第九章 パリへの帰還

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1、空の旅

 シャ-ロット刑事が、快適な空の旅に水を差すように日本語で美代に話しかけた。
「ボスのフランクが、空でもオソう、と警視に言ったそうだけどオドシみたいね」
「でも、油断はできませんよ」
財相がすぐ反応した。
「フランクがか? また何か企んでるのか?」
 葵は一瞬、その財相の早い反応に違和感を感じた。
 シャ-ロット刑事が葵と同感だったのか、けげんな表情で財相を見た。
「Mr・オギはフランクをご存じですか? 拉致グル-プはアラブ系でしたが」
「いや。あのシルトホルンで見かけただけだが……」
 ヘリは、夕陽に染まるまだ白銀がまばらに残る山々を背に高地を抜けると、U字型にカ-ブするア-レ川に包まれた丘の上にある8百年の歴史を誇る中世都市、スイスの首都ベルンの上空に差しかかかるとヘリはゆっくりと高度を下げた。
 ライアン刑事が、葵たちに配慮してしてか、いくらかでも地上の景色が見えやすくなるように高度を下げ、スピ-ドも極端に落としている。
「すてき! 噴水が多いのね?」
 葵が感動すると恵子と美代も下を眺めた。夕闇に染まるニ-ディク橋から大寺院、時計塔などが見えて、その周辺のあちこちに噴水がある。美代が説明した。
「あの橋からクラム通り沿い周辺には、有名な噴水だけでもいっぱいあるのよ」
「どんな?」
「使者の噴水、正義の女神の噴水、旗手の噴水、サムソンの噴水、モ-ゼの噴水、ツエ-リンゲンの噴水、食人鬼の噴水、銃士の噴水、石弓の射手の噴水など……もう、凝ったものがいっぱい、それぞれが歴史を物語っている作品なのね」
「駅が見えるわ」
「ベルン駅ね。その上の建物がスイス国鉄本部、その隣がベルン大学……」
 シャ-ロット刑事が補足する。
「ベルン駅前のシュバイツァ-ホ-フ・ホテルもおすすめね。五つホシよ」
 すでに夕暮れ時、町の灯が輝いている。美代が続けた。
「ホテル・ベルヴェパラスのレストランも、アルプスを眺めるのに最高ですって?」
 ようやく機内の雰囲気が和んで来た。
 シャ-ロット刑事が窓から下を眺め、日本語で叫んだ。
「ビ-ル湖よ。とおくにヌ-シャテル湖も見えますよ」
 夕映えの中にスイス最大の湖が紅に染まって光っている。
 ジュラ地区を通過すると、いよいよフランス領に入り、やがて、夕暮れの中にベルフォ-ルの町が見えてきた。
「のどかでいい町なのに、ここも少しづつコカインにオカされてるんです」
 シャ-ロット刑事が誰にともなくしみじみと語りだす。
「これは、この町だけのモンダイではありません。
 フランスもイタリアもドイツも……セカイで一番に病んでるアメリカでは今270万人以上といわれるマヤク常習者がいて、ハイスク-ルの生徒の50パ-セントがマヤクのケイケンがあるというマッキテキ現象になっています。
今ではロシアでも同じです。
 ロシア全人口の1%、150万人以上がすでにマヤクの害にオカされています。こんなジョウキョウですから、セカイ有数のマヤク生産地といわれるゴ-ルデン・トライアングル、組織的な北朝鮮マヤク密輸団、ロシアマフィア、コロンビア、ボリビアなどのシンジケ-トがヨ-ロッパ各地のブラック組織と手を結んでマヤクによる世界制覇を狙うことになるのです……日本はどうですか?」
 美代の表情がかげった。

 

2、空の旅(2)

「今の日本は、世界中の麻薬ブロ-カ-から狙われています。
 彼らから見れば、日本は安定して需要の見込める市場です。莫大な利権が眠っているところに群がるのは暴力団だけではありません。今、私たちは、人間をダメにし命を縮める悪魔の白い粉に群がる人達と闘っています。今日も、一般観光客に紛れて日本からも新婚のフリをしたタレント上がりの運び屋が来ていました」
「そのタレントは、マヤクブロ-カ-ですか?」
「いえ、誰かに頼まれて運ぶだけの役割と思われます」
「その人たちはどうしました?」
いつの間にか姿を消しましたが、あとで成田空港の係には連絡をしておきます」
「ロ-プウエイのフモト駅でもスイスのポリス・チ-ムがネットを張り、あやしい人をチェックしてます。でも、なかなか持ちモノのチェックはむずかしいですね?」
「たしかに……でも、カレラをアヤツっている人間こそニクむべきですネ」
「ここにも、その流れに巻き込まれた犠牲者がいます」
 美代が悲しい目をして振り向き、草苅秘書の遺体がある後部収納スペ-スを見ると、シャ-ロット刑事が頷いた。
「Mr・クサカリはギセイ者ですが、パリで死んだMr・サコマルもお気の毒でした」
 それまで目を閉じてい小城財相が口を開いた。
「迫丸君は、なぜ殺されねばならなかったんだね?」
「それはイマ、チョウサ中です」
「迫丸君は、私の秘書としての判断で行動していたのは間違いないと思うが、拉致したグル-プが麻薬密売組織と知って、その実情を探るべく取り引きしたとも考えられるな」
「それが、なぜ?」
「彼らの組織を甘く見て、身元がバレて疑われたというケ-スも考えられる」
「昔の麻薬取締官の本性が出たということですか?」
「たが、悪を取り締まるために深入りして倒された。いやしくも麻取り(麻薬取締官)だった迫丸君は、法を犯してまで私利私欲に走るはずがないからな」
「だとすると、Mr・サコマルが、EUマフィアのサブボスでもあるパゾリ-ニと会っていたのは、なにがモクテキだったのでしょう?」
「それは、わしが知りたいことだ」
「Mr・サコマルはアナタの秘書です。なにもかも知ってるのはオギ大臣、アナタが一番……チガイますか?」
「いい加減な推測は迷惑だな」
 葵がシャ-ロット刑事に聞いた。
「迫丸さんは、誰かを裏切ったために、消されたってことですか?」
 財相が思慮深い顔で呟いた。
「あり得ないことだ」
 ベルフォ-ルの町を過ぎて、また深い森林地帯にさしかかった時だった。
 操縦席のライアン刑事が何かを発見したらしく腕を延ばして指をさし、フランス語でシャリ-刑事を呼んだ。
「あれを!」
 シャ-ロット刑事だけでなく居眠りをしている二郎を除く全員が、ライアン刑事の指さすラングレ高原の上空方向を見た。
 夕焼け雲が燃えているように赤い。その雲の切れ間にキラキラと光る機影がある。
「やっぱり予告通りに襲って来たのね?」
 シャ-ロット刑事が、みんなにも分かるようにライアン刑事と英語で話した。
「逃げきれる? それとも戦うことになるの?」
「多分、あの機影だと軍用双発ジェットヘリBO105LSAの3型機で、警察用とは性能が違いますから戦っても勝ち目はありません」
「うまくいけば逃げきれるかしら?」
「無理です。こちらは重量制限ぎりぎりまで積んでいますしスピ-ドが違います」
「どこで仕掛けるつもりかしら?」
「この辺りは森ばかりで目撃者はいないでしょうから、ここを狙ったのでしょう」
「いまから応援を頼んだら?」
「連絡はしますが、もう間に合いません」
 ライアン刑事が、機内に備え付けの無線でクロ-ド警視に連絡して早口に話したが、すぐシャ-ロット刑事に代わった。シャ-ロット刑事が言葉少なに「ウイ」、と答えて電話は切れた。
 早口のフランス語の会話で、意味が通じないから財相が焦る。
「なんて言ってるんだ?」
 シャ-ロット刑事が日本語で答えた。
「クロ-ド警視から脱出を命じられました。パラシュ-トは格納庫にありますので全員装着願います」
 この時点ではまだシャ-ロット刑事の口調に焦りはなかった。
「パラシュ-ト? それより武器はあるのかね?」
 財相の問いをシャ-ロット刑事が通訳すると、ライアン刑事が答えた。
「この機には、シュタイヤ-AUGGA42連発マシンガンが2丁、後部の武器ケ-スに常備してありますが、それより、早く脱出を考えてください」
 シャ-ロット刑事がそれを全員に伝えた。いや、一人だけ空の上なのに舟を漕いでいてそんな大事なことを聞いていない者がいた。
「海原さん。起きてください!」
 葵が、かなり乱暴に二郎をゆすって起こしている。
 

3、絶対絶命(1)  

 急に起こされた二郎は、食事の夢でも見ていたのか口をもぐもぐさせ、あくびをしてから葵を見た。
「もう、着いたのか?」
「いいえ、まだです。いま、敵に襲われそうなのです」
「オレはもう結構、もの書きがこれ以上危険な目に遇うなんてご免だね」
「でも、これが現実ですから仕方ないでしょ?」
 小城財相が箱からマシンガンを取り出すと、葵と恵子がパラシュ-トを見つけて全員に配った。シャ-ロット刑事が装着方法を教えた。
「いいですか。ここは高度が足りません。早く開かせるために飛び出して5を数えたら、このトッテを思いっきり引いいてください」
 ライアン刑事が英語で叫んだ。
「早くパラシュ-トザックを装着してください。いま山岳地帯上空千200メ-トル、パラシュ-ト降下には高度が足りません。直ちに2千500まで高度を上げ、安全性を考慮して着地に適した草原上空まで飛びますので、そこで降下してください」
 上昇限界6千メ-トル以上の性能をもつユ-ロコプタ-AS350B改良型ヘリは一気に高度を上げた。美代がザックを装着しながらシャ-ロット刑事に話しかけた。
「多分、展望台レストランのウエイタ-にも彼等の仲間がいて、私たちの動きをキャッチして、仲間に知らせたんですね?」
「でも何故、そこまでして、この機を狙うのかしら?」
 葵が疑問を呈し、二郎が物憂げに応じた。
「当たり前だ。生きていられては困る人がこの中にいるからさ」
 全員が財相を見た。
「なんで、わしが邪魔なんだ?」
「ラチされて彼らのジッタイを知ったからでしょ。もうすぐ降下可能になります」
 シャ-ロット刑事の言葉を聞いたライアン刑事が叫んだ。
「もう間に合いません!」
 全員が窓から雲間を見つめると、その言葉を裏付けるように、敵の双発ヘリの機影がみるみる大きくなって来る。こちらが思ったより高性能機だったのだ。
 機銃の操作を確認した財相が、ライアン刑事に英語で叫んだ。
「後部から狙われると勝ち目がない。一回転して回り込み横付けしてくれ! 横から撃ってみる」
「了解! 方向転換してすれ違います」
 機が大きく傾いて方向を変えると、一瞬、敵機とすれ違うかたちになった。
 敵機から撃つ機銃の発射音はエンジン音で消されるから、機体への適中弾があってから気がつくことになる。バリバリという激しい音がして機体の後部に穴が開いたらしくシュウ-シュ-と風を切る音が不気味な悲鳴を上げている。
「おのれっ、フランクめ!」
 思わず口走る財相の声も、機内ではじける銃弾音に消されて誰の耳にも入らない。
 機のスピ-ドが一気に落ち、横滑りしながら高度を落として機首を反転させると、機首を上に向けて速度を上げていた敵機があわてて機首を下げた。お互いの機体が猛スピ-ドですれ違った。敵の機関銃は数丁、銃座にしがみつく数人の男が見えた。
 窓を開けた財相が窓枠を台座にして銃を撃ちまくり、空薬莢が乱れ飛ぶ。これだと敵味方の条件は五分と五分になるから充分に戦える。ただ、気流の流れが悪いのか機体が激しく揺れて狙いが定まらない。従って成果は分からないが、それはお互いさまだ。
「よしっ。もう一度、この手で行くぞ!」
  財相が叫んだので二郎も見よう見まねで機銃を手にした。財相が微笑んだ。
「今度は銃が2丁だから勝てるな。横から来るぞ!」
 敵機が思わぬ方角から現れた。雲の切れ間からこちらの横腹を目掛けて突っ込んで来るのだ。ライアン刑事がスピ-ドを落として機首を相手に向けた。またすれ違いざまに撃ちまくる手だ。ところが敵が読んでいたのか、この作戦が裏目に出た。
 敵機は極端に速度を落として真っ正面から操縦席のライアン刑事を撃って来たのだ。機内に金属音が鳴り、敵の機銃弾が真正面から間断なく機体を貫き、操縦席のライアン刑事が頭を下げて倒れ伏した。
 敵機が頭上を超え、こちらの機体がユックリと傾いて失速して落ちて行く。葵が駆け寄るとライアン刑事の肩と左腕上部から血が噴いている。二郎が機銃を投げ出して操縦席に向かった。

 

4、絶対絶命(2)

「しっかりしろ!」
 意味は通じないのに日本語で叫んだ二郎が葵と力を合わせて、気を失っているライアン刑事を引き出すと、二郎が操縦席に入って、すぐ機の落下を防ぐべく操縦桿を握った。
 美代と恵子も手伝って機内にライアン刑事を横たえ、葵がすかさず自分のショ-ルで傷口を押さえ、止血剤を用いて応急処置を施す。ライアン刑事が目を薄く見開いた。激痛で一時的に失神していたらしいが敵弾は急所を避けていたから命に別状はない。
「ワシが仇を撃ってやる!」
 財相が血相を変え、窓際で機銃を抱えて空を見回している。
 操縦席に座った二郎は、サイドスティックを握りハンドリングレバ-を引いて機体の立て直しを計ったが、時すでに遅かった。落下するヘリを敵の機銃が執拗に追って来る。
「もう。とび出すには高度が足りません」
 下を見たシャ-ロット刑事が絶望的に叫んだ。
 この時、葵は生まれて初めて死の恐怖を感じた。
 このまま死んだら両親や姉妹は悲しみに暮れるだろう。だが、葵のために身体が枯れるほどの涙を流してくれる男がいないのは辛い。死ぬのが怖いのではない。生きているときに愛し愛されることをしなかった自分が辛いのだ。仕事はせいっぱいやったからカインド出版に借りはない。二人の同僚の悲しみは辛いがそんなことはどうでもいい。自分だけのために死ぬほどの愛を注いでくれる人が欲しかった。
 トルストイは、先人の言葉をすべて要約した教えとして「人生とは人を幸福にする愛にほかならない……」と人生を定義し、自己中心の虚しさを説きながらも、自分は死の恐怖におびえて生きた。それは、死んでもいいほどの愛を知らなかったからではないか?
 もしも、もう一度、人生がやり直せるならば、「愛し愛されて死んでみたい!」……こう思ったとき、いつも「同じく」のつまらない返信ではあったが、たった一人だけでも自分のメ-ルに常に裏切ることなく反応していた男がいたことに気づいて愕然とした。
 もしかしたら、あの男も孤独だったのではないか? 帰ったら「逢いたい」とメ-ルしてみよう。きっと、「同じく」と返事が来るはずだ。
 その時、無粋な髭男が操縦席から叫んで葵の夢を破った。
「いよいよ来るぞ!」
 敵の戦闘用ヘリは、兎を襲う狼のようにゆっくりと止めを刺しに接近して来る。もう逃げきれない。小城財相は機銃のリア-とフロントサイトを覗き、トリガ-に指を掛けたまま、双発の狼が近づくチャンスを待っている。
 二郎はベルトからS&WM66を抜き、弾丸があるのを確認して撃鉄を起こした。
 機体を何とか立て直しながら操縦席右側の小窓を開ける。機内の空気は銃撃されて開いた穴から吹き込む冷気で急速に冷え、零度近くになっている。
 二郎は鋭く機首を相手のヘリの正面に向け、スロットルを全開して突っ込んだ。
 敵のパイロットが慌てて正面衝突を避けるため斜め下に機首を下げ交差した。二郎が右の小窓から手を伸ばして敵機のパイロットを狙い撃って連射し、一瞬だが相手がうつ伏せに倒れるのを見た。と同時に、財相の機銃が火を噴いた。財相は一瞬の交差の中で狙いを燃料タンクに絞って連射し、見事に目標の燃料タンクを撃ち抜いたのだ。
 見事な腕だった。
 火を噴いた敵機は、きりもみ状態で低い雲間から針葉樹の森に消えた。
 その直後、大きな爆発音が森にこだまし、樹木を巻き込んだ紅蓮の炎が夕空高く噴き上がって背後に遠のいてゆく。
戦いは終わった。
 二郎の必死の運転で辛うじて墜落を免れたユ-ロコプタ-は、ようやくバランスを取り戻して水平飛行に移った。窓を閉めても、弾道で開いた穴からヒュ-ヒュ-と音を立てて細かい風が吹き込み、機内は冷えてはいたが生きている喜びには寒さなど気にならない。
やがて、広大な森林帯を抜けると一筋の川が見えた。
「セ-ヌ川よ!」
 シャ-ロット刑事が涙声で嬉しそうに叫ぶ。葵は嬉しかった。もう何の欲もない。涙が止めどなく流れて来る。葵はこうして命があるだけでも充分のような気がした。
 恵子が泣きじゃくりながら葵に抱きついた。葵は、あの回転レストランで二郎に抱きついて泣いた時の温もりを思い出しながら、恵子をきつく抱きしめた。
 シャ-ロット刑事と握手をした財相の表情にも笑みが浮かんでいる。それは勝利を噛みしめる顔でもあった。ただ、操縦席の髭男だけは必死で操縦桿を握っている。
 まだ、安全に着地するまでは油断がならないのだ。

 

5、パリの灯(1)

 ともあれ、これでパリに帰れる。
 肩と腕に傷を負ったライアン刑事も意識を取り戻し、美代から水を飲ませてもらうと元気が出たらしく、周囲と会話を交わし始めた。葵や恵子の献身的な介抱で傷口の痛みも和らいでいる様子だった。
 ライアン刑事の命に別状がないのを知り全員がホッとした様子で機内の空気がなごみ、眼下の景色を語り合う余裕も出た。ただ、二郎だけは慣れない操縦で緊張し続けたためか風景どころではない。操縦に迷いがあったらしく、ライアン刑事の意識が戻ったとたんに日本語で質問を浴びせ、シャ-ロット刑事が訳した。
「この制御機器は複雑過ぎる……どう使うんだね?」
 二郎が便乗したことのある警備会社の救助ヘリはベル206の旧タイプだったから、この機に装備されている自動飛行制御装置(AFCS)とは初めての出会いで、全く何がなんだか分からないのだ。
「これはFBW、フライ・バイ・ワイヤ-方式といいます」
「聞いたことないな」
「これは、操縦のメカや操作量をエレキ・シグナルにおき換えて、コンピュ-タでオペレ-ションしながらベストな指令をそれぞれの部分に送るというニュ-・システムです」
「カタログを読んでるようで、さっぱり意味が通じないよ」
「でも、さいきんでは日本のヘリでも用いられているそうですよ」
「最近もなにも、オレは一回しかヘリに乗ったことがないんだ」
「えっ、まさか! それで飛んでたんですか?」
「そうだ。まだ着地の仕方は知らないからな」
「そんなの、じまんしないでください」
 シャ-ロット刑事があわててライアン刑事に状況を説明し、助言を求めた。
「むずかしければ、ハンドでもOKだそうです」
「手動でOKなら有り難い。慣れない最新のメカなんてオレには無理だからな」
 最初から難しいことを二郎は理解してなかった。だから飛べたのだ。
「とにかく、やってみる」
 夕闇の迫ったブルゴ-ニュ地区北方の産地を裂いてセ-ヌの流れが青白く曲がりくねって視界に入った。川に沿って、シャチョンセ-ヌ、ノジャンシュルセ-ヌ経由でパリに入る。二郎がシャ-ロット刑事にコ-スを聞いた。
「川沿いでいいのかね?」
「セ-ヌに沿って飛べばパリです。ここは、オルリ-空港上空だけがセイゲン空域ですから、そこを避ければいいだけです。ここからは、観光を兼ねたフライトですね」
「じゃ、案内を頼むよ」
 シャ-ロット刑事が操縦席の二郎の背後に身を寄せ、操縦のアドバイスと観光ガイドの両方を勤めることになった。この場合、日本語が堪能だから助かる。
「このヘリはいま、パリ東南六十キロのフォンテヌブロ上空をフライト中です。
ここからボワシ・サン・レジェ方面、バスチ-ユ広場を抜けて飛びます」
 ヘリから見ても、すでに太陽は西の地平線に隠れ、地上はすでに夕暮れている。
 それでも、夕闇に黒々と繁る森に囲まれて、湖が光っている。池の中央にある二つの島も緑から黒に変わるつつあった。
「あれは?」
 と、葵が美代に聞いた。
「あの湖はドメニル湖、森に沿ってアフリカ・オセアニア博物館がありますね。
もうすぐリヨン駅が見えますよ」
 フランスの誇る新幹線TGVの発着駅としても有名なリヨン駅がセ-ヌ川にかかるベルシ橋の右側に見えてきた。その夕景を眺めた小城財相が懐かしげに話した。
「昔は、日本からの洋行と言えば船でマルセ-ユまで来て、そこから鉄道でリヨンに来たものだ。わしも何度か、ここに来ているんだ」
 財相が目を細めて、シャ-ロット刑事に聞いた。
「この由緒ある建物の中に“ル・トランブル-”というレストランがあったが……」
「今でも、旅客に利用されていますよ」
 セ-ヌ川の左岸には地下鉄の乗換駅でもあるオステルリッツ駅があり、その先のオステルリッツ橋上空からは右岸のパリ県庁、左岸のパリ第六、第七大学の建物、シェリ-橋、そして、サン・ルイ島を象徴する協会の建物が見えてきた。
 やがて川が二股になり、ノ-トルダム寺院の尖塔が見えた。ようやくシテ島にたどり着いたのだ。
 エンジンが音がプスプスと断続的に切れ始め、二郎が叫んだ。
「燃料ゲ-ジを見ると、もうカラカラだぞ!」
「もう一息ですから」
 シャ-ロット刑事が、機内の無線を用いて着地の連絡を取った。
 ノ-トルダムの大聖堂の伽藍が夕闇に浮かび上がって近づいてくる。
 パリの心とも言われるゴシック建築の代表的大聖堂だけに、その威容は宵闇の中でも群を抜いている。1958年に修復されたという尖塔、387段の階段で屋上に上れる北塔と13トンの鐘がある南塔などが幅48メ-トル、奥行き130メ-トルという大聖堂の上部にそそり立っていた。
 大聖堂とその先のシテ島の半分の面積を占める最高裁判所の大きな建物の間に、パリ警視庁、最高裁判所の小さな建物と、市立病院の大きな建物がある。
 小さな箱に大きな箱を接着し上蓋を取ったようなパリ警視庁の中庭にヘリコプタ-が着地しやすいように照明が用意されていた。
 二郎がライアン刑事の指示通りに操縦し、上空から垂直に減速したヘリはゆっくりと下降を開始した。シャ-ロット刑事が財相に話しかける。
「着地する前に、少しお聞きしてもよろしいでしょうか?」

 

6、パリの灯(2)

「なんだね?」
「Mr・サコマルについてレポ-トを出します」
「わしは救出されるまで迫丸の死を知らなかった。どんなレポ-トを出すのかね?」
「まずMr・サコマルについてですが、カレは大臣の知らない間に、コカインなどのヨ-ロッパ密輸ル-トを調べるためにパゾリ-ニという男に会い、前職を見破られて殺害された。大臣はそれを知らなかった。それでいいですね?」
「なるほど……で、犯人は?」
「Mr・サコマルにパゾリ-ニが毒入りのタバコを渡した、という説もありますが、これはパゾリ-ニの取り調べで明らかになります。でも、直接の死因は拳銃による殺傷ですからね。犯行当事の目撃者もいますし、今回の逮捕者の中に必ず指示を出した者がいるはずですから真犯人の逮捕は時間の問題ですよ」
「そうなれば、日本で裁判にかけるために、引き渡してもらうことになるかな?」
「それよりも、Mr・サコマルの奪われた皮カバンの中身が問題になる可能性がありますが、それについてはなにかご存じですか? いずれ、犯人が逮捕されれば解決されることです」
「秘書がプライベ-トで持ち歩いたカバンなどに、わしは興味ないね」
「分かりました。調書にはそのとおりに記載します」
「好きにしてくれ」
「次に、Mr・クサカリは、捕らえられても大臣のブジを祈っていたようですね」
「ワシも同じ気持ちだった」
「大臣がキケンを省みずレストランにとび込んだときも、必死で大臣の身を思って叫んでいましたね。それが、戦いのサナカに撃たれました」
「名誉の戦死だな。わしも感謝しとるよ」
「Mr・クサカリは、オギ大臣が射殺したあのアラブ人の誤射で死んだと?」
「それ以外に、どう考えるのかね?」
「では、オギ大臣は敵討ちであのアラブ人を撃ったのですか?」
「あれは正当防衛だ。あのままにしたらワシが殺されていた。その前に彼の手元が狂って草苅を倒していたのにワシは気づかなかった」
「でも、あの男の拳銃はスイスの軍用銃で38口径で、9ミリ弾でした」
「だから何だ?」
「Mr・クサカリがうたれたのは48口径弾です」
「48? ワシは銃には詳しくない、どんな銃か見たいもんだな」
「これ以上は言うひつようはありません。オギ大臣とは関係ありませんから」
「あたりまえだ。関係あってたまるか!」
「ところで、大臣からはMr・クサカリの姿は見えましたか?」
「ワシからはテ-ブルが邪魔して、彼の姿はまったく見えなかった。それは、そこにいる海原君も同じ状況だったから、そう証言するだろう。おい、そうだな?」
 操縦室の髭男が、無言で頷いたのを葵が見た。
「これでケッコウです。いまの一言を聞きたかっただけですから」
「今の一言とを聞きたいとは何だね?」
「わたしはまだ、ニホン語の言いまわしがニガテですので、もういいです」
「気になる言い方だな」
「いえ、もう、これで気がすみました。ここからは深入りしたくありませんので」
 ふと、葵は会話の不自然さに気づいた。
(あの会話で何かが……?)
 財相が「テ-ブルが邪魔して」、と言った言葉が妙に気になる。シャ-ロット刑事はそれに気づいて「ニホン語の言いまわしがニガテ」と皮肉ったのではないだろうか。本来なら、テ-ブルは邪魔ではなくて身を守ってくれていたはずではないのか……あのテ-ブルが邪魔していなかったら、どうしたというのだろうか?)
 そこからは霧が沸いたように見えなくなり、葵の思考はそこで止まった。葵には見えない闇が不気味に広がっているような嫌な予感がする。
 その葵の不安を払拭するように、シャ-ロット刑事がさっぱりとした口調で言った。
「オギ大臣に、クロ-ド警視からの伝言がありました」
「なんだね?」
「私たちは面倒を好みません。大臣が無事だったことで充分満足しています」
「それは嬉しいな」
「一刻も早くパリからおたち退きを……とのことでした」
「有り難う。ご好意に感謝する。と、伝えてくれたまえ」
 大臣が納得したように軽く頭を下げた。
「もうひとつ……」
「なんだ、まだあるのかね? 早く言いたまえ」
「さきほど、わたしたちをオソッて来たヘリの件ですが、どうレポ-トします?」
「どういう意味だね?」
「いずれ、あの燃えた双発ヘリから焼死体も見つかります。まさか、オギ大臣と民間のガ-ドマンがマシンガンとハンドガンでオトしたとは言えませんからね」
「では、どうしろと?」
「ライアン刑事とミヨとわたしとで応戦したことにします」
「好きにしなさい」
「これで、すべてカイケツしました」
 葵は、この会話に耳を傾けながらなぜか納得できない矛盾を感じていた。
(これで、ここでの事件は解決する。しかし、これで本当にいいのだろうか?)
 この時、葵の胸の奥には不透明な濃霧がもやもやと 大きく広がるのを感じていた。
 ライアン刑事の指導でヘリが徐々に降下し、土埃を巻いて中庭に降り立った。
 すでに、日本の小城幸吉財務大臣救出の噂は早くもパリ中どころか世界中に広がっているらしく、パリ在住のマスコミ各社がパリ警視庁の中庭から門外に溢れ、セ-ヌ河畔にまで集結していた。当然、パリ警視庁、フランス政府、日本大使館、日本政府、日本警察庁からの代表や代理人なども出迎えに出ていた。
 ヘリが着地して小城大臣が降り立ったときには、ヘリを囲んで万雷の拍手と声援が夕闇濃いシテ島にこだまし、パリ警察庁吹奏楽隊の演奏がそれを盛り上げた。
 その後で、草苅秘書の遺体が降ろされると、音楽は鎮魂歌に代わり、人々も十字を切ったり合掌したりの静かな出迎えとなった。音楽隊の仕事はそこで終わり、マスコミ各社がマイクやカメラを持って小城財相めがけて殺到し、それを阻む警察官と揉み合いになって怒号が飛び交い騒がしくなっている。
 二郎が必死で財相を警護しようとするが、皮のハ-フコ-トに髭面の男を誰もボディガ-ドとは見てくれない。寄ってたかって二郎を取り押さえようとして乱闘になりパニック状態になる。あわてて駆けつけたシャ-ロット刑事の通訳で、二郎はようやく開放されたが、どさくさに紛れてマイクで強打されたらしく額が腫れて血が滲んでいた。まったく世話のやける男だ。それに気づいた葵が、近づいて応急の手当てを、と思ったが人込みに阻まれて、とても近づけるような状態ではない。それと、ケガをしたライアン刑事を警官や美代と共にに手伝ってもらって機体から降ろそうとしている恵子に手招きされ、そちらに向かった。それに気づいた取材陣が葵を追う。
 シルトホルン山頂での3人娘の活躍がすでに尾ヒレを付けて伝わっていたのだ。とくに、日本のマスコミ関係者からみれば、通訳が要らないから恰好の標的になり、こちらも質問の嵐が襲うことになる。
 まず、担架に移されたライアン刑事のことで、葵に質問が出た。
「そのケガはどうされたのですか?」
 横から美代が助け船を出す。
「麻薬密売組織との戦闘での名誉の負傷です」
 なかには担架に首を突っ込んでマイクを突きつけ、傷の痛みで呻いているライアン刑事に質問をぶつけている外人レポ-タ-もいた。
 それに気づいた数人の警官が走り寄ってライアン刑事を運ぶ役割を代わり、美代も一緒に医務室に向かった。残された葵と恵子が日本の取材陣のタ-ゲットになり、カメラや写真のフラッシュに囲まれて逃げることも出来ない。
「お二人のお名前をお聞かせいただけますか?」
「それは遠慮します。単なる観光客に過ぎませんから」
 葵の背中を押した恵子が背後にまわったために、葵が仕方なく取材の矢面に立つ。自分たちは単なる観光客で、巻き添えに会っただけだ、と必死で弁明する葵の言葉を聞いて、「はあ、そうですか」と、簡単に引き下がるほど異境での取材に生活を賭ける取材陣は甘くない。
「では、アルプス観光中に偶然、今回の麻薬組織の逮捕劇に遭遇したんですね?」
「そうです」
「日本の警察からは、ICPO研修生の浜美代巡査部長が参加していますね?」
「そのようです」
「その浜巡査部長とお二人の関係は?」
「大学時代の同窓生です」
「と、いうことは捜査情報を浜巡査部長から事前に入手していたのですか?」
「いえ、まったく知りませんでした?」
「でも、偶然にしては変ですね?」
「なぜですか?」
「お二人が観光に来て偶然出会った事件に同級生がいて、それに協力した?」
「おかしいですか?」
「お二人は最初から浜巡査部長に頼まれて、本気で協力したのではないですか?」
「なぜ、そんなことを?」
「実は先ほど、ヒルトホルン山頂に飛んだ別の取材班がレストランの従業員らから聞いた情報によると、日本の女性3人が目ざましい活躍をしていたそうです」
「誰か別人じゃないですか?」
「髪の短い女性と髪の長い女性と警官らしい女性の若い3人組だそうで、財相を乗せたヘリでパリに向かったそうですから、あなた方に間違いありませんね」
「いえ。人違いだと思います」
 そのうち、どこからか二人の名前を聞き出した記者が現れた。
「山田葵さん、佐竹恵子さん……そうお呼びしてよろしいでしょうか?」
 こうしてNHK支社のアナウンサ-の代表質問から始まり写真が撮られ、民放や新聞からも質問が続いて葵が返事に窮しているところにシャ-ロット刑事が現れた。
 こちらも、小城財相を囲んで取材攻勢に辟易して逃げ出して来たところだった。
 葵の困惑した状態を見たシャ-ロット刑事が、英語と日本語で助け船を出した。
「お二人は観光で来ていたのですが、わたしたちに協力していただきました。その件については、のちほど広報からくわしく発表しますので、ここまでにしてください」
 質問責めにあったシャ-ロット刑事が、取材陣を軽くいなして会見を終えた。
 二郎がシャ-ロット刑事を見つけて、ホッとしたように近寄った。
「刑事に頼みがあります」
「デ-トならお受けしますよ。あなたには全員が命を助けられましたから」
「デ-トはまた……所持していた拳銃と使用済みの弾は全部、機内に置いてきました」
「トカレフだけは、こちらで預かりましたが……」
 傍にいた葵が二郎の横顔を見た。
 やはり、この人は、ロ-プを用いて雪の中から拳銃を探したのだ。まさか、そのトカレフが、草苅秘書のからだを貫通した48口径の銃弾などということは?」
 そこでまた葵の思考が止まった。あり得ないことを考えたからだ。

 

7、パリの夜(1)

 葵たちはまだ開放されなかった。
 パリ警視庁での簡単な形式だけの調書取りのあと、シャ-ロット刑事の案内で、急いで駆けつけた日本大使館の守口大使とオギ財相と葵ら女性3人と二郎を交えた日本組全員で総監室に立ち寄ると、ロメ-ル総監が歓迎の握手で出迎えて、応接室でカプチ-ノ・コ-ヒ-とケ-キで歓待した。
 シャ-ロット刑事が今までの経過を報告すると、ロメ-ル総監が小城財相をはじめ全員に肩を抱いて大げさに感謝の気持ちを表し、言葉を添えた。
 それを、太めで品のいい守口大使がメガネに手を当ててから翻訳する。
「日本の方々がいかに勇敢であったかは、クロ-ド警視から電話で聞いてはいましたが、今、あらためて報告を受け、オギ大臣をはじめ、みなさんが大変な働きであったことを再確認しました。おかげでEUの主な麻薬マフィアを逮捕することができました。オギ大臣の二人の随員の死はお気の毒でした。心からご冥福をお祈りします。しかし、さまざまなご苦労はお察ししますが、大臣がご無事であったことは日本とフランス両国にとっても何よりもラッキ-な出来事でした」
 ロメ-ル総監が、小城財相をはじめ葵ら全員にダンヒルの製品をプレゼントしながら握手をしてから深い謝意を述べた。葵ら女性3人にはシルクのショ-ルが送られ、財相と髭男の二郎には金張りのライタ-が贈られた。
ロメ-ル総監は、この夜は祝賀の準備もなくて、と詫び、翌日に急遽予定された日本大使館主催の昼食会には、パリ市長らと共に出席すると約束した。これで、波乱に富んだ一日が終わった。
 パリの骨董横町で死んだ迫丸圭一の遺体はすでに司法解剖を終えてある翌朝、霊安所で日本から来る家族との対面を待つことになっていた。家族はすでに成田空港を立ったという。遺族の確認を待ってパリ郊外の斎場に行き、お骨になって帰国することになる。
 草苅武夫秘書の死もシルトホルン山頂からの連絡により、すでに日本大使館経由で警察庁、警視庁および家族に知らされていた。本来は遺体を解剖し、家族の到着を待って斎場に行くべきだが、小城財相がすべての責任を負うということで、特例として夜のうちに焼却に付して財相が帰国時に持ち帰り、成田空港で財相から遺族に手渡されることになっていた。そのお骨は、遺族を含む関係者および元同僚の警察幹部などから、盛大な出迎えを受けることになった。
 警察庁、警視庁、千葉県警からも本部長が出席するという。
 どこから要望が出たのか、浜美代も財相と同じ便で帰国することになった。
「わたしは明日、クロ-ド警視とダニエル警部らの帰還を待たずに、しかも、研修なかばにして帰国するのは残念だけど、葵たちは?」
「わたしも恵子も、せっかくのスイス観光が日帰りでパリに逆戻りなんて消化不良もいいとこよ。今度はしっかりとオルセ-、ル-ブル、ベルサイユ宮殿なども見てくるわ。あと三日もあるんだから」
 パリ警視庁の建物を出る前に、守口大使が財相や葵たちをディナ-に誘った。
「今から食事しませんか?」
「今日はワシがおごろう」
 すかさず財相が言った。
 葵はラフな服装で汗くさく汚れた自分を考えて、ホテルに戻って一刻も早くシャワ-を浴びたかったから丁重に断った。しかし、回転レストランでの食事を邪魔者の乱入でやむなく中断させられ、空腹に耐えかねていた恵子が葵の肘をつついて囁いた。
「お腹が空いてるんだから、ご馳走になろうよ」
 その声を聞いた途端に、葵の気持ちが変わった。シャワ-よりは食欲が優先する。
 結局、財相のポケットマネ-のおごりで食事に行くことになった。
    

8、パリの夜(2)  

「守口大使、車は2台かな?」
「少し窮屈ですが、5人ですと私の車で乗れないことはありませんが」
「よかろう。マキシムはどうだ?」
「いいですね。あの店は大使館でもよく使ってますから」
 結局、守口大使の車の助手席に財相、後部座席に恵子と葵が先に乗り二郎が続いた。葵が真ん中で二郎と接することになったが、お互いに遠慮して腰が接しないようにするから恵子が狭くなって怒る。
「葵はもっと、そっちに寄りなさいよ。遠慮する理由はないんでしょ?」
「分かった。そうする」
 葵が、遠慮なく二郎の腕をとって極端に膝を寄せたから、今度は恵子が怒る。
「そこまではやり過ぎでしょ。いい加減にしてよ!」
 固くなった二郎が意味のないことを口走る。
「大使。これ、いい車ですね? シトロエンですか?」
 逆V字重ねのマ-クを見て言っただけなのに大使が嬉しげに応じた。
「あなたもこの車が好きかね? これはC6と言って、TOV型6気筒のDOHCエンジン搭載のシ-ケンシャルモ-ド付き電子制御6速オ-トマチックトランスミッションの融合で生み出された名車だよ。このエンジンで2007年のアルゼンチン世界ラリ-選手権で優勝したんだが、車体がアルミで軽いからテスト的には時速300キロ以上を……」
「これ以上飛ばすとヤバいですよ。優勝したのは大使じゃなくてセバスチャン・ロ-ブなんだから」
 急に運転が荒くなるのを二郎がたしなめた。財相や葵たちは聞き役に回っている。
「なんだ、知ってるのか? きみは何に乗ってるのかね?」
「アルミじゃなくて炭素繊維を用いた、チタニュ-ム合金のフィクシ-ものです」
「なんだね、そのフィクシ-というのは?」
「フィクシ-というのは固定されたギア-などで後輪を連結するシテムですよ」
「よく分からんが、どういう効果があるんだね?」
「ブレ-キが要らないんです」
「すごい! どこのメ-カ-がそんなの作ってるんだ?」
「私のはイタリアのビアンキ社製で、かなり中古ですが」
「ビアンキならフィアットに買収されて、今ではイプシロンだろ? 排気量は?」
「排気量? そんなのありませんよ。無公害車ですから」
「無公害でブレ-キもないのかね?」
 財相が口をはさむ。
「それ、モトクロス用自転車じゃないのか?」
 大使があきれ、葵と恵子が顔を見合わせた。話が噛み合うはずがない。
 車は、ジャンヌダルク像のあるピラミッド広場を左折した。助手席の小城財相が窓外の夜景を見ながら懐かしそうに話す。
「この辺りは日本の観光客が集まるところで、ワシも30代だった町会議員時代にはよく来たもんだよ。ウドンやソバのなにわ、寿司のふじた、ラ-メンのひぐま、日本料理のみよしや、焼肉亭、ヤキトリの京屋かな。この先のヴァンド-ム広場を越えると何たって日本人通りって言うぐらいだからな」
 葵も、「みよしや」の浅草本店には行ったことがある。
 大使の車は、レストラン・マキシムの前で停まった。店構えからして格が違う。
 財相が二郎を見た。
「ここなら安心だぞ。日本語のメニュ-があるからな」
 さすがに大使館ご愛用だけあって、カルダン経営のこの店の料理は味にうるさい日本人向けなのか、葵の空腹がそう感じさせたのか、ム-ル貝やヒラメなど魚介類以外に肉料理も出て、口うるさい恵子も大満足の様子だった。
食事中は、人権問題に端を発したパリ市内の暴動問題や治安の悪さ、麻薬問題などが話題になり、麻薬を悪とする財相と、ドイツのように一部解禁してタバコのように喫煙者任せにすべきと必要悪を説く守口大使が激論を戦わせていたが、二郎と葵は中立、恵子は守口大使の肩をもって財相の意見に反発していた。そのくせ財相の奢ってくれた食事は人一倍よく食べている。
 食後のデザ-ト、コ-ヒ-が済んで別れの時が来た。命懸けの体験を共にしただけに、何となく別れの気持ちは複雑だった。
 守口大使の車で小城財相と二郎が先に財相の定宿のオテル・ロワイヤル・モンソ-に、葵と恵子はノボテル・トウ-ル・エッフェルに送られることになった。
 車の中で恵子が二郎に、別れの挨拶をした。
「海原さんはもう若くないんだから、無茶しないでくださいね」
「まだ35ですよ。またどこかで……」
「……お会いすることはないと思いますが、お元気で」
 と、恵子が冷たく言うと、葵があわてて付け足した。
「また、大臣にご馳走になりましょうよ」
 財相が嬉しそうに応じた。
「そうだな。帰国したら海原君とお二人さんを、必ず食事に招待するからな」
 葵はすぐ「ハイ」と頷いたが、恵子がビシッと断った。
「大臣とわたしたちでは立場が違います。時間があったら国政に励んでください」
「手きびしいな。気が向いたら電話でもくれたまえ」
 財相が二人に出した名刺を葵は受け取り、恵子は横を向いて拒絶した。
「かならず電話してお伺いしますが、いいんですか?」
「大歓迎だよ。恋人が許せばだがね」
恋人はまだいません。それに取材ですから……海原さんもぜひご一緒にね」
「当然だよな?」
 財相がチラ見たが、二郎は目を閉じていた。髭男の顔色までは見抜けない。
「海原さん。気が向いたら、是非……お願いしますね」
 葵が狸寝入りの二郎に頭を下げた。葵としてはせいいっぱいの意思表示だった。
 二郎があわてて目を見開いて頷いた。承諾どころか嬉しくて仕方がないのだ。

ホテルの玄関前で小城財相と二郎が車を降りると、守口大使と葵たちは玄関先まで財相を見送り、明日の昼食会を約して手を振って別れた。
車に戻りながら、守口大使が葵と恵子に聞いた。
「このままホテルに? それともディスコかナイトクラブをおごりましょうか?」
恵子が一瞬考えた隙に、機先を制して葵が言った。
「よろしければ、夜のパリをドライブして頂けますか?」
「お安いご用ですよ。ずいぶん欲のないご注文ですな」
「ぜいたく言って済みません」
「皆さん、高級クラブをご希望されますが、これならガソリン代だけですから……でも、車から外には出ないでください。夜のパリは治安が悪く無法地帯ですからな」
こうして、葵たちはシャンゼリゼ大通りから再びシテ島巡りなど、パリの街の夜景を眺めて深夜のドライブを充分に堪能してホテルまで送られ、守口大使と別れた。