部は、正式な指示では財相の警護が仕事だが、場合によっては財相救出に参加することも視野に入れて行動するように、と美代に伝えた。
揚警部と美代の会話が終わるのを待って、装備担当のカリ-ナというフランス人婦人警官が防弾ベストを美代に手渡し、ジャケットの下に着用するように指示した。
「ポリアミドとチタンを素材にしたアンダ-ガ-メントで訓練用より少し重いけど、これで44マグナムやトカレフにも対応できるからね」
次いで、プラスチックフレ-ム採用のフランス警察公用拳銃SIGプロ2022と実弾入りのマガジンが3ケ-ス手渡された。
「練習に使ってた2209より1センチほど高さがあるけど同じ9ミリ口径で、マガジンは同じ15発入りでオ-トだからね。いつもと同じ使い方でいいのよ」
揚警部は、美代が拳銃をショルダ-ケ-スに入れるのを見届けると、ヘルメットを渡しながら肩を叩いた。
「飛行は一時間半、会議はすぐ始まるからな……幸運を祈る」
リオンからシテ島までは直線で330キロ、それを訓練用ヘリで1時間半で飛ぶということは、かなり緊迫した状況と思われる。その美代の危惧は当たった。
ヘリは森の中にあるインタポ-ル本部のヘリポ-トを飛び立ちリオンの町を離れた。
森を越え町を越えての快適な空の旅もパリ市街の上空に差しかかると、セ-ヌ川に沿ったシテ島のノ-トルダム寺院の尖塔が見えた。その対面にパリ警視庁の建物がある。
ヘリを運転するスイス警察所属の教官が振り向いてフランス語で叫んだ。映画でも葺き替えや字幕より生のままの方がいい場合もある。雰囲気で「降下する」
という意味は通じたが、教官はあわてて英語に言い直し、言葉を加えた。
「ハシゴでヘリの隙間に下ろすぞ……少しは揺れるが心配ない」
「縄バシゴでですか?」
「さ、急いで! これは実戦と同じだぞ」
美代の顔が蒼白になる。バシゴで降りるなんて聞いていなかったからだ。
下を見ると、いつもは車でぎっしりのパリ警視庁の中庭から警察車両の全て、1台も残さずにセ-ヌ側沿いに移動させられていて、フランスが誇るアイロスパシアル350B型武装ヘリが2機、飛び立つ前のひとときを静かに翼を休めている。
セ-ヌ川畔にあるシテ島のパリ警視庁の古色蒼然とした建物の上に到達すると訓練用ヘリが垂直に降下を始めた。箱型に四方を囲まれた狭い中庭から5階建ての建物に、回転するプロペラを触れさせずに降りるにはかなりの熟練度を要するが、感心している暇などない、この中庭に美代自身が舞い降りるのだ。
3階の窓の高さで中庭中央の空間に機体を浮かべて教官が叫んだ。
「着地用意!」
「準備OK!」
覚悟をきめた美代が叫ぶと、ヘリの出入口からハシゴが下ろされた。
「ゆっくり下ろしてやるからな、掴まってるだけでいいぞ」
美代が足場の横棒に足を乗せ両側のロ-プにしがみ付くと、まるで美代の体重で落ちてゆくようにロ-プで造られたハシゴが揺れながら降りてゆく。
エンジン音に気づいたパリ警視庁の職員や警察官が、あちこちの窓から顔を出し、ヘリから舞い下りるのが東洋の美女と知ると歓迎の手が振られ励ましの声が飛ぶ。
地上のヘリを避けて美代が着地すると、盛大な拍手と一段と高い歓声が湧いた。
美代を降ろした訓練用ヘリがハシゴを巻き上げながら浮上し、飛び去った。
金髪の長身女性が駆け寄って美代を抱いた。
「ようこそ、ハマ・ミヨ! なかなかいい降下姿勢でした」
「シャ-ロット刑事。また、お世話になります」
「わたしがミヨの担当になりました。通訳もします」
インタポ-ルでの初期研修で美代の教官でもあったシャ-ロット刑事から先に美代に握手を求め、巧みな日本語で歓迎した。40歳前後のスリム美人でパリ警視庁の麻薬捜査官でもある。これで、美代はフランス・ドイツ・イタリア語などEU圏内の言葉には不自由しなくなる。
「会場へ急いで!」
シャ-ロット刑事に案内されて美代は3階の会議室に急いだ。
会議室に入ると30人近い私服や武装した警官が歓迎の拍手で迎えた。
壇上から降りて美代を迎えた初老の男が「ミス・ハマですね? クロ-ド警視です」と自己紹介して、握手を求めながら自己紹介しようとする美代を押し止め、シャ-ロット刑事に美代を全員に紹介するように勧めて3人で壇上に上がった。
そこで、シャ-ロット刑事が美代を紹介した。
「みなさん、こちらは日本の警察庁からインタポ-ル(ICPO)に派遣されているカナガワ県警のハマ・ミヨ巡査部長です」
「浜美代です。よろしくお願いします」
「これで日本の警察も参加したことになる……それでは、席について」
クロ-ド警視が、二人を席に着かせてから改めて捜査の概要をフランス語で説明し、シャ-ロット刑事が英語に翻訳する。これで、参加者全員が理解できることになる。
「諸君も承知の通り、三日前にパリ市内において発生した日本のオギ財相らの拉致事件に次ぐ随員のサコマル秘書の死で緊迫した状態に入っている。この一両日に犯人らが要求する1千万ドルの支払いが日本からない場合はオギ財相の命が危ない。
犯人は、目撃者の情報などから麻薬マフィアの一味と思われる。これは電話交信を盗聴して分析した結果と各地の情報から絞り込んだ確たるものである。
しかも昨日、殺害されたサコマル秘書の前職が空港税関の麻薬捜査官だったことも判明した。サコマルは、麻薬密売人としてもEU圏では名の知られたドイツ人コインディラ-のパゾリ-ニと会食した直後に薬殺されている。
こうなると、事件の裏に麻薬あり、と考えることができる。しかも、例年、今頃になると国際的な麻薬市場が開かれますが、今までの情報を集計して分析しますと、今年はEUのどこかに世界中の麻薬ディラ-が集結する可能性があるのだ。その場所の特定については、麻薬捜査課のダニエル警部が話します……」
「ダニエルです」
プロレスラ-並に立派な体格のフランス人刑事が発言した。
6、出動(2)
「オギ財相の身代金の期限があと一日と迫っている今朝、オギの肉声によるSOSと、彼らからの身代金の再要求が日本大使館に入りました。その逆探知には昨日から成功しています。その結果、ジュネ-ブ、チュ-リッヒとオギ財相ら人質を帯同して移動した拉致犯グル-プは、いまスシスの山岳部に移動中であることまでは判明したのですが、ただ妙なことに……」
ダニエル警部が全員を見まわし、一息入れてから続けた。
「当局は、彼らがフランス警察の追求を逃れるために、ドイツ、スイスと国境を越えて行く先を晦ましていると見ていたのですが、それは違っていました。各地の有力麻薬ブロ-カ-がそれぞれ観光客に化けて、山岳部のいずれかの地区を目指して集結しているという情報が、スイス警察庁から非公式に伝えられたのです」
全員がダニエル警部の口許を見つめ、「それはどこですか?」と、質問が飛んだ。
「インタ-ラ-ケンから山岳方面に移動中までは、地元の警察からの報告で最終確認されていますが、その先はまだ分かっていません」
どよめきが起こった。アルプスの山岳地帯だけではあまりにも範囲が広すぎる。
ダニエル警部が続けた。
「そこからの足取りは不明ですが、彼らは何らかの目的をもって集結すると見て間違いありません。問題はその集結場所と時間です。彼らが山に登るのか麓で集まるのか、しかも、彼らはヘリでの移動を多用することも視野に入れねばなりません。したがって、我々は彼らが目的地に留まっている間に急襲しないと、やすやすと逃亡を許してしまいます」
そこで再び、クロ-ド警視が議題を変える。
「夜明けに国境を越えてラウタ-ブルンネンに飛び、スイス警察と合流する。だが、その前に現在までの経過を詰めておきたい。そこで……オギ財相と警護のクサカリ秘書がスイスまで拉致されているにも関わらず、サコマル秘書だけが、なぜパリに残ってパゾリ-ニと会っていたのか? なぜ殺されたのか? 拉致の目的は何だったのか?これらの疑問点を解明すれば事件が見えてくる……諸君の忌憚ない意見を聞かせて貰いたい」
この提案をダニエル刑事が引き取った。
「ここ数年、身代金狙いの要人誘拐の流れは世界的傾向で、とくにリッチで無防備な日本のVIPは最高のタ-ゲットとなって狙われます。しかも、今回のオギは財務大臣という要職にあり、犯人がテロ組織なら、世界中に脅威を示す絶好の獲物です。それに引き換えて秘書のサコマルやSPのクサカリでは身代金の対象としては小物すぎます」
「なるほど……」
「しかし、オギ財相と同行した秘書のサコマルが、元麻薬取締専門の税関職員であり、警護のクサカリが元警視庁麻薬担当警部であることを考えると事情は違ってきます」
「ほう。どのように?」
「大使館からの情報によると、オギ財相は日本の麻薬撲滅運動協議会の会長です。したがって麻薬問題に詳しいサコマルを第二秘書として、警護担当の私設秘書に麻薬担当の元警部を雇ったのも、海外から密輸される麻薬を水際で阻止するための対策を具現化するための措置とも考えられます」
「それで?」
「サコマルはオギ財相の秘書としてEU入りしましたが、財相の密命を受けて、EU各国内の麻薬組織図を調べていたとのではないでしょうか? それがEUマフィアの知るところとなり、サコマルが狙われた……」
「すると、拉致事件はオギではなくサコマルがタ-ゲットだったのか?」
「そうです。彼らは、最初から麻薬捜査官だったサコマルを狙っていて、オギ財相と警護のクサカリや、身代金などはどうでもよかったのです」
「しかし、大金だぞ」
「その大金を狙ったようにみせかけたのも狙いです。その身代金がいくらかでも振り込まれれば成功という二段構えだったのではないでしょうか?」
「では、なぜサコマルだけが自由に出歩けて、パゾリ-ニと食事をしたのかね?」
「サコマルの前職の税関職員の立場と知識を利用しようとした誘拐犯側から、仕事を手伝えば命を助けると言われて、何らかの取り引きをしたと思います。
それで、コインデ-ラ-を表看板にしながら麻薬の大手密売業者でもあるパゾリ-ニに、サコマルが本気で協力する気があるかどうか、その真意を探らせるるために引き会わせたものと思われます」
「どのような取り引きかね?」
「麻薬をスム-ズに成田を通過させるための取引以外には考えられません」
「そんな大切なサコマルを、なぜ殺さねばならんのだ?」
「彼らはサコマルの立場を利用して、日本に麻薬密売の安定ル-トを築くことを企み、その商圏の一部と巨額の大金を餌にサコマルを誘った。しかし、サコマルは彼らに屈したと見せかけて、逆にEU内の麻薬ル-トの全貌を探ろうとした。
その真意を知ったパゾリ-ニの連絡を受けた組織が、刺客を放ってサコマルを抹殺した……と、推察します。サコマルの死体発見現場に立ち会ったレストランでの目撃者の証言では、二人が店内で激しく口論していたといいます。彼らが国際組織の一員として迎えようとして心を許したサコマルにEU圏の麻薬組織の秘密を知られた挙げ句に商談が決裂では、生かしておけなくなったものとも推測できます」
「なるほど、組織の内部事情を知られたためにサコマルを消したのか?」
「サコマルは、何者かに所持していた皮カバンを奪われていますが、私の個人的な見解ではそのカバンの中には、サコマルが調べたEU内の麻薬組織と各国への密輸ル-トなどが記録されたメモリ-かノ-トなどがあったのではないでしょうか?」
「そうなると、サコマルは始めから麻薬組織探索を目的に財相の随員として来ていたことになる。日本は国をあげてEUからの麻薬をくい止めようとしている。
これが、オトリ捜査だとしたら、なぜ、日本政府は最初からわれわれに協力を求めなかったのだ?」
「フランスの警察から情報が漏れるのを恐れたからだと思います」
「なるほど、我々の組織を見くびったということか?」
「いえ、そうとも言えません。いま、フランスの警察はヨ-ロッパ連合の大きなうねりの中で組織内の人種も多様化していて、機密が保ちにくくなっています。
日本政府はそれらを考慮して、独自の捜査に踏み切ったのだと思います」
「分かった。ダニエル警部は日本びいきだからな」
クロ-ド警視が軽い皮肉を言って、議題を変えた。
「そうなると、彼らがサコマルを殺害したのは口封じということになる。さて、これを、オギ財相がすでに知っていると思うかね?」
「今回のこのケ-スでは、拉致犯はオギ財相とクサカリやサコマルを別々に監禁していたはずです。と、なるとサコマルとパゾリ-ニとの交渉は拉致犯グル-プの思惑で組まれた可能性があります。そうなると、オギ財相は何も知らされていないはずです。ところで、日本の大使館から振込みの連絡は入ってますか?」
「実は、これもシ-クレットだが、犯人の1千万米ドル要求に対して、今までに振り込まれたのは5百万ドルで要求額の半分……日本大使館からの情報では、本国からの送金はこれで打ち切られるそうだ」
「まだ、期限までは間がありますが?」
「あとは、オギ財相が自分で交渉を成功させて釈放されるか、あるいは処刑されるかのどちらかだ。となると、釈放を当てにせず救出を優先させねばならん。しかし、我々の目的はオギ財相の救出だけではない。拉致グル-プとサコマル秘書殺害実行犯の逮捕、さらには国際的な麻薬密売組織の壊滅などが目標になる。その目的に沿って、国境を越えてスイスとの合同捜査隊が編成される。ただ、財相に万が一のことがあった場合、わがフランスと日本との友好関係が憂慮される。
この場合の国民感情について日本側から参加したハマ・ミヨの意見を聞いておきたい」
クロ-ド警視が美代を指名して意見を求めた。シャ-ロット刑事が美代に囁く。
「日本語でいいわよ。どうせフランス語に訳すんですから」
美代が立ち上がって日本語で発言した。それをシャ-ロット刑事が訳す。
彼女の立場はあくまでも研修生だから財相開放後の護衛が主で、その警護も日本から来た警護員に任せておけばいい。あとは麻薬取引き犯をパリ警視庁とスイス警察の合同隊が取り押さえる現場を実地に見聞するだけで充分に研修の目的は達成される。
美代が役立つとしたら、逮捕者に日本人がいた場合、逮捕後の供述を通訳する程度かも知れない。美代は私見を述べた。
「日本では、自分の職務に忠実で信念をもって殉死した場合は、名誉の死として社会的にも格別の扱いになります。しかし、今回はすでに迫丸秘書が犠牲になっていて、それが、麻薬組織との戦いによる殉死であるならば、マスコミは美辞麗句で讃えて紙面や画面を飾るだけでなく、詩になり、ドラマになり、映画にもなります。したがって、国民感情としてフランスに悪意や拒否反応が表面化するおそれはないものと思います」
「ほう、それは結構」
「しかし、草苅秘書ならともかく小城財相までが殺害されるとなると、非難の矛先は治安に問題のあったフランス政府となり、日本政府はフランスの治安悪化に警鐘を鳴らしますので多分、国際的な問題にまで発展します。そうなりますと、EU圏への観光への安全性も疑問視され、観光目的の旅行客を南アジア、中国、オ-ストラリアやアメリカ方面に誘導させる可能性があります」
「それで?」
「観光客だけで年間1千5百万人を超える世界一の観光都市パリの魅力も観光客が激減しますと観光収入はそれに比例して一気に低下し、フランス国家の年間予算にまで影響しかねません。したがって、ここは何としても小城財相と草苅秘書の救助を最優先して頂きたいと心から願っております」
浜美代は、日本を代表したような気分で席に着いた。
7、アレルギーサロン(1)
美代が席に着くと、クロ-ド警視が続けた。
「オギ財相に不測の事態が起これば、確かに世論はフランス警察の不手際を責めるだろうが、ここではっきりさせておきたい。このオギ財相らの拉致事件が発生したのは、警察にも届け出義務のないプライベ-トな外出中の出来事だったということだ。したがって、パリ警視庁は公的な責任は負わないものと承知している。それだけは、日本の警察を代表して参加したハマ・ミヨも承知していてもらいたい。だからといって、捜査の手抜きは絶対にしない。
ここは徹底的に麻薬組織を叩き、オギ財相は必ず救出する決意だ。諸君もそのつもりで頑張ってくれ」
続いてダニエル警部が立ち上がって発言した。
「鑑識からの検視報告を見ますと、サコマル秘書の直接の死因は38口径の拳銃による心臓貫通死となっていますが解剖の結果、胃から致死量に至る薬物も発見されています。それは、サコマル秘書が手にしたタバコから検出された微量ながら猛毒のシアン化ナトリュ-ムであることも判明しています。
サコマル秘書は元麻薬捜査官としての職業的な義務感に徹して、EUの麻薬密売組織の全貌を知ろうとしたのは間違いないと思います。その意図をパゾリ-ニに見破られて追尾していた刺客に知らされ、殺害されました。しかし、サコマル秘書の奪われたカバンの中身が何であったか? これが、この事件の謎を解くカギであるとも考えられます。したがって、サコマル秘書殺害の犯人の逮捕と同時に、奪われたサコマル秘書のカバンの発見についても、諸君は全力で追求し探索してください」
そこで、ダニエル警部がクロ-ド警視に向かって口調を変えた。
「日本からは昨夜、民間のウナバラという民間の警護員がインタラ-ケンまで来ているとのことですが、多分、ミュ-レンで合流します。救出作戦には参加させますか?」
「警護でも後方支援でも何でもいい、味方は一人でも多いほうがいいからな」
「分かりました。万が一にも、日本の財相が殺害されるというような最悪のシナリオが現実になったとしたら、その警護員に責任をとってもらいます」
「それは少し酷な話じゃないのかね?」
「先刻のハマ・ミヨ刑事の説の通り、ここでフランスの国際的な信用が失墜したら、パリがEU圏でもっとも治安の悪い都市というレッテルが貼られます。
日本との友好関係を損ねると観光収入もガタ落ちになり、国益をも損ないます。
場合によっては現政権崩壊というシナリオもあり得ます……そう考えて策を練ります。この民間警護員のことは、同じ国民であるハマ・ミヨ刑事に預けます」
美代があわてて挙手をして立ち上がって発言した。
「わたしは、自分のことでせい一杯ですが?」
「大丈夫、わたしが付いてますから……」
隣にいたシャ-ロット刑事が美代に言って微笑んだ。
クロ-ド警視が憮然とした表情でダニエル警部を見た。
「そのような姑息な策略はワシは好かん。万が一にもそのウナバラに責任を押しつけることなどないように願いたい。だが、どうしてもとなれば、ダニエル警部の好きなようにしてくれ。ワシは知らんことにしておく……」
ここでクロ-ド警視は、真剣な表情で決然と声を張り上げた。
「さて、これで最終議題に移る。いまは、彼らの一部が拉致したオギ財相を連れてインタラ-ケンまで移動したことは、地元からの情報と電話の逆探知で判明している。彼らは身代金の全額が入れば、直ちにオギ財相ら二人を釈放すると宣言している。しかし、日本政府は半額の5百万ドルを振り込んだだけで我々に責任を押しつけ、解決を迫っている。このままではオギ財相ら二人を見殺しにするだけだ。スイスの山岳部に限定して彼ら麻薬組織のボス達の集合地が特定できれば、身代金に関係なく一味の逮捕が可能になる。手掛かりがあったら相手は誰でも何でもいい、どんな些細なことでも発言してくれ」
麻薬捜査課のマルセルというベテラン刑事が、ためらいがちに手を上げた。
「例のサコマル事件の後、パリ郊外のパゾリ-ニのマンションに事情聴取に行った時のことです。一切証言は拒否というかたくなな姿勢の細君に、パゾリ-ニがパリで金髪の若い娘と仲睦まじげに連れ立っていた、と告げたら急に不機嫌になって、『夫は前日、家を出る前に誰かと電話での話し中に、“明後日の3時にアレルギ-サロンか、不便だな”と言ってました』と、聞いたのを思い出しました。関係はないかも知れませんが……」
「なんだ、それは? 不便なところってどこだ? だれか“アレルギ-サロン”って聞いたことあるか?」
シャ-ロット刑事が立ち上がった。
「すぐ、スイスの警察、電話局、民間の職業調査会社で調べてみますか?」
クロ-ド警視が指示した。
「全員で手分けして15分で調べろ! 携帯でもネットでも電話帳でも何でも使え。不便なところで、アレルギ-サロンだぞ」
15分という短い時間が過ぎると、それぞれが席に戻り、否定的な発言が続いた。
シャ-ロット刑事が全員の調査結果を手早くまとめてダニエル警部に手渡した。
「スイス国内全域では、アレルギ-を治療する病院は数多くありますが、山岳地帯を含めて、病院、クリニック、施設など、アレルギ-サロンの名称の事業体は存在しません」
ふと、定年退職寸前の婦人警部補のマ-シャ刑事が遠慮がちに口を開いた。
8、アレルギーサロン(2)
「クロ-ド警視。私見を述べてもよろしいですか?」
「どうぞ」
全員が彫りの深い美人顔の最年長ベテラン刑事を見た。
「古い映画ですが、アレルギ-治療研究所なら見たことがあります」
「アレルギ-治療研究所? なんの映画かね?」
「ジョ-ジ・レ-ゼンビ-の007です」
「ずいぶん古い映画だな。タイトルは?」
「たしか、『女王陛下の007』だったように記憶しています」
「どんなシ-ンかね?」
「ヒラリ-郷に化けたボンドが忍び込む、山の上のクリニックです」
「それなら見たことがある。しかし、サロンと治療研究所じゃ名称が違うぞ?」
「でも、不便なところとアレルギ-が共通です」
「不便なところって、場所はどこだね?」
「シルトホルン山頂です」
「なるほど!」「それに間違いないぞ」「これで決まりだ」「あそこなら観光客を装って集結できるぞ」「警察の手も届かないしな」、などと、あちこちから声が出た。けっこう人気がある映画だったから見ている者も多いらしい。
私語が続いた。
「なるほど、たしかにシルトホルンじゃ不便だな」
クロ-ド警視のこの発言に、部下たちの反応は早かった。
「でも、シルトホルンの展望台にはヘリの発着所もあります」
「たしか、映画のためにヘリポ-トは2機まで使えるようにしたはずです」
「ラウタ-ブルンネンからミュ-レン経由でケ-ブルカ-で登れます」
5秒ほど腕組みをして瞑目したクロ-ド警視が断をくだした。
「よし、マ-シャ刑事のカンに賭けてみよう。私服組は武器携帯で防弾チョッキ着用、直ちに全員ラウタ-ブルンネンまでヘリで飛び、そこでスイス警察と合流してそれぞれ観光客に化けてロ-プウエイでシルトホルン山頂駅まで行く。早すぎず遅すぎず午後3時10分前までには各班ごとに配置に着き、一般観光客はすぐ山から降ろし、彼らの談合が始まったら直ちに現場を押さえて集まった各国の麻薬マフィアを一網打尽に逮捕し、スイス警察庁と合同で徹底的に調べて、主だった麻薬マフィアはこのシテ島に送る。さて、そこにオギ財相がいればいいが、いない場合は……」
ダニエル警部が引き取った。
「オギ財相の監禁場所は多分、山頂ではなく麓かその近くの村にあるはずです。財相救助隊は、地の利を知ったスイス警察の協力を得て行動し、さらに、必要であればスイス警察機動隊の応援を頼むことにする……これで、いかがですか?」
「いいだろう。救助隊の人選はダニエル警部に一任する。その他の刑事部と機動隊員はスイス警察と合流して、麻薬グル-プの逮捕に全力で立ち向かうことになる」
「クロ-ド警視。彼らは身代金が入れば、オギ財相をいつでも釈放すると言っていますが、まだ、その可能性はありますか?」
「全額が入ればな。だが、送金はこちらからも日本大使館にお願いして半額まででストップさせた。この大金が大量の麻薬に化けるのが見えているからだ。だから釈放はない。ここはスイス警察庁にも協力を求めて救出作戦を強行するだけだ。インタラ-ケン周辺を含めて徹底的に調べれば、オギ財相を無傷で救出できるかも知れんからな」
ここで、クロ-ド警視が最終指示をだした。
「刑事部は私服の下に防弾チョッキだが、機動隊は戦闘服が目立ち過ぎてロ-プウエイに乗った途端に見張り役にたちまちマシンガンで蜂の巣にされる。
機動隊は麓に待機してちらからの連絡があり次第、武装ヘリで移動して空から一気に急襲してもらう。したがってヘリ二機は、ここから全員を乗せてラウタ-ブルンネンまで飛び、刑事部はそこから少人数づつロ-プウエイで山に登る。機動隊は連絡があり次第にヘリで山頂に飛び麻薬組織一掃のための戦闘に参加してもらう。また、財相救出隊も任務遂行後はで山頂に応援に駆けつけてもらう」
「あの頂上駅展望台のヘリ発着場は、緊急離着陸用で2機しか駐機できません。敵のヘリが1機でもヘリポ-トの真ん中にいたら着陸は不可能です」
「ヘリの発着ができない場合は、機動隊の襲撃班はバシゴを使って降下し、敵の機体を谷底に落としてから着地してくれ。敵が大がかりなら空中戦も覚悟しないといかんな。ヘリが撃墜された場合は地上班の私服組だけで闘うことになる。危険は多いが止むを得ん」
「日本のウナバラという警護員はどうしますか?」
「財相救出の役割で来たのなら参加させてやれ」
「では、すぐ日本大使館に連絡します」
この大使館経由の情報が、ホテルで仮眠中の二郎を叩き起こした。
二郎への指示は、ヒルトホルン山頂でのフランス隊との合流だが、そこに日本の女性警官がいるという情報までは伝えられていない。これを知ったら二郎の意欲も大いに変わったとも思われるのだが……。
やがて、離陸準備を完了していたアイロスパシアル武装ヘリ2機は、オギ財相救出と麻薬組織の壊滅を目的とする機動隊と刑事を乗せて狭い中庭から垂直に飛び立ち、セ-ヌ川沿いに東に進路を向けてスピ-ドを上げた。